人身売買の犯罪に関わっていた疑いが濃厚だったシスターが遺体で発見された。
その情報が一夜明けた各朝刊紙面の一面を飾り、警察には以前にも増してマスコミが押しかけていた。
そんな、まるで蜂の巣を突いたかのような騒ぎの渦中にいるようなリオンがヒンケルからの電話を受けたのは朝の早い時間帯だった。
昨夜つまらない意地を張って一人で帰宅し、まんじりとも出来ない夜を明かしたのだが、その間何度も何度もウーヴェに電話を掛けて今すぐお前の傍に帰りたいと恥も外聞もなく泣き叫びたくなったが、そんな弱い己ともう一人の己が葛藤し、シングルベッドの中で何度も寝返りを打っていたのだ。
その葛藤の結果夜明けを自宅のベッドの中で迎えたリオンは、家族同然のゾフィーが陵辱され乱暴された果てに命を落としたのに空腹を訴える己の腹を睨み付けて冷蔵庫を開けるが、中身はもちろん空っぽで、乱暴な手付きでドアを閉めてベッドに力なく座り込むとウーヴェの声を聞きたいと膝を抱える己が姿を見せ、何でもいいから消えろと頭を振った時、ようやく薄明かりが世界を染め上げてきた頃なのにドアベルが一度だけ短く鳴り、勢いよく顔を挙げてドアを凝視する。
恐る恐るドアに近づいて掠れた声を掛けるが返事は無く、ある予想と願望を抱きながらドアを開けたリオンは、ルームウェアにカーディガンを羽織った姿のウーヴェを発見して目を丸くする。
『……ゼンメルとスクランブルエッグだ』
『あ……オーヴェ……』
『今日明日なら食べられる。出来るだけ食べるんだ』
食べる気などないと思うかも知れないが、食べておかなければいざという時に動けなくなるぞと苦笑したウーヴェを呆然と見つめたリオンは、ウーヴェがそっと袋を己の手に握らせるのもぼんやりと感じていたが、額に芽生えた温もりに我に返る。
『……っ!』
『おはよう、リーオ。今日は調査があるかも知れないんだろう?』
『…………ああ』
『自宅にずっと籠もって無ければいけないのなら仕方がないが、行き先をはっきりさせた上で外出をしても良いのなら来い』
誰かさんは昨日自分の仕事の余波で俺にまで迷惑が掛かると言っていたが、火の粉が降ってくれば振り払えば良いだけだと穏やかながらも強さを秘めた笑みを浮かべたウーヴェは、警察の内規ではどのように定められているのかが分からないが、とにかく調査に出向く前にしっかりと食べて行けとも念を押し、何があっても変わることのない温かなキスを唇に届けると、それを食べ終わったらデザートを食べろと見慣れていてもきれいな笑みを浮かべる。
絶対にすべてを食べてからデザートを食べるんだともう一度告げるとどんな言葉を返せばいいのか分かっていない顔のリオンに目を細め、言葉を聞く前に片手を挙げて階段を降りていく。
玄関ではリオンが呆然と立ち尽くしていたが、小さく聞こえてきたスパイダーのエンジン音に身体と脳味噌が覚醒したように慌てて部屋に戻って窓を開け、眼下を静かに通り過ぎていくキャレラホワイトのスパイダーを見送ったのだった。
そのウーヴェが差し入れしてくれた朝食を何とか食べ終え、最後に食べろと言われたリオンの好物である正方形をした板チョコをパキンと割ると、リオン自身予想もしていなかった感情が胸に溢れかえって息苦しくなる。
その感情に名前を付ける術をリオンは知らず、ただ胸が苦しくて前屈みになり、こうして自分を気遣い食事を届けてくれるウーヴェが本当に貴重な存在だと分かっていてもあの広くて立派な家に住む彼にいつもの顔を見せる余裕が今のリオンには無かった。
痛む胸を押さえながらチョコをひとつ食べると口内に甘さが広がるが、全身の指の先まで力になって甘さが行き渡ったようで、眠れないで夜通し考え続けたことも何とかなるとすら思えてくる。
たったひとつのチョコレートがもたらす安堵感とそれを与えてくれるウーヴェの温もりに感謝したリオンは、頬をひとつ叩いて落ち込んでいる場合ではないと背筋を伸ばしたのだった。
そうして少しでも前向きにリオンがなろうとした時、ヒンケルから電話が入り、署に来いと伝えられたのだ。
出掛ける用意をして顔をしっかりと洗って髭も剃ったリオンは鏡の中の己に向けて宣戦布告をし、何があっても負けねぇと呟いて家を出ようとするが、ドアノブに手をかけた時に何かを思い出して慌ててシンク前に置いた丸テーブルに出しっぱなしだったチョコを取り、いつかウーヴェが買ってくれたこのチョコレートを納める為のケースに入れてそれをパーカーのポケットに突っ込むと、自転車を担いで家を出るのだった。
