約束した通り、次の日の夜も、同じ時間に洋館に向かった。すっぽかそうという気持ちにはならなかった。
母は、いつもカフェの仕事で疲れて、夜はぐっすり眠っているので、そっと抜け出せば気づかれる心配はない。
今日は、押入れの防災セットの中に入っていた懐中電灯を持って来た。昨夜と同じように、塀の石積みの一部が崩れ、鉄製の棒が一本外れている場所から敷地内に入る。
昨日の夜はずいぶん緊張していたのだが、三階のあの部屋で行彦が待っているのだと思うと、ほとんど不安は感じない。それにしても、建物内に誰でも入れる状態だし、一階は荒れ放題だ。
こんなところに住み続けるのは剣呑ではないのか。せめて玄関回りだけでも直し、施錠したほうがいいのでは……。
二度目なので、迷いなく、スムーズに三階まで上がることが出来た。懐中電灯で足元を照らしながら、廊下を突き当りまで歩く。
ドアをノックすると、すぐにドアが開いて、嬉しそうに微笑む行彦が立っていた。昨日と同じ香りが鼻先をくすぐる。
「来てくれたんだね。さぁ、入って」
今日もパジャマ姿の行彦は、伸の腕を取って、部屋の中へといざなう。
「ここに座って」
行彦がベッドに腰かけ、伸の顔を見ながら、すぐ横を指す。なんだか気恥ずかしいが、そんなことを気にするほうがおかしいのだと自分に言い聞かせ、伸は、少し間を開けて腰を下ろした。
「来てくれなかったら、どうしようかと思った」
至近距離から潤んだ目で見つめられ、どきりとする。
「約束したから」
動揺している自分が嫌で、つい、ぶっきらぼうな口調になってしまった。
そんなことは気にならないらしい行彦は、うっとりとしたように言う。
「昨夜、突然ドアが開いたときは、びっくりしたけど、でも、うれしかった。来てくれたのが伸くんで。
ずっと一人ぼっちで寂しかったんだ。誰かと話したかった。うぅん、話さなくてもいいから、誰かにそばにいてほしかった」
伸はただ、黙って聞いていることしか出来ない。だが、一人ぼっちの寂しさならば、自分も嫌というほど知っている。
うつむいた行彦が、それきり黙り込んでしまったので、間が持たなくなって、伸は口を開いた。
「あの……」
そのとたん、顔を上げた行彦に再び見つめられ、伸は、どぎまぎしながら言った。
「塀の壊れたところ、直したほうがいいんじゃないかな。それに玄関も、直して鍵をつけたほうが……」
赤い唇が、花びらのように開く。
「そうだね」
伸は、そこから視線を外すことが出来ない。
「……えぇと、物騒だから」
「そうだね」
「伸くん?」
いつの間にかぼーっとしていた伸は、名前を呼ばれて我に返る。行彦が、くすりと笑う。
「聞いてなかった?」
「えぇと……ごめん」
行彦は、笑顔のまま言う。
「昨夜は、どうしてここに来たの? って聞いたんだよ」
「それは……」
行彦は、じっと伸の顔を見つめている。
「あいつらに、呼び出されて」
「あいつらって?」
気がつくと伸は、行彦にうながされるまま、昨夜、この部屋に来るに至ったいきさつを、すべて話していた。それだけにとどまらず、いじめに遭っていることから、母が女手一つでカフェを営んでいることまで。
「ひどいね」
話を聞いた行彦は、怒りを滲ませた。口調とは裏腹に、その表情は悲しげだ。伸は、あえて明るく言った。
「でも、話してすっきりしたよ。今まで、誰にも言ったことがなかったから」
こんな話が出来る相手はいないし、誰かに話そうとか、話したいと思ったこともない。ずっと、誰にも知られたくないと思っていたから。
そう、ほんの何分か前までは。
そのとき、膝の上に置いた手に、行彦が手のひらを重ねた。はっとして目をやる。さらっとしてひんやりとしたその手と指は、女の子のように、白くほっそりとしている。
頬の辺りに視線を感じたが、体が固まったようになって動けない。不意に、心臓が激しく脈打ち始める。
行彦が、耳元に顔を寄せて囁いた。
「僕でよかったら、なんでも話して。伸くんのこと、もっと知りたい」
甘い香りに包まれ、伸は、軽いめまいを覚える。
「ねぇ、明日も来てくれる?」
伸の二の腕に手を添えた行彦が、顔をのぞき込むようにして問いかける。いつの間にか、夜明けが近づいているようだ。
「うん……」
「本当に?」
「本当に」
「よかった。また話を聞かせて」
行彦は、きれいな歯並びをのぞかせて、うれしそうに笑いながら、昨夜と同じように小指を差し出した。
洋館を出ると、すでに空が白み始めていた。それほど長い時間を過ごしたという感覚はなかったが、ときどき、ぼんやりしていたせいかもしれない。
行彦の甘い香りと、独特の雰囲気に当てられたようになってしまった。行彦は、とても不思議だ。
儚げで、どこか浮世離れしていて、少年のような、少女のような、そのどちらでもないような……。
家に戻り、パジャマに着替えてベッドに入ったが、一向に眠気は訪れない。横向きに体を丸めて、枕に顔をうずめながら、さっきまでのことを考える。
行彦って、本当に不思議だ。透き通るような白い肌で、人形のようにきれいな顔をして、あんなところに一人で住んでいて。
いや、聞くのを忘れてしまったけれど、他の部屋に家族がいるに違いない。あんなところに少年が一人で住んでいるなんて、あり得ない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!