コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ベルニージュは大通りでジェスランを追いながら無数の炎の鳥をけしかける。しかし躱されるか天空の剣に叩き消されるかのどちらかだった。
天空の剣に秘められた魔力を行使しないのは天が海に覆われているためだろうか。あるいはそう思わせて油断を誘っているのかもしれない。ともかく最大火力で焼き殺すことしかベルニージュは考えていなかった。
魔術を使って軽業師のように路地から路地へ屋根から屋根へ走り飛び跳ねまわるジェスランにベルニージュは呼びかける。「殺す前に一つ聞いても良い!?」
「追いかけっこしながら!? せめて休戦させてくれないかな! おじさんを労わってくれよ!」
「ボーニスとあんたはどっちが強いの?」
家屋の陰に隠れて一息ついてジェスランは言う。「ボーニス? 誰それ」
ベルニージュは炎の鳥を回り込ませ、路地の行き止まりに誘い込みつつ言う。「あんたと同じ天罰官だよ。知らないの?」
「知らないな」翼持つ炎を叩き消しながらもジェスランは答える。「そもそも、天罰官と称される個人だけど、あくまで最たる教敵が認定された際に設立される組織だからね。要するに独任制なんだ。たった一人で一つの組織ってわけ。同僚ってわけでもない。が、さっきの質問には答えられる。当然おじさんの方が強いよ。そこは保証する」
「そう、ボーニスには引き分け逃げされたからね。代わりに負けてくれたらそれで良いよ」
「酷い話だ」
ベルニージュは大いなるものを意味する呪文を加え、屋根より背の高い炎の巨人をも繰り出し、草の茂った屋根を黒く焦がしながらジェスランを追い詰める。
その時、ウィルカミドを覆う海のあちこちから水流が噴き出した。ベルニージュを狙っているわけではない。燃え盛る巨人は水柱を蒸発させるが、一方で羽ばたく炎はいくつも掻き消されてしまった。
その隙を突こうと路地裏からジェスランが飛び出し、駆けてくる。しかしベルニージュの上に巨大な炎の体が倒れて覆いかぶさった。
ジェスランは足を止め、吹き寄せる熱風と舞い散る火花に手をかざし、目を眇めて言う。「熱くないの!?」
炎心の中のベルニージュは涼し気に微笑みさえ浮かべて答える。「去年の夏よりは暑いね」
丸くなった炎の巨人がベルニージュの歩みに合わせてジェスランの方へと這うように進む。ジェスランを追い詰めながらベルニージュは水柱が凍ったことに気づく。やはりアルメノンの呪いの命令によってシャリューレがユカリを殺そうとしているのだ。
「ユカリちゃん。殺されるんじゃない?」と逃げ惑いながらジェスランは余裕ぶって言う。「まだもってるだけでも奇跡だ。このままじゃ必ず殺される。心臓を一突きさ。相手は魔導書を持った大陸一の剣士だよ」
「うちのユカリは大陸一の魔法少女だよ」
「他にいないだろ!」
とはいえベルニージュは後ろ髪を引かれる思いでいる。助けに戻りたいが、天空の剣に背を向けるわけにもいかない。人攫いの頭目という大陸に生きる全ての人々の敵が魔導書を得るなんてことはあってはならないはずだ。多少街を破壊しても許されるべきだろう。
ベルニージュは一冊の魔導書を触媒にして新たな呪文を炎の巨人にくべる。更なる火力を得た炎によって周囲の家屋が呼応するように燃え上がる。一方でその場からベルニージュが歩き去ると途端に鎮火し、焦げ跡だけを残す不思議な炎だ。
ベルニージュは気づく。こちらに悟られないようにはったりを交えつつ、ジェスランが逃げている方向は海の壁に最も近い。この空気で縁どられた古代の神殿の面影から逃げ去ろうというのだ。
さすがに魔導書といえどフォーリオンの海を蒸発させるには心許ない。ベルニージュは肉を焦がし引き裂く炎の獣を熾し、ジェスランの行く先へ回り込ませる。あるいはこれでベルニージュの守りを薄くさせることが狙いかもしれない。
