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伊織と藤井渚を乗せた車が岡山の街路に消えたあの日、藤堂蓮の人生は、最高層のスイートルームから、一瞬にして地下へと墜落した。伊織の逃亡を知った藤堂は、絶望と狂気のままに車を追おうとしたが、その場に崩れ落ちた。伊織が残した、彼に背を向けたという決定的な事実が、藤堂の精神を完全に打ちのめした。彼は、自らの愛の形が、伊織にとって「自由」を求めて逃げ出すほどの「鎖」でしかなかったことを、嫌というほど思い知らされた。
翌日、藤井渚によるSNSでの暴露と、証拠の拡散は、東京の彼の実家と学校に大津波となって押し寄せた。藤堂は、父の有力な後ろ盾によって築いた名声と、学園のカリスマという地位を、わずか数時間で失った。彼の異常な独占欲は、世間に「ストーカー気質の暴君」として報じられ、藤堂家は静かに謝罪と賠償に追われた。
崩壊と回帰
藤堂は、岡山での旅行を中断し、強制的に帰京させられた。彼が住んでいたタワーマンションの部屋は、以前と変わらず豪華で整理整頓されていたが、伊織がいない空間は、藤堂にとって拷問だった。
伊織が使っていたマグカップ、伊織がいつも読んでいた文庫本、伊織の髪の匂いが残るソファ。全てが藤堂に、「伊織はもうここにはいない」という現実を突きつけた。
藤堂は、数週間、自室に引きこもった。食事も睡眠もまともにとれず、ただ伊織の残した痕跡を撫でることしかできなかった。彼の心は、伊織を奪われた憎悪と、伊織を失った深い悲しみ、そして、彼を裏切ってまで逃げ出した伊織への変わらぬ愛という、複雑な感情の泥沼に沈んでいた。
「伊織……なぜ、俺の愛を理解してくれなかったんだ」
藤堂は、伊織の顔が映った写真を抱きしめ、何度も囁いた。彼の愛は、伊織が逃げた後も、形を変えずに存在し続けていた。それは、自己中心的な支配欲という病的な愛だったが、藤堂にとっては、人生のすべてだった。
虚無の支配
数ヶ月後、藤堂は学校を自主退学し、世間から姿を消した。彼の父は、藤堂を海外の大学に留学させることで騒動を収束させようとしたが、藤堂は拒否した。
彼は、誰にも居場所を告げず、東京の喧騒から離れた地方の小さなアパートで、ひっそりと暮らし始めた。金銭的な不自由はなかったが、彼の心は常に虚無に支配されていた。
彼の生活は、伊織との生活を再現することに費やされた。伊織が読んでいたのと同じ文庫本を買い、伊織が好きだったパスタを自分で作り、伊織がかけていたブランケットにくるまって眠る。しかし、それらは全て、実体のない残響でしかなかった。
彼は、伊織と藤井渚が東京で同棲していることを知っていた。知人を使って彼らの居場所を突き止めることは容易だったが、藤堂は敢えて何もしなかった。それは、藤井渚の最後の言葉が、彼の心を支配していたからだ。
「君が私を殺せば、伊織くんは一生、君を復讐の対象として憎み続ける」
藤堂にとって、伊織の「憎悪」を向けられることだけは、自らの存在意義の完全な否定だった。彼が伊織を愛した理由は、伊織が自分を必要とし、自分の支配的な愛を受け入れる可愛い存在だったからだ。憎まれた状態で伊織を所有しても、彼の愛は満たされない。
最後の決断
藤堂は、伊織の幸せを祈ることなどできなかった。彼の愛は、そんな清らかなものではなかった。しかし、彼は伊織の自由を奪うこともしなかった。それは、伊織の幸せが、藤堂自身を苦しめることになるとしても、伊織の心を憎しみで満たしたくないという、歪んだ最後の愛情表現だった。
そして、一年後、伊織が藤井と結婚したという噂を聞いた。藤堂は、それを聞いて、何の感情も湧かなかった。憎悪も、悲しみも。ただ、虚無だけが残った。
藤堂は、伊織との思い出が詰まった文庫本を全て燃やした。伊織に女装させた時の写真も、伊織とのメッセージのやり取りも、すべてを消去した。彼の独占的な愛がもたらした、過去の残骸をすべて葬り去った。
彼は、アパートを引き払い、持っていたスマホを折り、誰にも行き先を告げず、海の見える街へと向かった。
藤堂蓮の愛は、伊織という対象を失ったことで、自己破壊という形で昇華された。彼は、伊織の人生から完全に姿を消すことで、伊織への歪んだ愛を完遂させたのだ。
彼は、遠くの街で、誰にも知られることなく、自分の過去と、決して満たされることのない独占の残響を抱えながら、静かに生きていくことを選んだ。
伊織と藤井渚が、遠い東京で、穏やかな愛と自由の中で幸せな家庭を築いていることを、藤堂は知る由もない。そして、それが、彼にとっての唯一の救いだった。