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第四章 社畜、賭けに出る
1
翌朝――
物音と同時に、ハールは目を覚ました。外で声が響いている。どういう訳か納屋は真っ暗で、周囲には誰も居ない。寝ているのはハールだけだ。「あ、あれ?ちょっと!」
急いで確認し起き上がる。外はまだ薄暗がりに包まれている時間帯だ。だが外で声が響いており――ハールは途端にゾッとした。「アリエス!」
みんな!急いで外に出る。村の中はがらんどうだ。と、少し離れた場所で急にドーンと音が上がりハールはハッとなった。
急いで駆けつける。昨日の水道橋のある辺りだ。見てみると、橋の上から煙が微かに上がっている。ハールは目を剥いた。何なの――一体!
風みたいな早さで階段を駆け上がる。水道橋は高さ約三十メートルくらい、まともに上がればゾッとする高さだ。だが、言ってられない――上まで上がったハールは、その瞬間アリエスを見た。こちらに背を向け詠唱している。「アリエス!」
途端にアリエスは振り向いた。巨大な溝みたいな、深さが大人の背丈ほどもある水路の中にアリエスは入っている。中は当然ながらカラカラで、目の前に大岩が山積みになっている。水が塞き止められているのだ。岩の向こうは水が来ているらしく、水の音が響いている。「こ、これ――」
「おお、ハール殿!」昨日の村長ならぬ初老の男が言った。「丁度良い。いや、今ここで作業をしていたのです。どういう訳かこちらの方がこの水路を復活させると――」
へっ?ハールは目を剥いた。アリエスは汗だくになっている。「どういう…」
「手伝って、ハール!」アリエスは振り向いた。目の前に水路を塞ぐ格好でひと抱えも有りそうな岩が無数に見えている。足元に大分砕けた岩が転がっているが、まだ到底追いつかないのだ。「ど、どういうこと?アリエス」
「この水路を戻すことが、我々の勝利に繋がるのだと」村長は言った。「ですがそう簡単にもいきません。どうか、ハール殿、お力を…」
はあ……やむなく全員を避難させ、アリエスと二人で水路に残る。レリオットは監視役(いつ王都から見回りが来るかも分からないので見張り役だ)メリンダはクザーヌスと下で待機だ。「ど、どうするの?」「とにかくこの岩を壊してくれ!」
だが、そう簡単にいくはずもない。ハールはヘコを巻くことになった。例の如く魔法書を持ってくる。だがまたしても炎を出すつもりがニワトリを大量発生させてしまい……
『コケー!コケコ―――!!』足元をチャボが走り回る。ああもう!続いて詠唱すれば今度はウズラが。「何でこうなの?!私は、もう…!」
「ま、魔法の基礎が…」アリエスはよろめきながら言った。「印の組み方が、違っている。良く見てくれ、こう、こうして…」
もう音読しちゃダメなの?ハールは唸った。例の本をポンポンする。「前も言ったけど、私は印を組むのは無理よ。この、灰にする魔法って簡単そう。ちょっと試してみるから退いて――」
だがその瞬間、アリエスがギョッとした。ま、待てコノカ!泡を食ってハールの後ろに下がってしまう。何よもう、ハールは本を広げ読み始めた。読むと言っても目でだけど。えーと何々……ふんふん、で?
ひと通り流し読んでしまう。頭の中にきちんと言葉が残っているのが流石オタクだ。まあね、ロイギル大ファンだし…そう思い最後に両手をポン、と岩に当てたハールは刹那ふうっと視界が霞んだのを見た。「あ、れ?」
その瞬間、地鳴りがした。ズズン!橋脚が揺らぐみたいな振動が来る。あっと言う間もなく身体が飛び上がり、アリエスが叫んだ。コノカ!逃げ…
言った途端決壊した。目の前であれほど視界を塞いでいた大岩が砕け散る。きゃああああっ!!叫ぶ間もなく水が雪崩れてくる。ドドォ、大量の水が流れ込み、ハールは吹き飛ばされた。きゃあああ―――――!!
誰かが手を掴んだ。アリエスだ。間一髪で二人で橋の淵に押し上げられる。ハール様!レリオットが叫び、同時に岩があっけなく崩れた。魔法だ、魔法で灰の塊になったのだ。「ハール!」
おおお!!真下で声が上がる。水はあっと言う間に水路を流れていく。まっしぐらに、ロマーニュの流れを運んで古い水道橋を走り王都まで。子供が駆け上がり声を上げた。「スッゲえ!!流石黒太子だ!」
そ、そう……ハールは呻いた。頭から水浸しだ。し、死ぬとこだった……振り向くと、水は遥か遠くまで伸びる水道橋を走り続けている。
「こ、これでどうするの、ハール……?」
振り向き訊ねる。ハールと同じく、濡れ鼠になっていたアリエスがふふ、と髪を上げ微かに笑った。
「次の段階に入るさ」
2
暗い廻廊に、なお一層の翳りを見せる濃い影が幾重にも重なっている。
アルタイルの牙城――先王エルメンガルドが築き上げたこの城は、街の中枢、切り立った山の頂にあった。城下の全てを足元に敷く城。昔は美しく、明るくも見えた城。だが――
(たった数週間で、このようなことになってしまうとは……)「彼」はそろそろと、足音を殺して歩きながら思った。何もかも、あの日からだ。新たな国王が――兄たちが、父を殺して名乗りを上げたあの日から。投獄されてから数日で、こんなことになってしまうなんて――
玉座の間の大扉が開いている。兵に連れられて、覗き込んだ彼は途端に言葉を失った。暗い玉座の間に男が一人座っている。まるで魔物のような禍々しい空気を纏っており、
「……兄上」呟いた。慌てて言い直す。「い、いえ、オスタリス国王陛下……」
玉座の横に、もう一人男が立っている。元第二王子リュジャン――今は次期統首リュジャン殿下だ。おずおずと、「彼」は近付いた。久々に会った兄たちを見て言葉を無くしてしまう。
「……ユリジェス」と、兄は言った。オスタリスだ。「久しいな」篭ったような、何やらまるで病人のような話し方でそう言うと、目を上げた。少し前まで活力に溢れていた目だ。いっそ傲慢で、畏れを知らぬ無粋さすら感じた瞳。獅子の如き赤髪は丁寧に結い上げられている。国王然とした衣装に、確かな王冠。だが――
まるで罪人みたいだ?ユリジェスは、密かにそれを見て、そう思った。暗く地下深い闇しかない監獄に捕らわれた囚人のような目。事実そうかもしれない。風の噂で漏れ聞いた。国民に、乱心したと囁かれ、事実父を殺(あや)め城壁に吊るした男。これほどの劣等感と憎悪が、彼の心に潜んでいたなんて――
「……怪物でも見るような目だな」兄は言った。途端に身を竦めてしまう。「!」ユリジェスは硬直した。だが、相手はじっとこちらを見ると薄い笑みを浮かべて声なく笑う。「私は変わったか、どうだ」
「………」ユリジェスは小さく頷いた。嘘の吐けない性格――昔からそう言われてきたのだから。淡く桃色がかった銀糸の髪に、紫の瞳。傍から見れば変わった容貌の彼を、もう一人の兄は――とても褒めてくれていた。「美しいな」と。お前の心が映ったようだ――
「……お痩せに、なられました」ユリジェスは呟いた。本当は変わったなんてものではないけれど、黙って目を伏せてしまう。おいたわしい――そう思った。こうまで変わるだなんて?父が殺されてすぐ、幽閉されてしまっていたけれど……
「相変わらず嘘が吐けんな。お前は」兄王――オスタリスは笑った。その目も淀んでしまっている。手を差し伸べ、手招いた。その手もまるで老人みたいだ。一体どうしてこんなことに?怯えながら、戸惑いながらユリジェスは近付いた。「兄上……」
傍らでリュジャンが腰の剣に手を添えている。何かあれば、すぐにでも斬り臥せるつもりだ。ユリジェスは玉座の前に跪いた。こんなに冷たかったか?床の冷たさに絶望する。父が生きていたときは、もっと、温かかった。何もかもが違う。ここは自分の知っていた場所じゃない――
「…アルタイルの橋が、決壊した」出し抜けに、兄はそう言った。え?思わず顔を上げてしまう。「何百年と使われていない水道橋だ……城に水を運ぶ。どう思う?」
なん、だって?ユリジェスは戸惑った。水道橋って――あの、遥か彼方ロマーニュから水を引いている?ユリジェスはまごついた。「どうって……」
そのときリュジャンが靴を鳴らした。重い軍用の鉄芯の入った革靴だ。はっとして息を飲む。そうだった、リュジャンは昔からひときわ短気で冷酷だったのだ。とっさに小さくなったユリジェスを見てオスタリスが言う。「止さんか、弟だぞ」
「しかし……」
魯鈍(ろどん)な者は好まない、いつもそう言っていたっけ。ユリジェスは怯えながら目を上げた。リュジャンの目元に濃い影が下りている。怒っているとき、苛ついているとき見えるサインだ。「……僕には分かりませんが」
良い、のではないでしょうか……ユリジェスは呟いた。微かにリュジャンが目を見開いたのが分かる。怒っているのだ。そうだった、彼は誰よりも残忍だった。そして一度激せば誰も手の付けられない人だった――父の遺体を曝したのも彼なのだから。「だ、だって」
「……魔法で水を、生んでいるのでしょう?」ユリジェスは慎重に、言葉を選びながら囁いた。オスタリスはじっと聞いている。「以前……聞いたことがあります。アルタイルに、水をもたらすのに、年間どれだけの祭司を抱えねばならないと。六百リノ……でしたっけ…」
ああ、喋りながらユリジェスは思った。神様、父上ごめんなさい。目を閉じそうになる。こんなこと、自分の口から出るなんて?兄様が聞いたらどんなに悲しむか?「でしたらこのまま古い水路を使えば……」
その瞬間、リュジャンが今度こそ足を踏み鳴らした。それは牽制、まごうかたき威嚇だ。「何だと!」叫んだ。「恥を知れ!!貴様、あの水道橋が閉ざされたのは何のためか知っているのか!」
途端にユリジェスは震え上がった。知っている、知っているとも?だって、それは民たちのためだったのだから。たまにあの水道橋を伝って渡ってくる人魚たち――流れ者の、あれらが水を汲みに来た人間を襲うから。だから封鎖されたのだ。それを金の為にこれ幸いと使えばいいだなんて……!だが、
オスタリスが笑った。ふいに、思い出したように。それは紛れもない悪の化身。暗い暗い闇の底から、久方ぶりに這い出してきた怪物の見せる笑みだ。生きる希望も人間らしい情も無くしてしまって、ただ絶望にひたすら身を焦がした者しか上げることの出来ない笑い。「……その通りだ、リュジャン。だが――」
「お前は賢い…」そう言った。言いながらユリジェスの頬を撫でる。「父に気に入られただけあるな。ユリジェス」
その瞬間、そう言った目に激しい憎悪の色が浮かんだ。それはまるで、全ての物を燃やし尽くしてしまうみたいに?凍りついたユリジェスをただ見下ろす。もう駄目だ――彼は思った。ここに呼ばれたのは、その為だったんだ。僕に罪を着せて大儀のもと処刑したと。民衆を売った反逆者として。彼等の信用回復に僕を使おうと――
だがオスタリスは手を離し言った。「――お前を牢から出す」目を上げる。「お前は民に近い…視察に回れ。城下に我らの目として」
ユリジェスは途端に目を剥いた。
「水道橋のことはお前の判断」オスタリスは続けた。「牢から出たお前が勝手に進言したことだ。我々の代わりに、名誉を回復しろ。エステルシュタインの血は冷血でないと」
言うなり両脇から兵に立たされる。捕虜みたいに。
「見ているぞ、ユリジェス大公」
そう言い手で追いやられてしまう。途端に今度こそ、ユリジェスは言葉を失った。
3
「ユ――ユリジェスちゃんが、大公になったですって?!」
それから数日後、村に潜んでいたハールは知らせを聞いて驚いた。王令が支配下の街一帯に駆け巡る。エステルシュタイン家の末子、ユリジェスが新王の命により大公に任じられたと。「大公って?」
