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「支社っていうか……」
由樹はその大きな建物を見上げて口を開けた。
「工場だよな…?これ」
明らかにそれは、白壁にミラーガラスが並ぶ本社とは比べ物にならない佇まいで、『㈱ダイクウ秋田支社』の看板が無ければ、地元の洋裁工場か、はたまた少し大きめの自動車工場と大差なかった。
「左遷……」
その二文字が由樹の脳裏をよぎる。
確かに由樹は先輩の数名に襲われた後、突然かつ一方的に会社を辞め、その後、乗り込んだ千晶とともに、ショールームで受付嬢の目の前で、意味深なやり取りをした。
しかし由樹が何も訴えないのをいいことに、坪沼と先輩たちは、上に自分たちの都合のいいように報告したとばかり思っていた。
薄汚れたブルーのつなぎ服を着た男が、ゴミ袋を抱えて裏口から出てきた。
きちんとスーツを着て、その上から光沢のある黒のトレンチコートを羽織った由樹を、彼は眉間に皺を寄せながら見つめた。
開発部のエースとして、製品の研究開発を行っていた坪沼が、つなぎ服を着て毎日職務に当たっている。
その事実に少しばかり呆然としながら、由樹はその男に話しかけた。
男が連絡を取り、応対してくれた事務職員から通されたのは、工場と比べるときれいすぎる食堂だった。
聞けば最近建て替えられたばかりだそうで、厨房も、テーブルも椅子も、全てに真新しい匂いが残っていた。
時刻は12時に差し掛かるところだ。もうすぐ休憩だからここで待っていてください、と言われ、由樹は頷き礼を言った。
端の席に腰を掛け、あたりを見回す。
先ほどの男と寸分も変わらないようなつなぎ服の男たちが、無精ひげを生やしながら、言葉少なに食堂に入ってくる。
厨房に注文をし、盆を手に適当に席に座り、割り箸を割って口に運び始める。
そのモソモソとした一連の動作が、昨日も一昨日と同じように、明日も明後日も続いていくのだろう。
由樹は真っ白い作業着に身を包み、開発部のバッチをつけ、本社の長く美しいな廊下を、肩で風を切って歩いていた坪沼を思い出して小さく息を吐いた。
「……新谷か?」
ゆっくり振り返ると、そこには汚らしいつなぎに長身をきつそうに押し込めた坪沼が立っていた。
「久しぶりだなー」
坪沼は食堂のホール脇にある談話室のひとつに由樹を通すと、後ろ手にドアを閉めた。
「……お忙しいところ、すみません」
由樹がそのドアをちらりと見ると、
「あ、すまん」
と言って、彼は閉めたばかりのドアを開けた。
「開けとこう。怖いよな。俺と同じ部屋に二人きりなんて……」
「………」
困ったように額をかいた坪沼を由樹は見上げた。
「悪い悪い。どうぞ、座って」
言いながらテーブルを挟んで向かい合い、二人は座った。
「一人か?」
言いながら、坪沼はその小さな目でちらりと由樹を見つめた。
「はい」
「そっか」
坪沼は両手をテーブルにつけ、突っ張るように腕を伸ばすと、ふっと力を抜いた。
「新谷から電話が来て、俺、正直焦ったよ」
「……どうしてですか?」
「弁護士でも連れてくんのかと思って」
言いながら坪沼はきまり悪そうに微笑んだ。
「俺、ひどいことしたろ?お前に」
「……あ、いえ…」
何と言っていいかわからず、由樹は俯いた。
「今ならわかるんだけどさ。あんときは、俺、よくわかってなかったんだよな。お前に、その夢中でさ」
「夢中……?」
思いもよらない単語が出てきて、由樹は思わず彼を見上げた。
「それって、当時、俺のことを好きだったということですか」
坪沼の顔がビクッと反応した。
「そんなの、当たり前だろ!じゃなかったら、俺、あんなこと、お前に……」
そこまで言ってから、深く頭を項垂れて、彼は苦しそうに息をした。
そして腹の底から絞り出すような声で言った。
「好きじゃなかったら、あんなこと、しないって!」
由樹はテーブルの下で握っていた拳をさらに握り直した。
「……それでさ。笑っちゃうんだけど。俺、あんとき、お前も同じ気持ちでいてくれてると勘違いしてたんだよ。
だからその、歯止めが利かなくなっちゃって……」
由樹はこめかみから垂れる汗を、男物のハンカチで拭う、かつての上司を見つめた。
背はもちろん高いが、去年よりも幾分痩せたように見える。
肌には潤いがなく、声には張りがなく、身体には活力がない。
こんなに“小さい”男だっただろうか……。
「悪かったよ。本当に」
「……いえ」
由樹は再び視線を下ろすと、弱くため息をついた。
その心底悪後悔しているような表情に、困惑してしまう。
彼が、新人だった由樹を可愛がり、勉強に深夜まで付き合い、休みの日の時間を削っていろいろつれ回してくれたのも事実だ。
ほんの少しの誤解で、二人の認識がずれ、坪沼に全くの悪意がなかったとしたら……。
「ところでお前、俺のことが嫌すぎて会社を辞めたのか?」
坪沼は縋るような顔で、両肘をテーブルにつけた。
「それなら、俺、上に掛け合って、お前をまた本社に戻せるようにしてもいいんだぞ?」
「あ、いえ」
由樹は小さく頭を振った。
「辞めた直接の原因は、その、坪沼課長ではなくて」
「ん?」
「………」
由樹は坪沼の顔を見つめた。
どうやら本当に知らないらしい。
「実は、その、数名の先輩たちに襲われまして―――」
「なん、だと?……誰に?」
「えっと……。高橋さんとか、安久津さんとか、辻さんに……」
「襲われたって、ボコられたってことか?」
「あ……うんと……」
由樹は思わず開けっぱなしであるドアを振り返った。
坪沼がその視線に反応し、慌ててドアを閉める。
「どうなんだよ、新谷」
振り返った坪沼の目は、充血しているように見えた。
「あの、まあ、輪姦された、というか」
坪沼は立ったまま拳を握りしめた。
「あいつら……!!」
その手をワナワナと震わせている。
由樹はその浮立つ血管を見て、一呼吸置いてから、彼の顔を見上げた。
「もう、済んだことだから、いいんです」
「よかないだろう!!」
坪沼が由樹に近づいた。
「新谷は……お前は、俺のものだったのに……!」
「え……?」
まずいと思った時には遅かった。
由樹は坪沼の長い腕に、パイプ椅子ごと抱きしめられた。