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平日の午前中。活気ある声が飛び交うマリン編集部。
そんな中、椅子へ腰掛けてネームへ目を通す歩美さんを前に、オレは内心の動揺を必死で隠しながら直立不動で立っていた。
その姿はまるで悪戯がバレ、女教師に職員室へ呼び出されたヘタレな中坊のようだ。
あのゴタゴタがあった夜から、足掛け五日。どうにかネームを描き上げたオレ達。
そう、今回の話しまでは、前担当編集であった歩美さんの担当なのでネームのチェックをしてもらっているのだ。
明日から産休として、休みに入る歩美さん。何かあったら気軽に家へ来ていいとは言われているけど、出産と言う大仕事を控えた彼女には、なるべく負担をかけたくない。
本格的な長休に入る前に、なんとか間に合ってホント良かった。
相変わらずのおっとりとした笑みを浮かべながら、ネームをチェックしていく歩美さん……
そう、このネームこそ、後半三分の二をオレが描いたモノ――
まだ本原稿ではなくラフなタッチで描いたネームではあるが、この段階でバレる様なら計画はココで終了だ。
順番にネームを捲っていく歩美さんの顔を、ヒヤヒヤしながら見守るオレ。
ちなみに、絵はもちろんの事、文字すら書けない千歳はこの|間《かん》に何をしていたかといえば、オレが持ち込んだ私物のノートパソコンを使ってストーリーやコマ割りの構成なんかを書き出していた。
まあ、オレが会社に提出する書類なんかも作らせていたけど……
パソコンなどという文明の利器に、ほとんど触れた事のない機会音痴の元ヤン女。
まずはローマ字入力のやり方から教えなければならず、余計な時間をくってしまった。それが無ければ、ネームだってもっと早く終わっていたはずなのに……
ただ、そんな機会音痴な女だからこそ、人様にお見せ出来ないような写真や動画なんかは、隠しフォルダの設定をしておけばバレる事などないだろう。
「うん、いいですねぇ、面白いですねぇ~。千菜乃ちゃんの切ない気持ちが伝わって来て、胸がキュンキュンしますねぇ~」
全てを読み終えた歩美さんは、ニッコリと笑って顔を上げた。
その、実年齢よりずっと幼く見える可愛らしい笑顔に、ホッと胸を撫で下ろすオレ。
どうやら、バレずに済んだようだ。
「じゃあ、この前の原稿はボツと言う事にして、このネームで原稿を進めてもいいですか?」
「そうですねぇ~。せっかく描いた原稿なのに勿体無いですけどぉ――確かに、前回のお話しより今回の方がよい感じなのでぇ、メグちゃんがコッチに変更したいと言っているなら、私はOKですぅ」
「ありがとうございますっ!」
笑顔でOKを出してくれた歩美さんへ、オレは深々と頭を下げた。
確かに、完成原稿をボツにするのは勿体無いけど、その原稿は酒びたしの醤油まみれで、すでに『かつては原稿と呼ばれていた物』状態なのだ。
「でもぉ――」
歩美さんは、|徐《おもむろ》にペン立てから赤えんぴつを取ると、ネームをデスクに置いて捲っていく。
「後半のこのコマとこのコマ、それと……このコマ。この千菜乃ちゃんの表情はぁ、|俯瞰《ふかん》じゃなくて|煽《あお》りにしましょうかぁ~」
そう言って、指定したコマに赤えんぴつで『あおり』と書き込んでいく。
「そうですよねっ! オレもそこは煽りの方がいいと思っていたんですよっ!」
少々、大げさに同調しつつも、内心では眉を顰めるオレ。
そう、指定されたそのコマは千歳からも煽りがいいと言われていたけど、オレが強引に俯瞰で描いたコマなのだ。
まあ、そこは確かに煽った方がバランスいいという事を認めるのも、やぶさかではないのだけど……
ちなみに『俯瞰』や『煽り』と言うのは何かというと、キャクターを上か見下ろす構図を俯瞰と言い、逆に下から見上げる構図を煽りと言うのである。
「今から描き直すのは大変だと思いますけどぉ~、メグちゃんにはムリをしない様にと伝えて下さいね」
「はいっ!」
「それから智紀くんもぉ、メグちゃんの健康状態には気を使って下さいよぉ。作家の健康管理もぉ、担当の大事なお仕事なんですからぁ~」
「は、はい……」
間延びした口調に反して、真剣な眼差を向ける歩美さん。
実はその担当する作家が、利き手に大怪我をしてペンが握れません。などとは、口が裂けても言えねぇ……
「休みに入る前に変な手間を取らせてしまって、ホントすみませんでした」
「構いませんよぉ~。私物はもうまとめ終わってますしぃ、終業時間までヒマしてましたからぁ。ところで智紀くんは、これからメグちゃんの所ですかぁ?」
「はい。とりあえず、昼食を食べたら向かう予定です」
昼メシには少し早いけど、今からメシ食って電車に乗れば、ニ時前には向こうに着くだろう。
「そうですかぁ、張り切ってますねぇ。じゃあ、気を付けて行ってきて下さいねぇ~」
「はいっ! 失礼します。歩美さんも身体に気を付けて、元気な赤ちゃんを産んで下さい」
「任せて下さい~。頑張って智紀くんに負けないような、イケメン君を産みますからぁ」
冗談めかしてそんな事を言いながら優しい笑顔で手を振る歩美さんを背に、オレは早足で編集部をあとにした。