子供が聞いてきたので、ハールは言葉に詰まった。つまりはその――思わずアリエスの方を見てしまう。アリエスはじっと考え込んでおり、うわの空だ。「た、大公って言うのは、その、つまりは王族とは別の称号をゲットしたってことで…」
ホラ、王族って一杯いるじゃない?ハールは言った。もはやハールがこの口調なのは完全に村中にバレてしまっている。まあ……人それぞれだし…。適応力の高い人たちみたいで、村人たちは完全に許容してしまっている。「なんていうの、本当に必要とされるのは一人だけで……」
「それってハール様?」子供はズバッと言った。うっ!思わず詰まってしまう。まあ……そんなとこ。誤魔化してしまい、「そんなので、残りは基本割りをくうって言うかお邪魔虫っていうか…」
途端にピシャン!と背中を叩かれハールは黙った。もう!メリンダがカンカンしている。しゃんとなさいませ!何ですのよその説明は……怒ってしまっており、指をピンと立てると引き取った。「つまりは、お世継ぎになられた方以外の人間は、基本身を落とされるのが通常なのです。辺境伯になられたり、王都から遠く離れて」
そうなんだ…子供はへー、と呟いた。ハール様大変だなぁ、別の子供も言っている。
「ですが『大公』とは、王族の中に留め置かれる信用のある存在というもの」メリンダは咳払いした。「王よりも下で貴族より上の立場が大公ですから。いわば継承権から外された王族が賜る至上の位です。それにユリジェス様が選ばれたということは、それだけの信用を王から勝ち得たということで……」
言うなり言葉に詰まってしまう。あ……メリンダが口篭り、ハールは慌ててアリエスを見た。えっと……
それって、つまり……考え込んでしまう。もしかしてユリジェスちゃんも寝返ったってこと?それともまた別の人質的な何か? と、アリエスは顔を上げた。「ところでメリンダ、君の妹は今どうなっている?」
言うなり慌てて言いなおす。「どうなってるのかしら?」大根演技とはこのことで、だがメリンダは気にせず頷いた。「はい、今この村の方が代わりにアルタイルの城下に向かっておりますが――」
お嬢様の隼を得るにはあと半日ほどかかりそうです、そう言った。「え?」
隼って……記憶を手繰る。そう言えば、ハールは――アリエスは、以前屋敷で隼を買っていた。ご大層な名前で、コノカに――ハールに敵意を剥き出しにしたあの獰猛極まりない鳥。「ぶさ子を?何で?」
「妹に伝書に飛ばしたとき、そのまま預かるように手紙に含めておいたのです」メリンダは少なからず得意げに言った。そういやそんなことを言ってたっけ?「鳥の目は実に役に立ちます。まして主従契約を結んでいたならなおのこと…」
「そんなもの?アリエス」
だが、それから半日後、計画通り引き取られてきた「ぶさ子」を見て、ハールはその言葉に間違いがないことを知った。クー!キュー!隼が再会を喜んでアリエスに額を擦りつけている。ウウー…相変らず唸るラリマーとハールの方を見て『ギシャ――――!!』と言った。何なのよ、もう!
アリエスが何かを隼の耳に語りかける。その途端、隼の目が青く光り、ハールは後じさった。しっ…!レリオットが耳打ちする。「〝神託〟だ」それと同時にアリエスの目も青く虹彩が光る。
「……これは」アリエスが目を上げた。それはまるで「予言者」みたいな。青く妙に軌道を描いた目が宙を見渡す。な、な、ハールはメリンダにしがみ付いた。突然何なの…!その瞬間、ハールが何かを詠唱した。途端にふうっと周囲が霞んで視界が濁り、ふいに周りの景色が切り替わる。まるで、立体映像の中に突然ポンと投げ込まれたみたいに。「……!」
アルタイル――刹那、ハールは気付いた。大勢の人間が行き交う街。だが道ゆく人は誰もが俯き怯えている。まるで何かに急かされたみたいに、身を隠すようにこそこそと早足で歩いており……
無数の話し声が――いや囁き声が飛び交っている。街の至る所に、武装したアルタイルの兵士がおり、威圧するようにして民を見張っているのだ。声がふいに聞こえてきた。誰かの囁き声。(乱心召された…… 何という…… 残忍極まりない……)
周囲の映像が切り替わる。今度は城壁。町の頂にあるアルタイルの牙城――そのぐるりを囲むくすんだクリーム色の城壁に、茶色い妙な染みが付いている。何、あれ、思った瞬間、再び振り払うようにして映像が切り替わった。
今度は街の中心地だ。普段ならおそらく市(いち)が開かれる噴水のある広場に、兵がすし詰めにして立っている。かき集められた民衆が遠巻きに怯えながら、また困惑した顔で見守っており、その中に――
ユリジェスが居た。見覚えのある桃色がかった銀糸の髪をなびかせて。
(た、大公ユリジェスの命により)どうにか声を絞り勅命を読んでいる。怯えている――その場の誰よりも。「す、水路を、数日以内に回復させ城下に水を引き込みます。魔法による水の配給は廃止し、今後生活水はロマーニュの水を……」
だが、その瞬間ひゃっと声が上がった。老婆だ。勅命を聞いていた老婆が耳を塞ぐ。そんな!他の人間が途端にどよめき始める。「あの橋を使うと!?人喰いどもが上がってくる水をか…!」
途端に兵士が何かを喚いた。ドッと人が流れて悲鳴が上がる。老婆をねじ伏せようと兵士が飛び出したのだ。それをユリジェスが引き止めた。「止めて!止めて下さい!民には手を出さないで……!!」
どうにか割り入ってその場を収めようとする。針の筵のような、凍りつくような空気の中、ユリジェスは声を張り上げた。
「に、人魚については対策を打ちます!」そう言った。「警護を敷き厳戒態勢を…どうか…!」
大粒の涙がその目に光っている。人殺し、人殺し……!まだ老婆が呻いており、それに必死に抗うようにユリジェスがぎゅっと目を瞑ったのが見えた。
ユリジェスちゃん――
〈この裏切者の人殺し!〉
その途端、ふっと映像が途絶えた。
暫くの間、誰も何も言えないでいた。
狭い民家の中はしんとしている。今見たものは、まま現実だ。つい先ほどまで王都で起こっていたこと。隼の目を借りて、ハールが――アリエスが事態を垣間見たのだ。誰もが凍りついたように動きを止めている。
「ハール様……」
随分経ってから、メリンダがそっと切り出した。え、ああ……思わず後じさってしまう。どう――しよう?アリエス。このままじゃ「援軍」は呼べないんじゃ……
先日水路を壊したとき。ハールは思った。それで気付いたのだ。アリエスが何故橋の封鎖を解いたのかを。あの水道橋はロマーニュに続いていた、それでピンときたのだ。例の人魚たち、あれに数日前ハールは言っていた。人魚のボス(エリアネーデさん、だっけ?)に向かって「貴殿の心遣い、礼を言う。いつの日が援けが必要な時は、どうか力をお借りしたい」と――
でもその水路を警戒されてしまうとなっては。ハールは唸った。彼等の援けが呼べそうにない…?だが、そのときアリエスは口元を押さえて笑った。急にふふっ!と笑い出す。初めて見るお嬢様のような笑い方だ。と、上を向いて笑い出した。
「はは!ははは!」早速ボロ丸出しだ。だが片目を細めると、そういうことか――囁いた。「ユリジェス、あいつめ。中々の役者になったな……!」「え?」
その拍子にポンと手を打つ。「問題無いわ。寧ろ事態は好転してる。レリオット、クザーヌスは?」
途端にハールは気が付いた。そうだった、そう言えばさっきからクザーヌスさんが居ない。あ、れ?思ったハールはアリエスが笑っているのに気が付いた。初めて見せる表情だ。何だか初めて状況を楽観視するような顔をしている。
「予定通り、今朝方発たれました」レリオットは答えた。「恐らくじき出口に着く頃かと…」
出、口?ハールは訊いた。メリンダがふいにきゅっと唇を結び不安そうな顔をする。
「出口って……」
何の?訊ねてしまう。と、アリエスが初めてウインクした。
「当然だ、抜け道だよ。ここに来る前通ったあの」
途端にハールはえ―――――!!と声を上げた。
4
「信じらんない!有り得ない!あんな危険な真っ暗闇の中に病人一人送り込むなんて……!!」
それから半刻ほど、アリエスたちは文字通り悲惨だった。事態を知り(というか今更知らされ)ハールが飛び上がったからだ。非難轟々、とはこのことで、アリエスに掴みかかる。「何考えてんの!!?ハ…アリエス!!あんな危険地帯に!!」
お、落ち着いてハール……アリエスはゲホゲホしながら答えた。「師……クザーヌスさんなら無事よ。ああ見えて元剣聖ですもの。あの程度の敵造作ないわ」
「何てこと言うのよ人でなし!!」ハールは怒鳴った。最低!そんな人だと思わなかった!怒鳴ってしまう。が、レリオットは軽蔑しきったようにふんと鼻を鳴らした。「馬鹿かお前は。元来た道をまま辿る訳なかろうが」
は!?ハールは途端に睨んだ。乱入バトル発生だ。ち、ちょっと…アリエスが必死で宥めている。「見なかったか!最初にあそこに入ったとき、右手に細い通路があったろう。あれが例の橋脚の出口付近に直結してるんだよ!」
は?途端にハールは目をしばたいた。マジで?言ってしまう。ごめん見てない。アリエスが頷き(だろうな…)「そんなので、少し君には失敬した。今朝寝ている間に印章を借りて」
途端にハールは気が付いた。指を見る。確かに無い。あの例の王族のインタリオ。おお―――!?メリンダが目を押さえてしまっている。(全くもう…今更過ぎますわよ……)ハールは唸った。「し、知らなかった、いつの間に……」
「クザーヌス師が今彼等に事情を伝えに行っている」アリエスは――随分とすっきりしたような顔をして首を傾げ窓を見た。「問題ない。彼等とは既に顔の知れた仲だ……印章さえあれば全て彼等は飲んでくれる。十万の兵を得たよ」
マジで?再びハールは聞いた。そんなに?素朴に感心してしまう。馬鹿かお前は…レリオットが額を押さえながら言った。「そう言うんだよ。有力な仲間を得たときのことを……ロマーニュにそれだけの人魚が居ると思うか」
「大袈裟な言い方すんじゃないわよバーカ!!」
結局また喧嘩になってしまう。ハール様ってば……メリンダはほとほと呆れたようだった。「よっぽどレリオット様と仲がお悪いんですのね…」「悪くて結構よ!こんな陰キャのコミュ障なんて!」「なんだとこのオカマ野郎め!!」
アリエスが笑っている。何だか失笑するような笑い方だ。レリオットは怒って出て行ってしまった。「やーね、何であんなに短気なのかしら…」
「本当ですわよ……」メリンダが息を吐く。「これじゃ、全て片付いた先が思いやられますわ…」
その言葉に、ハールはきょとんとした。え?目を丸くしてしまう。片付いたら、って?だがそのとき、ふいにアリエスの肩に留まっていた隼がキイッと鳴いた。
「ああ――」
振り向く。そのときアリエスが上を向き目を輝かせた。
動物は勘がいい。ラリマーが、一緒になって首を上げスンスンと高鼻をしている。何?言おうとしたハールに、アリエスが笑った。
「師が川に辿り着いたようだ、皆」
ぶさ子の勘はアタリだった。すぐさま、皆をして例の水道橋の階段を駆け上がる。何よ、何なの?聞いたハールはその場の全員が水面を見ているのに気が付いた。「何か居るの、ねえ?」
水道橋は今やすっかりと水が満ちている。結構な速度で水が流れており、元よりここはロマーニュの川下なのだ。風に追われて水が橋を伝い流れてくる。キラキラと時折光っているのは、一緒に流されてきた魚の腹だろう――思ったところでハールは言った。「え?あれ?」
水が、急に変色し始めたのだ。それまで透明だった水がエメラルド色へと。え、えっ?思った途端ハールは気が付いた。違う――色が変わったんじゃない、来たのだ、『援軍』が!!