だとしても望むところだ。ベルニージュは己の持つ全ての魔法をジェスランの逃亡阻止に当てる。
ジェスランの行く手に眩くも禍々しい炎が踊り、亡者の眼窩の如き濃く深い影が舞う。逃亡者を引きずり倒そうと鋭い爪を伸ばす。
駆け抜けるジェスランは身を焦がしながらも倒れることなく突き進む。かの首席焚書官グラタードを黒焦げにした時は急激な気圧の変化に力を差し引かれたが、既にあの時の熱量を超えている。
ジェスランは天空の剣を触媒にして何か対抗できうる魔術によって熱に耐えているのだろう。
その時、縦横に聳えていたシャリューレの氷の柱が落下し始めた。ベルニージュは身を守るためにそちらに魔法を割く。決着がついたのだろうか。ベルニージュは泡の神殿を仰ぎ見上げ、ユカリとレモニカの姿を探すが見当たらない。
とうとうベルニージュの炎から逃げきってジェスランが水の壁へ身を投じたその時、ウィルカミドの街を覆っていた海が北の方へと流れていった。ユカリたちが溟海の剣を手に入れたということだ。
幸か不幸かジェスランはウィルカミドの街の外れに取り残された。火中と水底のどちらが苦しいのか、ベルニージュには分からない。
「残念だったね。ジェスラン。まあ、どちらにしても水の中で一生過ごすことができるとは思えないけど」
ベルニージュの周囲で炎が渦巻く。今にもジェスランに飛び掛からんと唸りをあげる。
「悪いけど。ここで死ぬつもりはない。ようやく人生が楽しくなってきたんだ」とジェスランは煤に塗れた顔で言う。
ジェスランが天空の剣を構えると瞬き一つの内に煌々と輝いていた月と瞬く星々が消え去る。厚い黒雲が天を覆い、鎚を打ち付けるような激しい雨が降り注いだ。ベルニージュの炎がじゅうじゅうと音を立てる。しかし依然として魔法の炎は衰えることなく轟々と燃え盛っている。
「どうして消えない」顔を流れ落ちる雨に目を瞬かせつつジェスランは言った。
「どうしてって、これはただの雨だからね」ベルニージュはちらと天を見上げて言う。「こっちは魔導書を触媒に使ってる」
「この雨だって天空の剣を使って呼び出したものだ」
「そうなんだろうけど、それだけなんだろう。それが溟海の剣、大地の剣、天空の剣の力の正体だね。この世界から力を借り受けられるけど、それ以上は望めない。考えてみれば魔導書の力を上乗せさせられるなら初めから神殿の領域に押し入って街を押し流せたはず。ワタシはむしろ今回どうやって海の侵入を許させたのか知りたいんだけど」
ジェスランは信じられないという様子で首を横に振って言う。「ガミルトンを沈め続ける海嘯が自然に起こるものか。東のシュジュニカが無事なことも説明できないだろ」
全くその通りだ。ベルニージュは思案する。
「元々、予言を実現させるべく救済機構は準備していたんだよね? 溟海の剣をいつ手に入れたのか知らないけど、自前の魔術で補完したんじゃないかな。アルメノンが、かどうかは分からないけど」
「溟海の剣はつい先日見い出されたんだ。シグニカの歴史書にもこの魔導書については記されていない。三つの剣は初めて歴史の舞台に現れ出た魔導書だ。この短期間で補完する魔術など用意できるはずがない」と否定するジェスランはベルニージュの推察を知りたがっている。
「だとしたら、元々溟海の剣なしでも予言を成就する方策があったってだけだよ。剣を試したかったのか、他に何か理由があって当初の予定を変更したんだ」ベルニージュは苦笑する。「……話がずれてるな。時間稼ぎか? ともかく、あんたに勝ち目はないってことだよ」
ジェスランが剣を振ると稲光とともに眩い轟音がベルニージュを叩く。
「無駄、みたいだね。前にワタシが拵えた雷避けの護符すら効いてる。その魔導書が呼び出した雷そのものは不思議でも神秘でも魔法でもないんだよ。そうも手軽に自然を操れる魔術は他にないけどさ」
