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怜
206
碧瑠(みどる)&理雨
44
太宰が吐きます(大歓喜)
「あさからまたかよ」、と中原中也は小さく息を吐いた。
流れる川の冷たい水面。その底の方から、見慣れた亜麻色の髪がふわふわと揺れているのが見えたとき、もう驚きもしなかった。いや、驚くのは諦めたと言った方が正しい。
「おい、いつまで沈んでやがる。陰険野郎」
川岸に立った中也は、コートの裾を気にする素振りも見せず、迷うことなく冷たい水の中へ足を踏み入れた。足元の泥を蹴り、ざぶざぶと水しぶきを立てて沈んでいる細身の体を引っ掴む。
陸へ引き揚げられた彼女――太宰治は、ぐったりと力を抜いたまま、衣服からぽたぽたと濁った水を滴らせていた。最初から女性として生まれてきた彼女は、男である中也よりも頭一つ分ほど背が高いながらも、華奢な肩や細い手足は水に濡れると一層頼りなく見える。伸びた髪は濡れて頬や額に張り付き、妙な生々しさを醸し出していた。
「おい、しっかりしろ。死にぞこないの自殺猟好」
中也はふざけた調子で声をかけながら、濡れた背中を容赦なく叩いた。しかし、返ってくるのは不気味なほどの沈黙と、ごくりと喉が鳴る音だけだった。
「げほっ……! おぇっ……、がはっ……!」
突然、太宰の体が激しく痙攣した。口から勢いよく溢れ出たのは、川の水だけではない。黄緑がかった苦い液体が、泥のついた草むらに無様にぶちまけられる。
「おー…」
さすがの中也も、眉をひそめてその背中を支えた。吐き出されているのは、さっきまで飲んでいたはずの川の水と、胃液だけだ。昨日の夜も、いや、その前もまともに食事をとっていなかったのだろう。固形物など何ひとつ出てこない。ただひたすらに、胃の腑の底をしぼり出すような空嘔吐が続いている。
「あぅ……っ、ひっ……、ぐぅ……!」
太宰の目元からは、生理的な涙がとめどなく溢れ出ていた。長い睫毛が濡れそぼり、鼻の頭を赤くして、彼女は苦痛に顔を歪めている。
「うっ……おえっ……! 胃が……喉が、焼ける……痛い、痛いよお……っ!」
「そりゃそうだろ、何も入ってねぇのにそんなもん吐きゃあ、胃の粘膜が焼けただれるような激痛が走るに決まってらァ。自業自得だ莫迦」
中也は冷たく言い放ちつつも、逃げ出さないようにしっかりと太宰の肩を押さえている。過度に慌てる様子はない。なぜなら、これは毎度のことだからだ。いつもの日常の光景であり、中也にとっては「またか」というため息の範疇を出なかった。
「はぁっ、はぁっ…… 苦しい……中也、これ、死んじゃう……本当に死にそう……」
「入水で死ねなかったくせに、自らの嘔吐で死にかけんな。みっともねぇ」
「うぅ……ひぐっ……喉が引き裂かれそう……お腹も、胃がひっくり返る……」
太宰は両手で自分の細いお腹を抱え込み、海老のように体を丸めて小さく震えていた。胃酸の焼けるような痛みが全身を駆け巡り、涙と鼻水で顔中がぐちゃぐちゃになっている。女としての見栄もプライドもあったものではない。ただひたすらに、込み上げる吐き気と激痛に耐えながら、うわ言のように苦しみを訴え続けている。
「お前なぁ……。もう少しこう、まともにものを食えよ。いつもいつも、まともな栄養も取らずに水ばっか飲んでっから、こういうとき余計に身体が悲鳴を上げるんだろ。自業自得の極みだわ」
「だ、だって……美味しいご飯なんて、生きる執着が湧いちゃうだけでしょ……?」
「執着しろよ。いい加減にさ。お前のその細い腕なんか、ちょっと力を入れただけでぽきっと折れそうだぜ。なぁ、少しは自分の身体を労わってみろってんだ」
中也はポケットから無造作に取り出したハンカチを、仕方なさそうに太宰の顔に投げつけた。自分で拭け、という無言の意思表示だ。しかし太宰は震える手でそれを握りしめるだけで、顔を拭う気力す絶えているようだった。
「うぅ……もうやだ……こんな苦しい思いをするなら、綺麗に入水してさっぱりしたかったのに……」