ザァッと音が上がって水面(みなも)がさざ波立ち始めた。それはまるで、水を切るイルカの背びれみたいに。透明に透けて輝く背びれが弧を描いて消える。人魚!思った途端アリエスが膝を打った。振り向き絶句する。
遥か彼方――水道橋が伸びている彼方から、水の流れて来る方角から、何千と光る何かの群れがやって来る。それは、まるで魚みたいに、水をうねりながら切ってやってきており、小波が音を立てているのだ。最初は小さく、段々と、大風の後の木のざわめきみたいに。
ハールはあっけにとられた。ああ――アリエスが感嘆している。クザーヌスさんが、使いに向かった途端早速こちらに向かってきてくれたのだ。感謝する!アリエスが叫んだ。「水面(みなも)の主(ぬし)よ!ロマーニュの王!!」
メリンダがちら、とこちらを見た。それってハールの台詞なんだけど。慌てて水に屈み込む。途端にばぁ、と例の(ストッキングを頭から被ったみたいな)ちょっと怖い顔が現れて、だがハールはどうにか恐怖を堪えると水面に屈み込んだ。「人魚」が水から顔を出す。「ど、どうも、エリアネーデさん……」
アリエスが割り入り手を取った。預かりものです、と言わんばかりに人魚が指輪を差し出してくる。それを受け取り、ハールに渡してしまうと、アリエスは目を上げた。初めて見る顔、他でもない、世継ぎとしての精悍なハール自身の眼光を露にする。
「王都までは半日――」アリエスは言った。「貴方がたの足では、そうもかかりますまい。聞いてくれ、皆。我々はこれよりアルタイルに向かう」
はっとする。レリオットが腰の剣に手を添えており、ハールはそこに宣言するように言い切った。
「目指すは王城、エステルシュタイン!」荒野に視線を飛ばす。「我が牙城だ。王さえ取れば造作無い――兄王は玉座の間に居る」
人を信じられぬ者の待つ末路だ。ハールは冷淡にそう言った。「城内で最も頑強とも言われる場所――そこに彼等は居る。そしてリュジャンは狡猾だ。兄が討たれるまで加勢はしまい」
ハールは目を剥いた。何ですって?つまり、もしハールが現れても、兄が殺されるまでジッとしてるってこと?
「生憎とリュジャンは腕が立つ」ハールは軽く笑った。「魔法はさしたる腕ではないが剣の腕が。そこでだ」
君の出番だ、レリオット。ハールはレリオットを見た。御意、レリオットは知れたことというように頷いている。「君に背を預ける――まず、我々は例の『通路』を辿って玉座の間へと向かう。城の中枢部へ。ひと息に」
だがそれには一旦城門を潜らねばならない。アリエスは、そう言うと懐から例の地図を取り出した。すぐさま広げると光の道が尾を引き地図の上に現われる。「この隠し通路は――城下にある、街の一角の古い門の地下から続いている。まずそこに辿り着かねば」
げ。途端にハールは顔を強張らせた。そこには、確かに塔のような格好の絵が見えている。ゴミゴミとしたアルタイルの城下町の地図に、塔みたいな絵が見えており、その下を道は城に向けて走っているのだ。「それってつまり…」
見張りだらけの所に行くの?ハールは青ざめた。敵の兵だらけの所へ?皆黙っており、ハールは叫んだ。無茶でしょ!見付かって速攻捕まえられるわよ!!
オマケにユリジェスちゃんまでうろついてるのに――ハールは言おうとした。それ即ち、うっかり姿を見られようものなら二次災害まで起きかねないということだ。発見されたハールたちを庇おうとしてユリジェスちゃんが逆に「裏切り者!」なんてことになる死亡フラグ――「絶対駄目!!」
「そう、そうなるな」アリエスは笑った。「そこで彼女の力が必要になる」
へ。ハールは思わず顔を上げた。彼女、ですって?メリンダがいつの間にか横に立っている。ハールの横に彼女は立っており、いつもと変わらぬ冷静極まりない顔だ。「はい」メリンダは頷いた。スカートをつまみ礼を取ってみせる。「お嬢様の御意のままに」
メ、メリンダ――ハールはモゴモゴした。一体何を……だが急に不安になってきてハールは叫んだ。「どうして?メリンダまで駄目よ!何させるつもりなのよアリエスったら!」
その途端アリエスが背中に手を回した。意を決したように何かを差し出す。それは、洋裁用の大きな裁ち鋏で、ハールはゾッとした。まさか――メリンダ!!
その瞬間、メリンダは鋏を受け取ると高々と結い上げた髪に刃を入れた。声を上げる間もなくバッサリと髪を切ってしまう。あ、あ……!彼女の髪が綿毛みたいに風に舞い、ハールは絶叫した。ああ――――!!
何てことを……!!ハールは叫んだ。この国で、こんな短さの髪になる女は一つしかない。それは修道の道を志した者。さっぱりしたような顔でメリンダは笑っており、
「どういうことなのよ!アリエス、メリンダ!!」
我を忘れて騒いでしまう。そのとき下で声が上がった。
ハール様――
村の人たちだ。アリエスったら!なおも詰め寄ろうとしていたハールに向かって男が手を振った。
「ご用意が出来ました。時間です。殿下」
5
つまりはこういうことですわ、ハール様。
それから数刻後、ようやく切り出したメリンダにハールは慰められていた。さっきのことがあまりにショックだったのだ。急激に話が進んだと思ったら、これ。いきなりあんな綺麗な髪をザク切りに切っちゃうだなんて……
藁の積まれた荷台の上にうずくまり、泣きながら髪を整える。いいですわよ、もう。メリンダは呆れており、アリエスたちはもう一台の馬車の中だ。同じく積荷に隠れて移動している。姿を見せているのはメリンダだけ――ハールは訊いた。泣き過ぎて鼻声になってしまっている。「どうして…?」
「つまり」メリンダは咳払いした。「これも策の一貫です。ハール様たちは、追われているでしょう?」
つまりは姿を隠さねば、城門を潜ることなど不可能。メリンダは言い切った。「まして今のアルタイルは激地ですもの……お昼間の、御覧になったでしょう?民たちすら怯えきっておりますわ。よそ者など迎えるはずがない」
そこで私です。メリンダはちょっと誇らしげに胸をドンと叩いた。「ご存知でしょう、あの地図。古い門は真横に修道院が有りますのよ。施療院と並立された」
そう、なの?ハールはそんな顔をした。でしょうね…メリンダは諦めて地図を出し見せてくれる。「ほら、御覧下さい。修道院が――」
はあ…ハールは釈然としない思いで頷いた。荷台はまだガタガタと揺れている。おっとりとした老馬に引き摺られ、南下することはや数刻。この調子なら丸一昼夜かかることになるだろう。アルタイルに着くのは明日の朝――
何で「古い門」なの?ハールは訊いた。この際体裁はナシだ。メリンダはきょとんとする。おかしくない?町の外にならいざ知らず、町のど真ん中付近に「門」だなんて――「ああこれは――」
「門とは、常に移動するものですから」メリンダはニコリとした。「都市とは徐々に大きくなるでしょう?人が増え建物が増える。そうすると、城塞に囲まれた狭い空間では一杯になってしまうから」
外にもうひと回り、新しい門と壁を作って、それから古い外壁を取り壊すんですのよ。メリンダは宙に円を描いた。「だから古い門が街の中心地に近い場所にあるのです。これだけ立派な建造物ですから、当然再利用される。ですから、古いこの門の塔が使われて別の建物になることはままあるもので……」
へーえ…言ってから、ハールは慌てて声を引っ込めた。これじゃ流石に怪しまれそうだ。だが、メリンダはしれっとしており、黙って膝を揃えている。ハールは顔を伺った。
引っかかっていることは、もう一つある。だが、それを口にするのはあまりに危険だ――ハールは目を伏せた。ついさっき話が勢いづいたときに、ハールは――正確にはアリエスは、珍しくとんだ失態をやらかしたのだから。それは、メリンダの前でうっかり口を滑らせたこと…
(目指すは王城、エステルシュタイン。我が牙城だ。王さえ取れば造作無い――兄王は玉座の間に居る)
サラッと流してはいたけれど。メリンダも、流石に気付かない筈は……
「門を潜ってからが勝負ですわよ」メリンダが目を据えた。足元に散らばる藁を険しい表情で睨んでいる。「まず、私が取り調べを受けます。お嬢様のことで責任を感じ屋敷を飛び出して来たのだと。修道の道を志し、たまたまこの村の方に乗せて頂いて王都まで――お館様の署名があるので問題なさそうですが」
何ですって?!途端にハールはブッ飛んだ。いつの間に?!声を上げてしまう。お館様というのはアリエスの父のことだ。いつの間にそんなものを――
「まさか」メリンダは顔を顰め呆れた。「偽装です」しれっととんでもないことを言う。「まあ、一時期あまりに苦しかった時に、本当にお暇しようかと離間状は頂いておりましたけれど、まさか役に立つとは…」「ちょっとぉおお!!」
「本当に、酷かったのですよ」メリンダはほっ、と息を吐き目を伏せる。顔まで膝に埋(うず)めてしまい、「思い出すだに悪夢です……あんなことが、本当に身近で起きたなんて、わたくしには……」
「……メリンダ?」ハールはきょとんとした。気のせいか本当にメリンダが塞いでいる。いつも毅然とした性格なのに、急に萎れてしまったみたいな。「どうしたのよ……何の話?」
そのとき、メリンダは僅かに目を上げこちらを窺うような顔をした。膝の隙間からじっとこちらを覗くみたいに。その目は何故か鋭く見据えられている。何かを探ろうとするみたいな。いや、確かめようとするみたいな。意を決したように彼女は囁いた。「……ルスティカ」
え?ハールはきょとんとした。それと、ムーメラルダ。呟くみたいな喋り方をする。お化けを怖がる子供みたいな――ていうか、何だっけ?その名前どこかで聞いたような……思った途端頭の中で記憶が繋がった。確か昔館に勤めていた使用人!「怪我したっていう、あの?」
言ってからとうとう言葉を引っ込めてしまう。しまった、青くなり、(ボロが出た)「ち、違うのよ」ハールは大慌てで喋り散らした。声がうわずってしまっている。「あああの、アリエスに聞いた、ので……!」
暗くてよかった!ハールは思った。生憎と辺りは真っ暗闇だ。こんな道、走れるのは守護魔法をかけているからだろう。ハールは頬を押さえると付け足した。「本当よ!ていうか酷い事故だったわねぇ!!」
間が訪れる。随分立ってから、はあ、とメリンダは顔を背けた。「……!」
