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プロローグ 感情を畳むという才能
らんは幼い頃から、空気を読むのが上手かった。
それは褒められて身につけた能力じゃない。
泣きそうになる前に、喉を閉じる。
声を出したいと思う前に、口角を上げる。
何かを期待する前に、「どうせ無理だ」と諦める。
それが、家の中で安全に生きるためのすでだった。
誰も教えてくれなかったけれど、
彼は自然と理解していた。
――感情は、出した方が損をする。
第一章 「何もされていない」という傷
らんの家では、暴力はなかった。
怒鳴り声も、物が壊れる音も、ほとんどない。
ただ、失望の沈黙だけがあった。
テストの点が悪ければ、
「ふーん」と短く言われる。
理由は聞かれない。
改善策も示されない。
良い点を取っても、
「それくらい普通でしょ」と流される。
らんは次第に学ぶ。
頑張っても、頑張らなくても結果は同じだと。
家族の会話は、
彼を中心に回ることはなかった。
話題に出るのは、欠点か、比較か、将来への不安。
「どうしてそんな性格なの」
「もっと普通になれないの?」
その“普通”が何か、
一度も説明されたことはない。
らんは自分を
「出来損ないの未完成品」だと思うようになった。
第二章 心が覚えた恐怖の形
成長するにつれ、
らんは自分の異変に気づき始める。
怒られていないのに、
強い口調を聞くだけで体が硬直する。
心臓が跳ね、手のひらに汗がにじむ。
誰かが不機嫌そうに見えると、
理由を自分に探してしまう。
「俺、何かした?」
と聞く前から、謝罪の言葉が頭を巡る。
夜になると特にひどかった。
布団に入ると、
過去の失敗が何度も再生される。
あの言い方は間違っていた。
あの沈黙は不快だったかもしれない。
存在しているだけで迷惑だったんじゃないか。
眠る直前まで、
らんは自分を検閲し続ける。
それがトラウマだと、
彼自身は知らなかった。
否、思えなかった。
第三章 音だけが肯定してくれた
音楽に救われたのは、偶然だった。
誰もいない部屋で、
小さな音量で流した曲。
歌詞の意味すら、最初は頭に入らなかった。
それでも、
音の波に包まれている間だけ、
胸の奥が少し緩んだ。
評価されない。
比べられない。
「こうしろ」と言われない。
音楽は、
そこにいるだけでいいと教えてくれた。
らんは次第に、
音に気持ちを預けるようになる。
言葉にできない感情を、
旋律の中に逃がした。
第四章 シクフォニで演じた「らん」
シクフォニに入ってから、
らんは自然と“役割”を選んだ。
リーダーであること。
明るい人。
頼られる人。
いるまは最初から違和感を覚えていた。
笑っているのに、目が笑っていない瞬間がある。
「らんってさ、無理してない?」
軽く投げた言葉に、
らんは即答でぎこちなく笑った。
「してないしてない!」
暇72は、
練習後に一人で残るらんを見ていた。
誰もいない時だけ、
表情が抜け落ちるのを。
こさめは、
らんが弱音を「冗談」に変える癖に気づいていた。
すちは、
人との距離感が一定以上近づかないことを
無意識に感じ取っていた。
みことは、
感じ取っていた。
この人は、安心する経験が少なすぎると。
第五章 静かな崩壊
限界は、突然ではなかった。
少しずつ眠れなくなり、
少しずつ音に過敏になり、
少しずつ「大丈夫」が空虚になる。
帰り道、
足が前に出なくなった。
息を吸おうとしても、
胸が固くて入らない。
視界が狭まり、
音が遠のく。
「らんらん?」
名前を呼ばれても、
声が出ない。
体が言うことを聞かない。
その瞬間、
みことが迷いなく背中を支えた。
「大丈夫。今は、誰も責めないよ…」
その言葉に、
らんの心は耐えきれなかった。
第六章 語られなかった過去
すちに支えられながら、シェアハウスに戻った。
落ち着いた後、
らんは少しずつ話し始めた。
殴られなかったこと。
だから自分の苦しさが
「甘え」だと思っていたこと。
いるまは、はっきり言った。
「それ、ちゃんと傷だろ」
暇72は、
「よく壊れなかったな」と低く言った。
こさめは、
「らんくんは一人で抱え込みすぎ!」と眉を寄せた。
すちは、
「ここでは耐えなくていい」と繰り返した。
みことは、
「逃げていい場所は、ここだからね」と断言した。
誰も、
「気にしすぎ」なんて言わなかった。
第七章 癒えないまま、生きていく
トラウマは消えない。
今でも不安になる夜はある。
自分の価値を疑う癖も残っている。
でも、違う。
不安を口にしても、
誰も顔をしかめない。
弱い日があっても、
居場所が消えない。
らんは少しずつ学ぶ。
壊れたままでも、愛されていいということを。
エピローグ
ステージの光の中で、
らんは思う。
あの家で、
声を消していた子どもは、
ここまで来た。
過去は消えない。
でも今は、
名前を呼ばれる場所がある。
「俺は、ここにいていい」
その言葉を、
人生で初めて自分に許せた夜だった───。