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◯
会議室でのあの摩擦から一週間。
部署の空気は、ほんの少しだけ変わっていた。
柳瀬課長が朝礼で、珍しくメモを手にして話し始める。
「先方対応の件だけど……判断基準を三つに整理した。
まずは、担当者が迷わないようにしたかったんだ」
田上も、岡野も、三宅も驚いた顔で課長を見る。
そして、静かに千里を見る。
千里は淡々と頷くだけだが、
その一瞬の呼吸に“少しだけ胸が軽くなった”気配があった。
資料の整備も、各担当間の連携も、
ぎこちないながら動き始めている。
昼休み、三宅が声をかけてくれた。
「美浜さん、この前の……助かりました」
「いえ、私は事実をお伝えしただけです」
千里の言葉はいつもの調子だが、
声の端には“拒絶ではない柔らかさ”が少しだけあった。
岸本も、以前のように過剰に頼るのではなく、
「これ、自分でもやってみたんですけど、見てもらえますか?」
と“自分で考えた”上で相談してくるようになった。
(少しずつ、みんな息がしやすくなってる……)
千里の独白は小さく、胸の奥でだけ響く。
◯
夜。
千里が帰宅すると、スマホに毅からメッセージが入っていた。
『今、通話できる? 愚痴じゃないけど、人の声が欲しくて』
毅とは数年前、共通の知人の紹介で行った異業種研修で知り合った。
互いに“深入りしない距離”で会話できる、不思議な関係。
通話がつながった瞬間、毅の声はかすかに疲れていた。
「……抜かれたよ、仲間を。会社の中で。
俺が推して育ててたやつ。違う部署に“持っていかれた”。
しかも理由が『そっちの方が向いてるから』ってさ」
毅は笑った。
だがその笑いは、どこか乾いている。
「俺の見る目がなかったのか、
会社に力がないのか……
それとも、そいつが俺の元を離れたかったのか。
どれも、痛いよな」
千里は沈黙した。
ただ、その沈黙が逃げではないと毅は知っている。
「……そういうこと、よくありますよ」
千里の声はいつものテンポ。
しかし、ほんのわずかに息が深い。
「どれが理由でも苦しいのは同じですし。
でも、“痛い”と感じられるのは、
あなたが責任を引き受けてきた証拠です」
毅は少し笑った。
「千里ってさ……優しくはないのに、救われるんだよな」
「優しくしようと思って言ってるわけじゃありませんよ」
「それがいいんだよ」
電話の向こうで、どこか安心した息が落ちる。
千里はその音に気づくが、言葉にはしない。
◯
通話を終えたあと、
千里はソファに座り、ふと気づく。
(……私、毅さんの声が少し柔らかくなったの、わかった)
以前なら、相手の感情の揺れに触れること自体、
避けていたはずなのに。
(私も……誰かの弱さを、怖がらなくなってきてる?)
職場での変化。
毅との会話。
自分が逃げなくなった事実。
それらが、千里の胸の奥で まだ名づけられない“余裕の芽”のように芽吹き始める。
翌日の会社。
職場の空気が以前より穏やかだと感じたとき、
千里は気付かれない程度の呼吸で、小さく息を整えた。
(こういう変化なら、悪くないかもしれない)
千里の表情は変わらない。
だが歩くときの足取りは、昨日より少し軽い。
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