「………」メリンダが肩を震わせている。怯えきってしまっているのだ。そりゃそうよ、ハールは思った。あんな思いをしたんだから?階段から転落だっけ?間近に見ちゃったらそりゃ仕事の一つでも辞めたく――「ぶっ!」
へ、固まってしまう。途端にメリンダは顔を上げ、盛大に吹き出した。「あ、あははは!!」
あっははははは!!堪らずに大笑いし始める。な、な、何?肩に手を置こうとしていたハールはそのままの姿勢で硬直した。「あはは!」メリンダは涙まで流しかけておりハールを見ると言った。顔がヒクヒクしかけている。「う、ウソが下手すぎますわよ、ハール様ったら……!」
そう言い咳払いする。失敬、ハール様はあちらでしたね。ちら、と前を走る荷台に目をやると口を拳で押さえる。「…お嬢様」
う、っ?!!ハールは再び固まった。だが更にメリンダは吹き出してしまう。「いいえ、お嬢様ですら無いですわね、では何とお呼びすれば?」
!!?!?今度こそ、ハールは――コノカは文字通り飛び上がった。そのままの姿勢で着地し凍りつく。メリンダはまだ呑気に笑っており、ひとしきり笑ったあと目を上げた。「――知ってましたよ」そう言い目を据える。「知って、いましたとも。何かがおかしいことくらいは?」
ハールは凍りついた。凍ったなんてものじゃない、トラックの冷凍マグロ並みだ。もっと悪けりゃ氷山級の氷の塊――メリンダははあっ、と息を吐き上げてしまう。「お嬢様付きの下女ですわよ。それくらい、言われずとも分かりますわ――」
そう言いふっと目を伏せた。それは何だか疲れてしまったような表情だ。長年無理をしてきた人間が、何かをきっかけにふいに切れてしまった瞬間みたいな。コノカは動きを止めた。知っている、その目をコノカは知っているのだ。だって、それは他でもない、彼女自身が少し前までしてきた目だから。「………」
「………悪く言うのは、憚られますが」メリンダは、ぼんやりと宙を見詰めると話し出した。「……昔から少し――変わった方だったのです。冷酷というか、いやに残忍というか……」
情と癪が入れ乱れては、当惑しておられる。メリンダは呟いた。そんな方でした。「お会いしたのは私が八つの時ですが、子供の頃から変わっておられて」
急にカッとなって、飼っていた小鳥を床に叩きつけて殺してしまわれたり。メリンダは酷く遠慮がちに、とつとつと喋り始めた。「かと言えば、拾った仔犬が助からないと知って世を徹して泣かれたり……波のように心が乱れた方で、ご自身も、それに苦しんでおいでかのような……」
お館様が、私をお嬢様に付けたのもそのせいです。そう言った。「年の近い娘が居れば収まるのではと…確かにお見立て通り、徐々に収まりは見せておりましたが」
急に人が変わったように残忍な目になっては、遠くを見詰めるような。メリンダは俯いた。そんな時は一人で戦場の跡に出られては、夕刻頃に気が済んだように戻ってこられるのです。施療院通いも、そのためで」
コノカは固まっていた。なん――だって?思わず目をしばたいてしまう。情に厚く、清らかな乙女アリエス。名門マクスェル家の令嬢にして、父が厳格で苛烈なほどに信心深い。娘にこんな使用人まがいの仕事をやらせるのも「全ては神の国に迎え入れられるため」だと――
それはいずれも体裁だった?ハールはぞくりとした。分厚く塗り込められ、華やかに彩られたアリエスの本性。異端崇拝の黒魔術に手を染め、内に潜む思いを宥めるため死臭漂う戦場に足を運んでいた?施療院に務めていたのも、恐らく、死を待つ者を間近に見ることが出来たからで――
コノカは思わず、口を押さえて横を向いてしまった。反吐が出る。どうしてだが、そんな気がしたのだ。そりゃあ、彼女なりに苦しみや持って生まれた環境に嫌気がさしていたのかもしれないけど、にしたって――「………」
「それがある日突然、人が変わったようなお顔になられて」メリンダは言った。「手負いの殿方を担いで来たかと思ったら、それはもう必死で……何だかよそよそしいですし、お食事の好みも、雰囲気も、眼差し一つでさえも変わってしまわれて。殿方のようなと思ったら…」
これですし。言うなりちら、とコノカを見た。何なの!?思わず総毛だってしまう。これって何?!「ああこれは何か有ったなと思っておりましたわ。お嬢様にしては温かいですし思いやりが有りますし、服もお花の趣味とかも……」
そう言ってぷっと笑う。「ですから勘付いてはおりましたのよ」にっこりする。「それで、昨日寝ている間にハール様に問い詰めましたの。あっさり認めて下さいましたわ、それと謝罪も」
な、な……ハールは固まっていた。メリンダはしれっとしている。それってつまり、チョンバレにバレていたってことで……「ごめんね、メリンダ……」言おうとしたコノカにメリンダは笑った。呑気そうな、少し気が抜けたような微笑みだ。「良いんですのよ」
あれで、良かったのですわ。そう囁いた。天を見て微かに笑う。「……そんなにお慕いしていた訳では有りませんでしたから。不敬ながら……」
その目にちょっぴり涙が光っている。コノカはそれを黙って見ていた。「………」
「良いのです」もう一度言った。まるで、そうすることでケリを付けようとしているみたいに?「今度こそ、幸せになって下されば。そして今度は……わたくしも楽しくやっていけそうですわ。夢でしたのよ、お嬢様とお茶を片手に語り合うの!」
ニッコリする。それは初めて見た、使用人としてではない、友達に向ける笑顔だ。メリンダ――コノカは目を丸くした。
「ですのでここから先が本番ですわ!」言うなりズズイ、と迫られる。「!?」「是が非でも、元に戻って下さいませ!というかハール様と入れ替わって下さいませ!!そりゃこのままでも良いですけど多々問題が有りますわ…そりゃもう、大問題が!」
ちょ、っと。コノカは後じさった。メリンダは目が据わってしまっている。「そう簡単に出来るかは……!」「気合いですわよ!」「んな無茶な!」
ギャーギャーやり合う。隠密、ということも忘れて、盛大に騒ぎながら、コノカは思った。
そう――そうだ。その為にも、まずはこれから先のことを乗り越えなきゃ――
玉座を取る。つまりは、王の首を、この手で。
ゾッとする。だが他に選択肢は残されておらず、コノカは――ハールは奥歯をそっと噛み締め自問した。
(殺すなんて出来るの?私に、ハールに……)
拭ったように笑みが消えてしまう。だがその答えは誰も持ち合わせておらず、ハールは腕を抱いた。
(ハールに代わって本当に使命を果たせるの…?)
そして、翌朝――
6
「止まれ!そこの馬車、止まれ!!」
それから半日後、夜が明けてすぐ、ハールたちの乗った荷馬車はいよいよ王都に近付いていた。王都アルタイルは鬱蒼とした暗い森を抜け、荒野を暫く行ったところにある、巨大な城塞都市である。遥か彼方から先代国王の叡智とも言える水道橋が伸び、視界を横切り王都へと続いている。水道橋の下を潜り、真っすぐに城門に寄って行った荷馬車は、早速迎え出てきた兵士の馬に停止を求められた。
たかだかこんなボロ馬車相手に検問だなんて?ハールは思った。藁山の中で縮こまる。荷台の後ろにはメリンダが腰掛けており、兵士は寄ってくるとメリンダに剣を突きつけた。「何処から来た!名を名乗れ」
「メリンダと申します」彼女は、怖気付くことなく静かに答えた。ばっさりとうなじまで切り揃えられた髪に相手は気圧されしている。「マクスェル家の使用人をしておりました。お館様に許可を頂き、修道の道へと」
途端に、マクスェルと聞いて相手は黙り込んだ。言わずと知れた隣国の名家だ。しかもその令嬢が正に追われ者のハールと逃げたという――兵士はまじまじ観察している。「……何故そのような」
途端にメリンダがきっと眦を吊り上げた。見えなくても分かる、空気がそう語る。「――知れたことでしょう」メリンダは歯噛みした。「流れ者の王子に心奪われて、お嬢様が行方知れずとなっては下女の面目が立ちますか?主人が無事かも分からぬのに!」
兵士が黙り込む。バシッ、と兵士の手から離間状を引ったくり、メリンダは言った。
「それも貴殿の国のご子息に」嫌味のように付け足す。「お陰で、ここにしか紹介状を書いて頂けませんでしたわ?せめてもの報復なのでしょう。お館様から私への――分かれば通して頂けます?」
凄いわ、メリンダ。ハールは密かに感心した。本当に自棄っぱちみたいに見える。重い鉄城門が開き、荷台はガラガラと音を立てて跳ね橋を越え門の中に入っていった。凄い、第一関門突破……!
ここから先は、運次第になる。ハールはそっと息を殺した。まず最初の運試しだ。荷台は修道院の前で止まる――そこでひと芝居。城下によくありがちな、突発的な町の喧嘩だ。
(妹には手紙を出しておきました)ここに来る道中、メリンダは説明した。施療院は問題の古い城門の真横にある。確かに地図の上では。だが、実際には、真横と言ってもざっと五メートルくらいは離れている状態で……
そんな所にわざわざ荷台を停めたら怪しまれる。そこで、ひと芝居。まずすんなり荷台は本来行くべき場所の修道院前へ着く。だが、そこで用意していた人間に難癖を付けさせる。
それがこれだ。ハールは目を光らせた。門前に集まる羊皮紙職人とチーズ売りたち。「おい、こら!」
刹那、ハールは身を引っ込めた。始まった、門前に止まった荷車に向かって声が上がる。「そこに車を止めるんじゃねえ!!」
難癖ですわ。メリンダはとんでもないことをしれっと言うとウインクまでして微笑んだ。「まず、門前に止めた車のせいで商売にならないと文句を付けさせます。大丈夫、わたくしの親族ですからご心配なく。で、そこから後は――」
「ちょっとした騒ぎに発展させますわ」鼻息も荒くメリンダは握りこぶしを固めた。まあ見ていて下さいませ!私は、こう見えて下町育ちですのよ。フフフ、きっと驚かれますわ――」
わあわあ声は響いている。どうやら修道院の門前で止まった荷車(ハールたちが今まさに乗っている車だ)に文句を付けているのだろう。「見えねえだろうが!商売やってんだ、判らねえのか!!」
ずり、ずり、と車が後じさり始めた。まだ声は上がっている。そっちだそっち!ハールの潜む荷台を先頭に、尻込みするように古い城門の前へと移動していく。腹いせみたいにギリギリまで城門に近付け――ハールは見た。藁の隙間から。確かに城門だ。円筒状の石造りのかつての門が目と鼻の先に見えている!