ジェスランは天空の剣を何度も何度も振るう。雹は解け、竜巻は熱風に掻き消される。暗雲を引き裂いて現れた隕石に対してはベルニージュも両手をかざし、呪文を唱えた。その魔術は魔法の誓いにも比肩する。ベルニージュの知る中では最も古く、破滅的な力に満ちており、原初の戦の際に巨人どもを焼尽せしめたという力の一端だ。古き神々の内の二柱、多くの破滅を生み出したという姉妹神の秘密の合言葉を原典とし、八つの言語を介して重訳され、幾度の過度な婉曲表現を経て伝わり、なお人界に並ぶもののない禁術だ。
呼び出された魔法は炎のように迸り、雷のように閃く。さながら空を橙色の亀裂が走るようにして隕石を引き裂き、焼き尽くした。
「最後のはさすがに魔導書を三つとも触媒に使っちゃったよ。これじゃあワタシが負けたみたいだ」とベルニージュは呟く。そしてため息をつく。「誰にも言わないでね」
次の瞬間、ジェスランの体の内から炎が迸り、肉も骨も焼き尽くし、灰となって消え失せる。天空の剣だけがその場に残った。
ベルニージュは罪悪感を抱えて再び地下墓地へと走る。
なぜジェスランを殺すことを優先してしまったのだろう。アルメノンと心中するというネドマリアの意思を尊重した? 言い訳はいくらでも思いついたが、どれも説得力のない欺瞞だった。何のことはない。自分は怒りに呑まれたのだ、とベルニージュは自覚した気になった。だがやはりそれも自分に対する嘘だ。怒りがなかったわけではないが、我を忘れていたとは言い難い。自身を突き動かすようなもっと根源的な何かがベルニージュの心の奥底に潜んでいる。
ネドマリアを探して暗い地下墓地を巡る。とても海水が満ちていたとは思えない。潮の匂いも湿り気も消え失せている。全ての海が北へと帰って行ったのだ。巨人たちの骸はあいかわらず蠢いていたが、あいかわらずネドマリアの封印から脱け出せないでいた。
行き止まりの各広間に最下層への螺旋階段が現れていた。ベルニージュは下へ下へと急ぐ。
巨人たちの骸が眠りに就いていた最下層の大広間にも誰もいない。ただ、最奥の部屋に明かりが灯っていた。
そこにはユカリとレモニカがいて、そして二人分の遺体があった。ネドマリアとアルメノンは入り口の両端の壁にそれぞれもたれかかって最期を迎えたようだった。ユカリは呆然と立ち尽くし、ネドマリアのそばには『神助の秘扇』を握ったレモニカがうずくまっている。間に合わなかったということだ。
魔導書といえども死者蘇生は不可能ということだろう。だとすれば、魔導書越えを志すベルニージュにとっては意味深いことだった。
ベルニージュは魔導書が完成しないように天空の剣をその場において、ネドマリアのもとへ駆けつける。念のために脈を測り、息を探るが、何も好転しない。ネドマリアは死んだのだということを確認しただけだった。ベルニージュの友人は溺死とは思えない安らかな表情をして俯いている。
一方でアルメノンは顔を上げ、死してなお生き生きと輝く目を見開いている。ベルニージュはそちらの骸も念のために検めるがやはり死んでいた。
不敵な笑みを浮かべる聖女の視線の先には、この最奥の部屋の祭壇に祀られた上半身だけの女神の偶像があった。聖火の伽藍の最上階に設えてあった下半身の像の残り半分だ。
ベルニージュはアルメノンの見開いた目を閉じる。
ユカリは悲しみから目をそらすようにして、上半身の女神像を見上げている。そうしてどうしようもない気持ちから逃れるように話す。
「浄火の礼拝堂にパデラの娘たちの像があって、一柱だけ名前も姿も分からない台座があった。この女神がそうなのかな、ベルニージュ」
「たぶんそうだと思う。下半身は聖火の伽藍にあったね。これが何を意味するのか、ワタシには分からないけど」
ユカリはそれ以上何も尋ねず、じっとベルニージュの顔を見つめ、再び名も無き女神像を仰ぎ見る。