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午前二時。
ナースステーションの時計の針が、
いつもより遅く動いている気がした。
この時間の病院は、音という音が消える。
誰もいない廊下を歩くと、足音が
自分のものじゃないように聞こえる。
巡回表を確認して、懐中電灯を手に取る。
暗い廊下を進んだそのときだった。
――「……ねぇ……」
小さな声。
聞こえたのは、305号室。
そこは一週間前に患者が亡くなって、
今は使われていない。
背筋が冷たくなる。
それでも足は勝手に動いて、
ドアの前に立っていた。
「どなたですか?」
返事はない。
ただ、すすり泣くような音が
ゆっくりと近づいてくる。
床を擦る音。
……何かが這っている。
怖くて逃げ出したいのに、体が動かない。
扉の隙間から、かすかに白いものが見えた。
ゆっくり、しゃがむようにして覗き込む。
――長い、黒い髪。
床に広がって、湿った音を立てていた。
私は震える手で懐中電灯を点けた。
光が部屋の奥を照らす。
そこに、女がいた。
腰まで髪を垂らし、白い病衣を着ている。
顔は髪に隠れて見えない。
なのに、“私”に向ける視線を感じた。
唇が、ゆっくりと動く。
『……かえして』
息が止まった。
何を? 誰を?
後ずさると、廊下の照明が一斉に
チカチカと瞬いた。
目を閉じ、もう一度開けた瞬間
――女はすぐ目の前に立っていた。
皮膚はただれ、頬が裂け、
黒い液体が滴っている。
髪が床に広がり、病衣の裾が
血のように濡れていた。
笑っている。
喉の奥で、かすれた声がした。
『かえして。……わたしの、顔。』
翌朝。
同僚たちはナースステーションに
置かれた巡回表を見つけたという。
ただ一箇所だけ、“私”の名前が
書かれていた。
305号室の欄に、赤黒い”何か”で。