その瞬間声がした。「ああ―――!てめえ、売り物に!!」
ハールはぎょっとした。さっきの声だ。我慢ならずに藁をすかすと、声が向こうで張り上がっている。羊皮紙(今で言うところの紙だ)職人が売り物の紙を前に叫んでいるのだ。「畜生、泥だ!やりやがったな!!」
ソマールの一級品だぞ!!言うなり御者に掴みかかる。ここまで連れて来てくれた農夫のおじさんに。だが、知れたことらしくいきなり乱闘が始まった。出し抜けに右頬を殴られ「喧嘩だ!喧嘩だ!!」
わあっと声が張り上がる。あ、ああ―――!ハールは目を閉じた。だがそのときひゅっと布の固まりが後ろの荷台から顔を覗かせる。修道僧らしいねずみ色のローヴ。だがその下には剣が見えており「おい!」
その瞬間、ハールは藁から這い出した。藁ごと車を飛び降りる。ほとんど同時に、売り物の桶をメリンダが取るのと振り回すのは同時だった。ぶん回し出し抜けに思いきり一人を殴りつける。「!!?」
桃色の塊が目の前を過ぎた。アリエスだ。施錠された古い円筒の門の扉を一撃で蹴破る。ついでにレリオットに蹴込まれて、いきなり走り出したハールは足がもつれそうになった。何、何なの!!
カビ臭い――思う間もなく狭い階段を下りきる。螺旋状の短い階段を降り、突如目の前に壁が現れた。行き止まり、思いきやアリエスが振り向く。「コノカ、指輪を!!」
腕をそのまま掴んで壁に押し付けられる。小さなくぼ、相変らず、あるか無いかも分からないような小さな「鍵穴」だ。インタリオを押し付け、途端にゴゴン、と音がした。地鳴りがして(身が竦みそうだ!外に聞こえたら…!)だが武骨な石で出来た壁が隙間が出来てずり下がる。「急げ……!」
その瞬間レリオットが手を伸ばした。半開きの壁に開いた隙間を力任せに開けたのだ。絶句する暇も無く後ろから蹴り込まれ、ハールは地べたに投げ出された。アリエスと団子になって転がる。「ち、ちょっと!!」
ゴゴン……音がして静かになる。随分経ってから、ふっと灯りが灯りハールは目をしばたいた。「こ、の――野蛮人!馬鹿力!!」
うるさいさっさと行け!レリオットが舌打ちする。アリエスは地図を手に今度こそ先導役だ。「ここから先は道なりだ。計算上では――何も出ない、はず。レリオット、後ろを頼む」
ぶほっ!ハールは咳き込んだ。凄いホコリだ。オマケに空気がおかしい。何だか外とは違う空気が流れているような――「昔の空気だ」アリエスは急ぎながら言った。魔法で通路を照らし歩き出す。「古い、この道が造られた頃の空気……」
「道、続いてる?」ハールは恐々訊いた。たまに聞くのだ。大昔の道は、地震や災害のせいで壊れてしまっていると。ここまで来たが最後、この局面で通れなくなっているなんてことがあったら……
だが、前を歩きながらアリエスは静かに笑った。レリオットが呆れている。「何よ」呻いたハールにアリエスは囁いた。「ただの道ならば」手元の明かりを強くする。「そんなこともあるだろうが……」
そう言い、ふっと手から明かりを手放した。ハールの手に灯っていた灯火の光が手を離れる。それは、頭上まで上がると、すっと光を強め周囲を照らした。まっすぐに確かにいびつではあるが整った道が伸びている。
「ここは王家の道だ」アリエスがにっこりした。よく見ると壁に古い文字のようなものが彫られている。「守られている。遥か古(いにしえ)の王たちから――ここに限ってはそのようなことは無いさ」
そのとき、進む道が奥で微かに湾曲しているのをハールは見た。
ちょうどその頃――
メリンダは、見事に計算通り修道院から叩き出されていた。来て早々、自棄を起こして暴力沙汰を起こしたので追い出されたのだ。別段入る気も有りませんでしたけど……歩きながらメリンダは独りごちた。何かしら、少なからず傷付いたような気がするのは……
街は思った通り死んだような状態だ。さっきは久々に喧嘩が有ったというので活気付いていたけれど。それも兵士が来た途端大人しくなる。誰もが身を竦め小さくなっており、誰とも目を合わさないように俯いている。まるで怯えきっているみたいに……
失礼、道ゆく人間を捕まえ訊いてみた。案の定動転したような顔をされる。「お教え下さい。この辺りで、一番のお偉方はどちらにいらっしゃいます?出来れば寛大な。職を追われて院にも入れませんでしたの――」
紋付きの紹介状を見せてやる。だが、これまた思った通り相手は心底困惑したような顔をした。確かに紹介状。しかも結構な名家らしいもの。だが相手はぶるっと首を震わせた。「止めといたほうがいい――」
悪いことは言わない、今からでも戻って許しを乞いな。そう言った。中年の男だが芯から怯えきってしまっている。「ここにはそんな寛大な方は居ない……妙なことに巻き込まれる前に今のうち早く」
「戻れませんのよ!」メリンダは焦れて叫んだ。相手の袖を掴んでやる。「とにかく、私はもうお館様とは絶縁された身なんですの!慈悲と思ってお教え下さいまし、どうなってもお恨みしませんから、どうか――」
すると、随分経ってから相手はごくんと唾を飲み込んだ。「……あっちに」そろ、と建物の向こうを指す。「水道橋付近に、大公様が――少し前まで第四王子だった方の馬車が来ているよ。す、水道橋を治して使うとかで見回っておられるが……」
ありがとう、そう言いメリンダは踵を返した。さあ、ここから先がこちらも本番だ。これ次第で全てが決まる。なに分、さっきハールには言わなかったが、こちらもほとんど賭けなのだから?
空を見上げる。日はさっきより少し傾いており、彼等が城に辿り着くのはあと二時間ほど。無意識のうちにとんとんと地面を踏み鳴らすと、メリンダは指された方角に向かって走り出した。
7
地下通路は五キロ近くにも及んでいた。迷路のように地の底を這っている。「お――」ゼエゼエ言いながらハールは騒いだ。「おかしいでしょ!何でこんなぐるぐる回る道を作る必要性があったの――」
馬鹿か、お前は。レリオットが相変らず冷淡に吐き捨てる。この後のことを考えて気が立っているのだ。「地面が簡単に掘れると思うか…この辺りは地盤が堅いんだ。石や岩がごまんとある」
「魔法で崩せばいいじゃない!」ハールは喚いた。地下なので人の耳もない、故に言いたい放題だ。「こんなんじゃ着くまでにバテちゃうわよ!!もう――」
そのとき、先頭を歩いていたアリエスがサッと腕を上げた。兵士に指示するみたいに二人を制する。「静かに」
「………」
そのときハールは、気が付いた。すぐ先にこれまでとは違った様子の壁が見えている。それは文字通り「壁」と呼ぶに相応しいもの――人の手で詰み上げられた強固な城の外壁だ。「これ……!」
「エステルシュタインの足元だ」アリエスは見上げ、笑った。長いトンネル状のごつごつした道の先は、少し広くなっている。ゴールのように城の壁が見えており、風が吹いている。どこからか空気が――
「あ」
積み上げられた「外壁」の石の一つが、ぽかんと開いている。ようはここは城の足元、地面に埋まった土台部分なのだ。「あそこ、アリエス…」
抜け道だ。ハールは指さした。大人一人が屈んで通り抜けできるほどの穴がぽっかり開いている。寄って行くと、アリエスが再び人指し指を唇の前に立てた。「ここから先は『城』の内部だ。極力静かに…」
途端にハールは緊張して唾をごくんと飲み込んだ。いよいよだ?背中に冷たい汗が浮く。ここから先は、真の勝負所。まだ読んでもいない『ロイギル』の真骨頂――ハールが兄王と対峙する瞬間。恐らく剣でやりあって――そして最後を向かえるのだろう。どんな形になるかは分からないけど。全ては『未知』だけど。
「………」ハールは後じさった。何だか、ここを潜ってしまえば後戻りは利かない――そんな気がする。父を殺されたハール。弟を幽閉され、そして自らも追われる身になって。そんな全てが一挙に肩にのしかかってくる。無茶苦茶にされた国に、怯える民たち。そして他でもない、多分前世の「コノカ」にとって一番大事だった人、ハール自身の人生の全てが――
ポンと肩を叩かれる。途端にハールは我に返った。
「気負うな。コノカ」アリエスはそう言い笑った。「君が怖気付く必要はない――手筈通りに、君は最後に俺の代わりに名乗りを上げてくれればいいさ」
名乗りって。ハールはモゴモゴした。頭の中で復習する。昨日、村を出発する間際になって急遽話し合った事を思い出す。確かハールは生憎ながら戦力には数えられていない。ついでに役に立つとも思われてない。まあ、そりゃその方が有り難いけど……
(いいか、コノカ)アリエスは――ハールはわざわざ彼女を本名で呼ぶと切り出した。(君は率直に言って戦闘には不向きだ。いや、向いてないことはないんだが……)
女性だから。そう言いレリオットを見る。レリオットはいかにも不服そうで、何とも物言いだけだ。だがそれを視線と空気で制するとアリエスは続けた。(そこで、明日城に潜入して玉座の間に向かったら――援護に回ってもらう。俺がやり合おう。兄……新王オスタリスと執政リュジャンに)
そんな!コノカは慌てたものだった。仮にも二人なのよ?そんな、多勢に無勢で――
(平気だ)アリエスは首を竦めただけだった。(元より俺の始めたこと……君はここまで付いて来る必要は無かった。この身体で、止む無く同行させられただけのことだ。元来ならば俺一人の戦いだった)
そんなことって!コノカは思わず言った。すかさずレリオットも口を出す。そうですよ!主君の戦は従者の戦――俺にも同等の責任が!
(それは有り難いが)ハールは――アリエスは失笑するように笑った。(すまないが、こればかりは例え不利でも自分でケリを付けたい。父を殺し民に曝した、その仇(かたき)に報復するのは)
次期統首のつとめだ。どのような姿でもな。
メリンダを使いに寄越してある。ハールはそう言うとコノカを見た。(君は俺が兄たちを倒した後――体裁だけでいい。とどめを刺したふりをして欲しい。その後すぐに弟の軍が来る。ユリジェスだ。あれが来る間をもって俺は王位を降りる。君のすることは、頼んだ通りに弟に王位を譲り玉座の間を後にすること)
王に興味はない。ハールはそう言い苦笑した。父には悪いが俺はそんな器ではなかった。流れ者のハール、忌み子の黒太子、それで充分だ。
そのとき、肩を叩かれてコノカは思い出から覚めた。行くぞ、ハールが――アリエスが例の抜け道を潜ろうとしている。「ここから先が、勝負だ。頼んだぞ、コノカ、レリオット」
承知しました。レリオットが頷いた。コクン、と小さくコノカも――ハールも頷く。狭い入り口を潜り、中に入ったハールは気が付いた。ああ――思わず不本意にも感動してしまう。凄い、これこそが先人の脅威だ?