「馬鹿野郎、川の神様もお前みたいな厄介払いはごめんだって吐き出したんだよ。さっさと立て、歩くぞ」
引きずるようにしてアパートへ連れ帰り、どうにかこうにか着替えさせたのはいいものの、問題は次の日だった。
前日の激しい嘔吐ですっかり懲りたはずの太宰だったが、相変わらず朝から机に突っ伏して動かない。中也は呆れつつも、昨日の今日だ、少しは胃に入れさせておかないと本当に倒れかねないと判断し、昨晩からコトコトと煮込んでおいた特製のスープを鍋からよそって持ってきた。
「ほら、起きろ。昨日あれだけ胃を痛めたんだ、今日は少しでも栄養のあるものを口にしろ。肉も野菜もたっぷり溶け込ませてあるから、」
亜麻色の髪をぼさぼさにしたまま、太宰はテーブルの上のスープ椀をじっと見つめた。ふわりと立ち上る温かい湯気の中には、柔らかく煮込まれた肉の脂の匂いがしっかりと混ざっている。
「……におい、が……」
「んだよ、文句あんのか。ちゃんと食えって昨日言ったろ」
「うっ……」
太宰の顔色が一気に青ざめた。温かい肉の脂の香りが、昨日の胃の痛みの記憶を強烈に呼び起こしたらしい。体が本能的に拒絶反応を示す。
「待って、それ……なんか、急に……胃が……」
「おい、まさか……」
「おえっ……!」
スープ椀を前にした瞬間、太宰は慌てて口を押さえてその場から飛び退いた。しかし間に合うはずもなく、床に身を屈めると同時に、昨夜よりもさらに激しい嗚咽が部屋に響き渡った。
「おえぇっ……! げほっ、うっ、あぁ……!」
「おいおいマジかよ……」
中也は頭を抱えた。心配してやって損をしたと言わんばかりの表情を浮かべるが、実際に目の前でえづいている少女の背中を、結局は手慣れた手つきでさすってやっている。
「はぁっ、ひっ……! むり、むりだよ中也……! お肉のにおいなんて嗅いだら、また胃が焼けるぅ……! 溶けちゃう、私の内臓が溶け出しちゃうよぉ……!」
「バカなこと言ってんじゃねぇ! 肉嗅いだだけで内臓が溶ける人間がいるか!」
「うぅ……ぐすっ、ひぐっ……胃が痛い……なんでこんな目に遭わなきゃいけないの……」
またもや涙をぽろぽろとこぼしながら、太宰は床に這いつくばるようにして震えている。せっかく用意したスープは無残に放置され、彼女は自分の胃のあたりを押さえては「痛い痛い」と子どもように泣きじゃくっていた。
「な? だから言っただろ。日頃からちゃんと栄養を取ってねぇから、いざってときに体が受け付けなくなってんだよ。入水もしないで、まずはその胃をどうにかしろ」
「……こんなに痛い思いをするなんて聞いてないもの……」
「聞いてないのはこっちのセリフだ。お前のその不摂生な生活のせいで、俺がどれだけ苦労してると思ってやがる」
むかむかと腹を立てながらも、中也は散らかった床を片付けるために雑巾を手にした。泣き濡れてぐったりとしている太宰を一瞥し、ほんの少しの呆れ混じりの溜息をつく。過度な同情やドラマチックな心配はない。だが、見捨てることもしない。それが二人の間の、いつもの距離感だった。
「ほら、いつまで床に這いつくばってやがる。少し落ち着いたら、お白湯でも飲め。それすら吐いたら、今度こそその頭をタライで叩き割るからな」
「ひどい……中也は鬼だ……鬼の暴君だぁ……」
「うるせぇ、自業自得の自称美女が」
散々な朝の始まりに、中也はもう一度深く息を吐き出しながら、ぐずぐずと涙を拭う相棒の背中を、相変わらず無愛想につついたのだった。
コメント
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秋穂 ええだざいしゃんめちゃくちゃがわ゛い゛ぃ゛ぃ゛過ぎない?ガチでめちゃくちゃ惚れちゃうよ
推しが苦しむのまじで好き(強♡♡♡とかは結構やだけど まじでこの癖理解してもらえること少なくて同士いてよかったです笑
歪んでるかもだけど、推しが苦しむ姿最高すぎました そして、相も変わらず文句を言いながら面倒を見る中也イケメンすぎる