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今にも泣き出しそうな曇り空のように、小石川養生所の面々も悲しみに沈んでいた。
私の診療室には、養生所見廻り与力の三好に、同心の樋口とおなつが座っている。
沈黙を破ったのは、いつものように年嵩(としかさ)の三好だった。
「もう、終わった頃ですかね」
真秀の御仕置きのことだと分かるが、優しい三好は、わざと曖昧な言葉を使ってくる。
それに対して、年若い樋口は、いつも感情的な言葉を口にしてしまうのだ。
「やっぱり、苦しむのでしょうね…」
この言葉に、いつも冷静なおなつが大きな溜息を吐く。
この深い溜息を聞いた私は、おなつのことが心配になった。
「明日は、小浜藩下屋敷で藩医の杉田さんと、学びの会を開くことになっていましたが、取り止めにした方が良さそうですね」
しかし、気丈にも首を振ったおなつが、「こんなことでめげていたら、江戸の女は務まりません」と自らを鼓舞する。
それを見た三好は、我が子を見守る父親のように、優しい笑顔で頷いていた。
すると、老中間が引戸の外から声を掛けてくる。
「白川先生にご用があると、亀井様と名乗るお侍様がお見えですが、いかがいたしましょう?」
私たち四人は、驚いて顔を見合わせると、私が「お通ししてください」と伝える。
しばらくして、真秀の父、亀井隼人が引戸の前に一人で立っていた。
五百石取りの旗本が、共も連れずに訪ねて来るのだから、火急の用でないわけがない。
それを見た三好は、「では、我らはこれにて…」と気を遣って退出しようとしたのだが、亀井が「お急ぎでなければ、皆様にもお付き合い願いたいのですが…」と丁寧に頼むので、三人は再び腰を下ろすことになった。
「それではお茶を…」と言って立ち上がろうとするおなつを、これも手で制した亀井が喋り始める。
「先日は、わざわざお越し頂きありがとうございます。
実は、あれから白川殿に言われた通り、真秀について、心当たりが無いか家来一人一人に聞いて回ったのですが、奥女中の一人が気になることを打ち明けました。
その奥女中が言うには、奥様に連れられて大円寺という寺に行ったことが有るというのです。
しかも、大円寺に直接訪いを入れたのではなく、隣の明王院という寺の庫裏に入ってから、その奥女中が使いとして、大円寺の小坊主を呼びに行ったと申しております」
驚いた私は、「お女中は、その小坊主の名を覚えておられますか?」と聞いたが、亀井は「残念ながら覚えていないと申しておりました」と打ち明けた。
更に、気になったことを亀井に問い掛けてみる。
「そのお女中は、真秀様のお顔をご存知なかったのでしょうか?」
「はい。奥が実家の長塩家から連れて来た女中なので、出家した真秀とは入れ違いでした」
私は、少し考えてから「それで、奥様にはそのことを問い質されたのですか?」と聞くと、亀井は言い難くそうに、「いえ…」と前置きしてから理由を告げる。
「まあ、何というか奥は非常に気難しい性格で、悋気(りんき)が激しい質なので、気軽に問い詰める訳にはいきません。
それに、その奥女中からも、奥様から口止めされているので、私が漏らしたとは絶対に言わないで欲しいと頼まれていたのです」
私は、次々と湧き上がる疑問を、一つ一つ順序立てて訊ねていくことにした。
「まず、そのお女中は、なぜ今になって、これまで隠していた秘密を、亀井様に漏らしたのでしょう?」
これについては、答えが明確だとばかりに亀井が打ち明けてくれる。
「最近になって、その奥女中を側室に迎えたからでしょう。
我らのような貧乏旗本は、気軽に側室など迎えることは出来ませんが、世継ぎが出来ないのであれば、背に腹は代えられませんので…」
私が頷きながら「なるほど」と呟く横で、おなつが顔を赤らめて俯いてしまう。
「もう一つお伺いしたいのですが、奥様が真秀様を訪ねたとして、その理由に、何かお心当たりは有りませんか?」
この問い掛けに、少し考える風に目を瞑っていた亀井が、目を開くと「もしかすると、家に戻って欲しいと頼みに行ったのかもしれません」と言ったので、私は「それは、どういうことでしょうか?」と再び訊ねる。
「真秀が出家して五年になりますが、我らには子が出来ませんでした。
それで、表御番医師に診てもらったのですが、どうやら奥は子が成せぬ身体なのです。
それで、出家した真秀を家に戻すか、側室を取るかという話になりましたが、悋気の激しい奥は、側室を取れば私が家の隅に追いやられてしまう。と言い張って、真秀を戻すほうがまだましだと主張しました。
そこで用人の佐々木に命じて、その旨を大円寺の和尚に伝えたのです。
ところが、大円寺からは色よい返事が得られませんでした」
この言葉に、亀井以外の四人は「それは当然だろう」と思ったが、亀井だけは「何故、戻らぬのか不思議です」という顔をしている。
まあ、育ちの良い旗本なんてこんなものだろう。
ここで私が、更なる質問を重ねる。
「それは、大円寺の和尚様が真秀様を返さないと申したのでしょうか?」
すると、この問い掛けにも亀井はすぐに答えてくれた。
「いいえ。和尚から真秀に話がいったそうですが、真秀が戻りたくないと言ったのです」
頷いた私が、「それで、側室を迎える話が進んだと…」と確認すると、その言葉に亀井が頷き返す。
ところが、その会話に同心の樋口が急に口を挟んできて、「身勝手な話だ…」と吐き捨てたのだ。
一瞬、驚いた表情を浮かべた亀井だったが、「無礼者」とは言わずに、表情を改めて「申し訳ごさらん…」と呟いた。
そこに与力の三好が、「お主は関係なかろう!口を挟むな!」と叱ったが、樋口の心情を誰よりも察しているのが、当の三好なのだ。
樋口は、元の名を長居といって旗本だったにも関わらず、父親のしくじりで御家人身分に落とされてしまった。
真秀と同様に、お家大事という武家社会に翻弄されて生きてきたのだ。
樋口の代わりに、「申し訳ありません」と三好から詫びを入れられた亀井は、気を取り直して姿勢を正すと、「身勝手だとなじられても、私は真実が知りたいのです」と言い切った。
そこで三好が、「かと言って旗本の奥様を責問(せきどい)に掛ける訳にもいきませんからね」と澄まし顔で漏らしたので、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
私は、亀井の顔を真っ直ぐに見詰めながら真剣な表情で問い掛けてみる。
「私も、真実を知りたいと思っていますが、真実を知れば、亀井様自身も辛い立場に立たされるかもしれません。
それでも、真実を知りたいと思われますか?」
この問い掛けに、亀井が大きく頷くのを確認してから、私も力強く頷き返したのだ。
「では、真実を確かめに参りましょう」