一見ただの石に見える壁の裏側にも、こまかく網羅されている抜け道。それはまるで、並行して潜む二つの世界のように。分厚い壁に阻まれて表の世界と裏の世界が共存している。この壁の向こうはきっと、いや恐らく、城内で繰り広げられる生活が――
明かりを絞りアリエスが上を向く。目の前に長い、長い階段が続いており、
「玉座の間はこの先だ」
レリオットが頷く。行くぞ、と囁きアリエスが足を踏み出した。
同じ頃――
城下では、ちょっとした騒ぎが起きていた。城下町に見られる水道橋の袂、遥かロマーニュから運ばれてきた水が最初に溜められる水路の付近で、小さな騒ぎが起きたのだ。見回りに来ていた王家の視察に女が寄って行ったからで――「何だ貴様!一体――」
今、彼女は後ろ手にされている。誰もが畏怖し遠ざける王族の集団、その群れに使用人姿の女が一人突っ込んだのだ。「もし、そこの方!」水路を覗き込んでいた兵たちがギョッとする。「エステルシュタイン殿!!」
少し前なら、こんな喧騒も稀にあってのことだった。兵たちは、誰もがそう思った。職にあぶれた女や職人が高位の者に情けを求めるのだ。だがこのご時世にしかも王族の行列に飛び込んでくるのは――思わず誰もが凍りつく。率直に言って自殺行為でしかない。「何者だ!」怒鳴られ女は怯まず叫んだ。「ユリジェス大公にお目通しを!!」
これで男や老人なら、遠慮なく斬り伏せられていたことだろう――最初に彼女を捕まえた兵士は、そう思った。だが仮にも相手は女、しかも若輩。解かれてはいるが封印付きの書簡を持っている。隣国の名士のしたためた書簡を持っており、身なりも悪くない――兵士は怒鳴った。訳ありだ、だがどこかで引いて貰わねば。「止せ!」
大公殿はここには居られん!別の男が引き取った。「お前如き下賎の者に会える御方ではないわ!」別の者がねめつける。蹴飛ばされ、彼女は地面に転がった。何てざまだ、誰もの顔にそう書かれている。女をこんな目に遭わせるとは?だが――
「…何の騒ぎです?」
そのとき、声が聞こえた。水路に降りて自ら見回っていた大公が――ユリジェス自身が騒ぎを聞きつけ顔を覗かせたのだ。いけません!誰かが制しており、だがそのとき女が叫んだ。「大公殿!」
その瞬間、女は兵士の腕から離れた。いや、抜群のタイミングで兵士が力を緩めたのだ。計らって。誰もがこの場で、咎められないためにはこれしかない――皆そんな顔をしている。暴君で知られる新たな王政で、唯一感情の残る集団、それがユリジェス率いる視察団だった。女が倒れるようにして地面に座り込む。
「……大丈夫ですか?」相手はそう訊いた。豪奢な衣服が見るからに濡れている。淀んだ水の貯まった水路で安全を確認していたのだ。せめてもの民たちの手向けのために――これから引かれるロマーニュの水が、せめて城下の人たちの障りにならないように。人魚たちが都市門の内側に入ってこられないよう確認していたのである。「あなたは……?」
女は顔を上げると、次の瞬間パッと伏せた。恐れたのだ。だが、震えながらも声を上げる。「わ、わたくしは」再び顔を撥ね上げると叫んだ。「わたくしはソマールの下女、マクスェル邸で長らくお仕えしておりました!アリエス・ロッド・マクスェルの侍女に御座います、大公殿――」
途端に相手は――いや周囲の兵たちが、揃って同じ顔をした。アリエス?あの?すかさず不穏な空気が駆け抜ける。無理もない。その「令嬢」は他でもないこの国のお尋ね者、今一番の危険人物のハールと共に逃走したのだから。「……!」
――続けて。ユリジェスは頷くと膝をついた。下官に対してあるまじき腰の低さだ。だが、これこそがユリジェス大公。メリンダは思った。ハールが――お嬢様の姿をした黒太子がそう言っていたっけ。案ずるな、と。あの子は優しい。どの王家より礼節を弁えた子だよ――
「お、お嬢様が姿を消して以後」メリンダは歯噛みした。恐怖と罪悪感からだ。「わたくしは職を追われました……お尋ね者に浚われて、命あるかも分らぬ身。娘を連れ戻さねばお前の命は無いと。罰としてこの国に托鉢として向けられましたが、そこでも門を閉ざされ……」
あんたのせいよ、そんな空気を出さねばならない自分に嫌気がさす。何の関係もないユリジェスに、あんたの兄が私にそうさせたのよ!と矛先を向けるのだ。だがメリンダは一縷の望みを託して書簡を差し出した。気付いて――祈るように目を閉じる。「ど、どうか――」どうか気付いて!「どうかわたくしに、お導きを……!」
ユリジェスが、黙ってその書簡を取り上げる。暫くそれに目を通していたユリジェスは、そのときはっと目を上げた。
それは、一瞬だった。メリンダは感じた。何気なく流し見た書簡に僅かな光を見たような。それを見ていたユリジェスはくしゃ、と書簡を握り締めた。息を殺し動きを待つ。「それは――」
「それは、申し訳ないことをした……」黙ってユリジェスは頭を下げた。メリンダはぎょっとした。下賎の者に?王族が頭を垂れる?だがユリジェスはメリンダの肩を掴むとこう続けた。「貴女の不遇と兄の謀反に心より謝罪をします。メリンダ」
そう言い肩を叩いた。立ちなさい、のサインだ。兵士が寄ってきており、ユリジェスは首を巡らせた。「誰か、この者に新しい衣服と靴、風呂を」命じる。「僕の馬車にお越し下さい。祖先の霊に誓って僕は貴女に償いをせねば」
「……」メリンダはあんぐりした。どういうこと?戸惑ってしまう。通じたの?通じなかったの?だが、そのときユリジェスは兵士の方を向くと言った。
「水路を早急に」声高に声を張り上げる。「復帰して下さい。水道橋の水門を全開に!!」
その声にメリンダは目を見開いた。兵士があんぐりする。し、しかし――何人かが戸惑っており、「す、水路はまだ安全の確認が……」
「問題ない」ユリジェスは言い切った。「兄の命です。先ずは一刻も早く、この城下に水を行き渡らせねば?」
そう言い馬車に足を向けてしまう。その背を見て、後に続きながらメリンダは思った。
ああ――
祈りそうになる。ああ!メリンダは密かに涙を飲んで思った。
気付いて下さったのですね、大公様!
地面を見る。今やどこに居るかも分からない、「彼等」を案じながらメリンダは目を閉じ思った。
(上手く行きましたよ、ハール様…!)
その頃――
ハールたちは、城の隠し階段を登っていた。息が上がる、死にそうだ。だが休むことも許されない、そんなふうに。
アリエスは風のように上がっていく。長い階段を壁伝いに走るようにして。狭い通路で、両脇から壁が迫ってくるような錯覚に迫られる。急に狭くなったり、かと思えば広くなったり――本当に隠し通路だ。「ま、待って…」
だが、それよりも妙な予感がしてハールは立ち止まった。何だか変だ。妙な感じがする?それは、今、目の前を走っていくアリエスが――ハールがどこかうんと遠くに行ってしまうんじゃないかというような感覚だ。そんなはずないわよね?必死に追いつきながらコノカは思った。何処にも行かないわよね?ハール。
やっと、やっと願いが叶ったと思ったのに。コノカは思った。到底叶わない願いだったけど、こんな形でも、叶ったのに?
大好きで憧れて、ずっとずっと夢見てきたハールに関わることが出来たのに――
そのときアリエスが足を止めた。地図を手に階段の途中で立ち止まる。
「………」
ぎくん、とハールは背を強張らせた。レリオットが腰の剣に手を這わす。ああ、いよいよだ……ハールは察した。玉座の間は――この階段を登りきったところ。王たちが背を向ける背後の壁に続いている。
孤独な国王。ハールは思った。残虐で狡猾で、そして誰よりも怖れている兄王。護衛すら身近に置かず、ただ闇の中玉座に腰掛け身を守っている。それはまるで、闇を怖れて親の袖にしがみついている子供のような。いや実際にそうかもしれない。自ら殺して城壁に吊るした父の亡霊に、いつまでも泣きながらしがみ付いているのかも――
「……手筈通りに」アリエスが囁いた。レリオット、君には背を預ける。頼んだぞ。
御意。レリオットが頷いた。そしてコノカ。君には――
最後の仕上げを頼む。そう言い笑った。「来(きた)るべき瞬間に向けて。弟の、民たちの為に――」
黒太子ハールに最後になりきれなんて、そんなこと荷が重すぎるけれど。
階段を上がりきる。この先だ。そのとき、アリエスがそっと手を伸ばし、初めて祈るように壁に手を触れた。
8
時間が止まる瞬間て、いつだったろう――
最後に思ったのはいつだろう?ハールはそんなことを考えていた。いつだっけ?随分前だがあったような気がする。そう、あれは、
事故に遭ったとき。ハールは思い出した。風が吹き抜けて、桜が咲いて、疲れきっていてそれでもご機嫌で、本を提げて帰宅途中に。
鉄材が雪崩れ落ちて下敷きになった――
全てはあそこから始まった。光が触れる、頬に僅かに。それはほんの一瞬のはず。隠し扉が開き――彼等が、兄王たちが気配を感じ振り向くまでの僅か一瞬のこと。だがそれは永遠だった。一瞬が永遠になり永遠が一瞬になったみたいに――
ふわ、と風が巻き起こる。重い岩戸のような隠し扉が開きその扉がたてた風。空気を煽ぐみたいに、ふっと内と外の空気が入り乱れ、そのとき、
視界が開けた。見たこともない景色、空間。玉座の間が現れる。誰かが気配に振り向きあっという空気が走り、
その瞬間何かが飛び出した。風のように。頭が真っ白になり「貴様…ハール!」
刹那、声がした。聞き覚えのある声。それは散々耳にした「誰か」の声だ。自分のものかも分からない、だがその声は空気をこれ以上ないほど鋭く切り裂いた。『オスタリス!!!』
ドッ、と音がした。目の前に白線が弧を描く。えっ、思う間もなくギィン!高い音がして目の前に男の顔が迫った。驚愕、それは他でもない恐怖とも焦燥ともつかない顔だ。ついに来た、そう認識したみたいな。土気色にくすんだ皺だらけの病人のような顔が間近に迫る。
「わああああ!!」悲鳴がした。「顔」の背後から。それで気付いた。斬りかかってきたのは他でもないリュジャンだったと。「ハール…!!」
ガァン!!弾き返される。あまりに鋭い剣打。とっさに後じさり、そのとき気付いた。他でもない自分の身体が勝手に動いたと。アリエスが硬直している。あの一瞬で剣を抜き防いだのだ。風のように。「誰か、誰か…!」
背後で喚いている。オスタリスが、巨大な子供のように。だがそのときハールはもう一つのものに気付いた。入り口で―一玉座の間の大扉で兵が凍りついたように動きを止めている。その先に剣を抜き立ちはだかり、侵入を止めているのは、他でもないレリオット、護国卿だった。
既に数人が床に倒れている。レリオットは、入り口を。ハールの言葉を思い出した。玉座の間を知っているか?地図を叩きながら言っていたことを思い出す。「あそこは入り口が一つしかない――扉二枚で隔たれた、拝謁の折開けられるそこ以外は」
近衛の者が剣を振るって飛び込んでも、せいぜい二人程の広さしかない。ハールはアリエスの姿で笑った。つまりは二対一。君の腕なら防ぐのは造作無かろう?
「どうした、怖気付いたか!」レリオットが笑った。ソマール一の斬撃を持つ男。多勢ならいざ知らず二対一なら負ける筈がない。そして――
アリエスが魔法を紡いでいる。ハールは剣を握りなおし、水平に二人に――蒼白なリュジャンとオスタリスに向けると言った。
「父の仇(かたき)!」冷え冷えとした声で告げてやる。「我が父、エルメンガルドの仇(あだ)を討つ!覚悟召されよオスタリス!」
音が消えた。
はっ、と兵士が凍りつく。貴方の言いたいこと――ハールは思った。今なら理解できるような気がする、剣を握りなおし思う。こんな体になって、言いたくないけど不本意でしょう。でも――
ボッ、とアリエスが掌から炎を繰り出した。いつでも当てる準備をしている。最後までやりきってみせるから、「ハール」の代わりを!!
そのときふいにリュジャンが笑った。嘲るような笑い声。低く響くような――禍々しい笑いだ。「――仇、か」そう言った。醜悪そうな顔。欲望と利己心にゆがんだ表情。決して美貌でもなく、だがそれ以上に狡猾さを感じさせる容姿だ。「結構。だがそれでどうする黒太子?」
なに?ハールは顔を顰めた。レリオットがこちらに背を向けている。と、そちらをちらとリュジャンは見ると、
「護国卿か」そう言った。「考えたものだが、この城にどれだけの兵が居る?よもや忘れたわけではあるまいな。兄君に何かあればひと声で、何万の兵がこの場に詰め掛けるぞ」
アリエスが黙る。そう――そうだ。それも承知の上。アルタイルは兵の数が何処よりも多い。だからこそ、長く戦を避けられ、また多くの諸侯たちに譲歩させて平和を保ってきたのだから。
でもそれは承知の上!ハールは思った。薄く笑う。そう――だからこそ、打つ手を全て打ってきたのだから?もうじき反撃の狼煙が上がる。それは他でもない、メリンダが決死の覚悟で仕込んでくれたことだ。たった一人彼女が別行動を取ったには訳があった。それは、誰よりも何よりも重要な役目を一手に引き受けてくれたからで。
わあっと声が上がる。それは広間の外からだ。開いた扉から、怒号のような声が聞こえてくる。だがそれは徐々に大きさを増し、
兵が動揺した。拝謁の間に――玉座の間の前に集まって剣を持ち膠着している兵士たちが目に見えてうろたえる。何だ?リュジャンの顔に僅かに懸念が浮かび、そのとき声がした。『誰か!誰か…!!』
『人魚』だ!!』悲鳴が響いた。途端にわああっと金切り声が上がる。すぐ真下――城の目の前にまで流れている、巨大な水路の方角から。「人魚だ!人魚だ!!全員召集せよ……!!」
悲鳴が上がる。金切り声みたいな叫び声。わああああっ!!その時リュジャンの目に認識が走った。アリエスが笑う。ああ――
ユリジェスちゃん。ハールは思った。気付いてくれたのね、思わず目を閉じそうになる。あのときメリンダが駆け込んでユリジェスに直談判する!と息巻いたとき、アリエスがふと思い付いたことがあって止めたのだ。待ってくれ、ならもし良ければ……
そう言いメリンダの持っていた「離間状」に何かを書き込む。乱心していた元のアリエスを苦にしていたとき、メリンダがお館様に書いて貰い大事に持っていた紹介状。その下に何か書き込む。それは単なる、メリンダのこれまでの経歴のような差し触りのない文面だけれど……
(昔)アリエスは笑った。(まだ子供の時分、遊んでいたことがある)そう言い微笑んだ。(ユリジェスと暗号を使って。父は俺がユリジェスに近付くことすら拒んでいたから…)
障りのない手紙で暗号をやり取りして、待ち合わせたことがあった。あれがまだ覚えていれば、上手くいくだろう。これをユリジェスに見せてくれ――
《水門を開けろ》暗号を指で追い示してみせながらアリエスは笑った。《兵を引き、玉座の間へ。決して剣を交えるな。ハール》
うわああ!声がした。パニックだ。城中にパニックが訪れている。ユリジェスが水門を全開にし水を大量に引き入れたのだ。人魚は水に潜む。耳が良く、全てを知る。頃合いを見て一斉に水から襲い掛かり、
「大変です!!」声がした。兵士が叫んでいる。「人魚が、人魚が……!!ロマーニュの水を伝って城内に……!!」
ごまんと襲い掛かる姿を、ハールは思い浮かべた。リュジャンが奥歯を噛み砕く。そのとき、あ、ああ――声がした。何だか長い夢から覚めたような呻き声だ。ああ、ハール……
我に返る。ずる、と音がして、ハールは目をやった。オスタリスだ。リュジャンの後ろにまだ尻餅をついている。片手を上げ、命乞いするみたいに。その顔は生気が失せている。死に怯える捕虜のように、頭に王冠こそ抱きこそすれ、さながら乞食のような様相だ。「ハール…!」
生きて、いたのか。呻くように言った。うわごとみたいに喋っている。「よ……」しわがれた声でハールを、アリエスを見ると言った。「よもや、殺すまいな?」尋ねる。「兄だぞ、お前の兄を……」
ハールは目を剥いた。いや、うっかり目を見開いてしまった。何を言ってるの?とっさに思考が戻ってしまう。「コノカ」に。さながら弱い老人でも演じるような、狡猾な物言いで、だがそのときリュジャンが背後を振り向いた。「!!」
刹那音がした。出し抜けにリュジャンが剣を突き刺す。それは一瞬のことで、再び音が消えるような空白が来た。いとも簡単に、唐突にリュジャンが背後のオスタリスの胸を貫いたのだ。「……!!」
声がした。子供のような喚き声が。引き裂かれた声にハールはゾッとした。だがその剣を引き抜き再び打ち下ろす。今度は顔目掛けて真っ二つに。
「リュジャン……!」
王冠が転がった。頭から抜け、金属音を立てて。レリオットが振り向き凍りついている。兵士もまた、凍てついたように動きを止めており――「貴様……!」
その瞬間再び時間が動いた。ボッと音がして炎が背後で膨れ上がる。アリエス、いやハールだ。ああああ!!声にならない叫びを上げてハールは飛び掛かった。リュジャン目掛けて。怒っている――それも尋常じゃないほどに!「リュジャン!!」
剣が上がった。炎を弾き返す。構わず魔法を繰り出しアリエスは叫んだ。貴様!貴様最初からその腹積もりだったな!!声を限りに叫んでいる。「傀儡にするつもりで!」
そのとき音がした。ドン!!真上に魔法が弾き上げられる。力で競り負けたのだ。ハールは目を見開いた。いつの間にかオスタリスの姿が変わっている。髪は元の赤毛に、地面に長くなった身体は皮膚が元の色に。老人のような姿にごっそりと束になった白髪が一瞬にして元の若さに戻るみたいに――「そうだ!!」
リュジャンが叫んだ。「最初からそのつもりだった!」思い出す。誰よりも残忍だった男。長子であるオスタリスに常に取り入っていたけれど、たまにオスタリスには情があった。確か、自分がいつか王になったあかつきには、辺境伯にハールを置こうとそんな話をしていたことがあって、
…感謝した、兄に。ハールはそう呟いていた。それは本来有った筋書きの中で。焚き火を挟んでレリオットと話していたとき彼が零したこと。俺に野心があったと誤解したのか……ハールは嘆いたのだ。(俺は、ただ、静かに暮らせれば良かったのに……)
弟に剣を向けるには偲びない。オスタリスはそう言っていた。あれに謀反の心さえなければ、私の目に付かぬ所に打ちやれば…
リュジャンが笑う。勝ち誇ったように。「そうだ!」ようやく本音を吐露することが出来晴れ晴れとしたように。「初めから用はない…!!この、半端な小物には?時が満ちるまでの繋ぎに過ぎなかったのだから!」
そしてハール、こちらに剣を向け叫んだ。「よくやったな!」あざ笑う。「川の主まで引き入れるとは!お前が敵で残念だ!!」
だがお前を殺せば全て終わる――そう言い笑った。「兄を殺したのはお前、私はその仇を討ったに過ぎんのだから!あれと同じ城壁に吊るしてやろう、烏に喰わせてやる、骨が千切れて朽ちるまでな、忌み子のハール黒太子!!」
言うなりリュジャンが剣を振り上げた。急に向きを変えアリエスに向かってまっしぐらに剣を掲げる。詠唱、ハールは思った。気付かなかった、知らぬ間に片手で魔法を紡いでいたのだ。リュジャンは剣だけでなく魔法の腕も立つ――思い出したが最後、時が止まった。黒々とした煙のような靄を帯びた刃。一太刀で殺せるよう仕組んだのだ。『アリエス!!』
その瞬間、何かが視界をよぎった。緑色、いや赤。色彩感覚の狂った世界の中でハールは視界がゆがむのを感じた。防ごうとしてアリエスが盾の魔法を紡ぎ――それがあっけなく競り負けた。ガラスみたいに簡単に打ち砕かれ剣が袈裟掛けに振り下ろされる。
ハール――手を伸ばした。何かが散る。赤いものと黒い帯。声がして、喚き声のような音が反響し、消えた。ハール様……!!
ドッ、と音がした。アリエスが吹き飛ばされる。地面に人形のようにバウンドして。ハールは叫んだ。ハール……!!
声がした。笑い声だ。黒い帯が彼女の傷口から――切られた場所から煙のように上がり消える。やられた、思った瞬間血が冷えきり力が抜けた。リュジャンが笑っている。ひたすら、勝ち誇ったように哄笑しており、
(ハール…!!)
よろめくように彼女に寄る。そのとき気付いた。アリエスの右手が薄く光っている。回生呪、最後の最後に魔法を紡いだのだ。助かろうと。だが呪いが血の中を駆け巡っている。助からない、そう気付いたそのとき、
ふいに何かが繋がった。ふつりと頭の中で糸が繋がるみたいに。
剣を取る。リュジャンが気付き、もう一度同じことをしようとしたそのとき、ハールは出し抜けに、剣を逆手にすると自分の方に差し向けた。
「おい!!!」
声がした。レリオットの声。だが、次の瞬間、何の躊躇いもなくハールは――コノカは、自分の胸を剣で貫いた。あっと悲鳴が上がる。それは他でもない、レリオットの――見ていた兵士たちの声。ハール様……!!
視界が白くなる。ああ、ハールは――コノカは思った。死ぬって、こんな感じだったっけ?剣を取り落とす。そう、経験ある。凄い痛みと、苦しみ。この後ふつっと白くなって、でもそれは今じゃない。
手を伸ばす。最後の魔法。たった一つここぞという時に練習してきたこと。アリエスの魂が離れかけているのが分かる。だが――
身を屈め、頬を捉えるとアリエスに唇を重ねた。最後の手向けみたいに。だがそのとき、数瞬遅れてふつりと意識が途絶え、痛みが消えた。火が点いたみたいな痛みが心臓から消え失せる。
「……ハール、様…?」
カラン、と音がした。遠くで誰かが呻くように言う。水を打ったような静寂が訪れ、そのとき、
ふっと手から何かが離れた。それは、いつの間にか、アリエスが必死で掴んでいたハールの服。
声がした。遠くで悲鳴のような声が。それは動揺、そして歓声。ああ!声が張り上がり、
「リュジャン!!」
キィン!!音が響き渡った。高い金属音、さっきよりもずっと澄んだ鋭い音。誰かが打ち合っている。無茶苦茶に。喚き声がしてコノカは目を開けた。口角泡を含むみたいな声。獣みたいに喚き散らしリュジャンが叫んでいる。「うわあ、ああ!!」
ガァン!!音がした。剣が跳ね上がる。無茶苦茶に弧を描いて。コノカはそれをぼんやりと見ていた。打ち合っている――二人が。ハールとリュジャン。だが息もつかさぬ戦いの中確かにリュジャンが押されており、
ドッ、地面に剣が突き立った。装飾の見事な王家の剣だ。他でもないリュジャンのもの。そして、
今度こそ悲鳴が上がった。断末魔みたいな喚き声。ぼんやりとした世界の中誰かが座り込んでいる。さっきのオスタリスみたいに、リュジャンが尻をつきわななきながら後じさっており、その首に白刃が突きつけられていた。
ハール……
夢?コノカは思った。白濁しかけた世界の中、目で追う。ハール、ハール黒太子。剣を握り彼が立っている。今までのことが全て夢みたいな。肩に傷を負い泡まで吹きかけているリュジャンを前に静かに立っており、
「……兄上」囁いた。「いや、執政リュジャン。父、エルメンガルド及び兄オスタリスの仇」
目を上げる。見届けなければ、思ったそのときハールが言った。
「覚悟召されよ」
ザン、音がした。首が飛ぶ。せめてもの情けのように一太刀で済み――そのときふいに、意識が離れ世界が暗転した。
9
「ハール、ハール様――」
声がする、どこかから。甲高い聞き覚えのある声だ。優しくて、それでいて毅然とした声。大好きだった女性の声。
「ハール様ってば!!」
突然声が降ってきて、ハールは――コノカは目を開けた。麗らかな陽射し、午後の昼下がりだ。ふんわりと仄かに花の香りが漂い辺りを包み込んでいる。「もう――」
また逃げ出そうとされましたわね?声が憤然とする。メリンダだ。腰に手を当てカッカしており、言った。「全く!お嬢様を見届ける責務が有ると申しておりましたでしょう!」
そう言ってから相手ははたと足を止める。瀟洒な緑色のドレス姿に美しいレースのエプロン。「……お嬢様」
コノカはぼんやりと目を上げた。ここ……どこ?目をしばたいてしまう。何だかどこかの楽園みたいな光景だ。周囲は美しい薔薇の植え込みに囲まれており、蝶が飛んでいる。白いベンチに豊かに積み上げられた織り出しの見事なクッション。「……ここ」
「あの世?」コノカは目を擦った。ていうか、どこ?辺りをキョロキョロしてしまう。甘い匂いに紅茶の香り。「また……」
いい加減になさいませ。メリンダがはあ、と溜息をつく。コノカは自分の姿を見下ろした。ふんわりとした感覚がして目を丸くする。白いレースに縁どられた可憐なドレス。青地に散らばる金の刺繍。これ……
特装版に描かれてたアリエスのドレスだわ……コノカはにへらぁ、と笑った。いい夢~~薄笑いを浮かべてしまう。そうよ、あのカバーが一番好きだったのよ……媚びず狙わず流されず、本当は芯の強いアリエスにピッタリな気がして。
「……ボケてるな」声がする。レリオットの声だ。ますわね。メリンダが引き取り同意した。「完全に…」神妙に頷いている。ずっとこうなのか?声は続いた。そうなんですわよ……あれからずっと、ここひと月この調子で…もう…
「コノカ」
その途端、コノカは目を剥いた。正確にはカッと目を見開いただ。そう、あのカバーにはもう一つ続きが有ったのだ。「黒太子」のハールの盛装姿が。王族復帰をイメージしたんでしょうけれど相変らず黒い衣装が不気味さを拭って凛々しくて、家宝にしようと同じ本を十冊買った覚えが…「あ…」
コノカは目をしばたいた。ハールが、すぐ傍に立っている。黒い衣装を身に着け立っており、だが胸に光っているのは勲章だ。「ハール…」
具合は?ハールが訊ねた。「え」それで思い出す。そうだった、あれから半月、彼女は後遺症で大変だったのだから?ハールがコノカの隣に腰掛ける。「………」
あのとき、ハールは――コノカは思った。記憶の糸を辿る。本当に死にかけていたのだ。瀕死のアリエス(ハール)を追うようにして自ら胸を貫いて。
でも、それは全て計算づくだった?目を閉じ胸に手を当てる。それはとっさに、今しか無いと思ってしたことだった。呪いのかかった太刀で切られて瀕死になったアリエスを見て思い付いたこと。
あれを試せばいい。それには、今しかない。
思い出した。魔女のあの説明を――東の魔女が、アリエスに「方法」を教えていたとき、実はハールも――コノカも聞き耳を立てていた。いいじゃん別に?と。減るわけじゃないし。魔法の手順や詠唱の内容を覚えてやる。まず、『入れ替わる人間が瀕死の状態であること』
『もしくは死を迎える寸前であること』、老婆の言葉を思い出した。魂とは肉体に結びついている――いわば肉体という土壌に根を張った花みたいなものだよ。無理に引き抜けば千切れてしまう。
だから地盤がゆるんだときに、つまり瀕死の状態にあるときに行わねばならない。コノカは復唱した。しかも「同時に」。だからとっさには奇跡のようなものだった。
あのときコノカは死ぬつもりでいたのだ。コノカはぼんやり思った。唇を重ね、互いに向けて「魂を相手に流し込む」。白濁した世界で、コノカは確かにハールとすれ違ったような気がした。それは宙で空中ブランコ乗りがすれ違い次の瞬間にはお互いのブランコに乗り移るようなものだけど。
失敗しても、ハールさえ助かればそれでいい。そう思っていた。魂は覚えている、元居た住処の肉体を。だからハールの方が成功率は高かった。コノカは失敗八割成功二割――
アリエスは最後に右手に回生呪を紡いでいた。だから、瀕死の体にハールの魂が戻ったとき、その手でタッチすればいい。その瞬間さえ身体が動いてくれれば。そう思っていた。ハールは癒され後は呪いのかかった身体をコノカが引き受けて静かに死ぬだけ。出来れば、最後の瞬間を見届けたかったけど…
それが、思わぬ結果になったのだ。それはたった一つ、最後の番狂わせ。今度こそ初めて感謝できる「予想外」であったこと――
ふと頬に手が触れ、コノカは我に返った。ハールがいつの間にかコノカを覗き込んでいる。コノカを――正確にはアリエスの体になったコノカを案じているのだ。「……酷い無茶を」ハールが呟きふと目を伏せた。手を取り上げる。「君には何と礼を言えばいいか、コノカ――」
あれから全ては片付いた。コノカは目を閉じ静かに笑った。リュジャンの首をはね、ハールが王位を取ったのだ。だが、ほどなくして駆けつけたユリジェスを見てハールは言った。最初に言っていたように。「ユリジェス、貴殿に王位を譲る」
周囲が凝然とする。ハール様!レリオットが叫び、だがハールは気に止めずユリジェスの前に跪いた。
「貴殿の御世に祝福あれ」そう言い兄から奪った王冠を差し出してしまう。そうして去ろうとした。お待ちを、兄上!追いすがるユリジェスに背を向けて。「俺はここを離れる」と。
元より王位に未練は無い――彼は言った。父の仇を討ちたかった、それだけだ。全てを果たした以上用は無い。
だがそれをユリジェスが引き止めたのだ。「なりません!そんな、僕こそそんな器じゃない!第一父は望んでおられたじゃないですか!兄上が王位継承されるのを、なら――」
では僕の補佐を!そう言ったのだ。「お願いです!!」言うなり膝をついてしまう。「父に免じて!!貴方をこの場で執政に任じます!僕の後継として!!」
そうして無理矢理引き止めたのだ。あまりに潔く去ろうとするハールを、今度こそその場の全員で捕まえて。
ハールが思い出し、ほっと息を吐いた。多勢に無勢だ……額を押さえている。よもや君まで裏切るとは?レリオットはしれっとしている。どうやら率先して引き止めた者の一人であるらしく、メリンダが吹き出した。「……でも」
良かったですわ……そう言い、目を閉じた。コノカの手に触れ心底安堵したような顔をする。「本当に…」涙目になると、強く手を握り締めた。「良かった。もう駄目かと思いましたのよ、本当に」
コノカは握られた手を見た。左手の手首に青い印がくっきりと浮き出ている。気付かなかったが、刺青みたいなものだ。メリンダが目尻を拭い笑った。
「良家の令嬢は」にっこりした。「回生印を刻まれるのです。生まれてすぐに。跡継ぎに何かあっては困りますから、もしもの為に…」
酷い手負いや、死に瀕する怪我をしたときなどに発動する魔法を。コノカは腕を見た。何だか腕時計みたいに模様が浮いている。痣みたいに微かに染まっており、これで命を拾ったのだ。コノカは笑った。あのとき、死にかけた体に飛び込んだコノカを助けたのは他でもないこれだった。お陰で見事に死に損ない、そして、
今度こそ手に入れた。コノカは吹き出した。女性の体を?心臓に手を当てて笑ってしまう。ふわふわの身体、慣れた感覚。やっとあるべき場所に戻れたような?ハールはモゴモゴしている。
これが本当の『ロイギル』のオチだ。そう思いそっと微笑んだ。ずっと幸せになって欲しい、そう思っていた話の最後。その彼の人生の結末。ハールはこれからここで「執政」になる。祖国のため、ユリジェスを援け、そしていつかは来(きた)るべき日に再びこの国の王として立つのだ。そしてレリオットはハールの護衛となり――ハッピー・エンド。で、アリエスは?
「…執政など」ハールは呟いた。黒太子らしからぬ気弱発言だ。「一人でこなせる自信は無い…せめて」
そう言いおずおずと目を上げる。酷く躊躇し、随分経ってから、ようやくハールは囁いた。
「せめて、誰かが傍に居てくれれば、どうにかなる気はするが……」
へ?アリエスはきょとんとした。これから私は国に戻ってお嬢様暮らし――そう考えていたのだ。今度こそ、メリンダと毎日美味しいお茶で会話を愉しむ日々!きっとたまにハールと手紙をやり取りして、少しずつ(そりゃ欲目よ、欲目ですけど)交友を深めていければいいな、って――でも今何て?「え?」
ハールが黙っている。初めて見る表情。(あ――…)という顔をメリンダがし、肘で小突いた。(全く伝わってませんわよ。そんな遠まわしな言い方なさるから…)
意を決したようにハールが言う。「君にここに居て欲しい、コノカ」
そのときコノカは目を見開いた。
――やっぱりだ。そう思いにっこりする。『ロイヤルギルティ』はハッピーエンドだった?きっとそうなってくれる、信じていたけれど、思った通りの最高のハッピー・エンド。
こういうとき、アリエスはどう答える?考えた。いえ私なら――
「喜んで」唇を吊り上げる。それはとびきりの笑顔。ハールがハッとして、そのとき、ようやくコノカは、いやアリエス・ロッドは、心の中でずっと開きっぱなしになっていた本が、パタン、と音を立てて軽やかに閉じられるのを感じた。
了