取調室ではなく会議室を利用するのは、リオンが被疑者でも何でもないと言うことを調査官に知らしめる為の無言の抗議だと気付いたのは、会議室に駆け込んで二人の男女と対面するように腰を下ろした時だった。
女は黒縁眼鏡にブロンドの髪を乱れぬようにピンで留めているが眼鏡の下の青い瞳は冷たく光っていて、仕事以外では絶対に相手にしたくないタイプだし仕事でも出来る限り関わり合いになりたくない上司と言いたくなるような風貌をしていて、もう一人の男はうだつの上がらない風貌だったが眼光が鋭くなる時があった。
その冷たそうに見える女が表情に相応しい冷たい声で己はヴィーラントだと名乗り、隣の男はマニンガーだと紹介をする。
その二人に素っ気なく頷いたリオンが何が聞きたいのかと腕を組むと、今回の事件への関与だと真っ直ぐに問われて自嘲する。
「何がおかしい?」
「……いや、あまりにも直球だったからびっくりしただけだ」
あんたのストレートすぎる言葉に驚いただけだと苦笑したリオンだが、笑みを掻き消すと同時に今回ヴェラという少女が遺体で発見された事件の調査を進めていく内にゾフィーが人身売買組織の一員だったことを知ったと告げると、リオンの言葉が何処まで信じられるのかを探るように見つめられる。
「俺の言葉が信じられないのは分かるけど、何もかも疑って掛かられると素直に話す気持ちなんて無くなるね」
内部調査なんていわば同僚の腹を探るような仕事だから疑って掛かるのが当然なのかも知れないが、周囲の言葉と俺の言葉を平等に聞き入れて欲しいものだと、いつものリオンらしからぬ冷たい口調で言い放つとヴィーラントがメガネを押し上げる。
「疑って掛かっているわけではないわ。あなたという人とたった今初めて話をしたのよ。信じる基準が見あたらないだけよ」
「ふぅん……基準なんて自分の中にあるんじゃねぇの?」
その基準に達しなければ疑うだけだろうと笑うリオンに口を閉ざしたヴィーラントだが、では、人身売買組織についてあなたが知ったのは今回の事件が初めてなのかと気分を切り替えるように問い掛け、その通りだとリオンが頷く。
「警察に入ると同時に俺はホームを出たから、ゾフィーがいつから人身売買に関わっていたのかは分からない。あいつ名義の口座を調べたら定期的に金が入っているが出ていっている感じはなかった」
だから時折ホームに戻っても大金を手にした人間が良く取る行動を見かけたことはないと、過去の日々を思い出しながら告げるリオンを真正面からヴィーラントが見つめてその言葉に嘘はないことを実感として得ると、他のシスターや教会関係者達はどうだったと当然の問いを発するが、それに対する答えはリオンの冷笑だった。
「俺が知るわけがないのに他の奴らが知るわけがねぇ。それにゾフィーがもしも教会の面々に金を稼いでいることを伝えていたのならあいつらはどうして今もボロボロのあちこちガタが来た家に住んでるんだ?」
ゾフィーの口座の金を全額下ろせば立派な家が建つだろうと笑うリオンにマニンガーが目を細めてあんたの知らないところで使っていたんじゃないのかと呟くと、リオンの青い瞳がマニンガーを斜に見つめる。
「さっきも言ったが、ゾフィーが隠して持っていた口座から金が引き出されていたのはせいぜい50や100ユーロ程度。たった100ユーロでホームにいるみんなの腹が膨らむと思うのか?」
孤児院でマザーらと寝食を共にする子ども達が満足するまで食事をし、毎日取り替えても平気なほどの衣装を持つためにはどれだけの金が必要だと思うと笑い、100ユーロなんて雀の涙みてぇなもんだと笑うとマニンガーが口を閉ざす。
「フンラクフルトに行く交通費だったんじゃねぇかってボスが言ってたけどな」
その50か100ユーロでフランクフルトに出向き、自分が東欧諸国から集めた少女達に会い、中にはロザリオを渡す相手もいたのだろうと呟くと、リオンの目が見開かれる。
「どうした?」
「……ヴェラのロザリオがダーシャの傍で発見されたのは妹が死んだことを教えられたダーシャにあの教会で手渡したからだ」
それがゾフィーの、フランクフルトで短い生を終えさせることになった少女への償いであることに気付き、リオンが前髪を掻き上げて眉を寄せる。
「ヴェラ?……フランクフルトで見つかった少女ね」
「そう。ダーシャは姉でどうして妹のロザリオを持っていたのか疑問だった」
遠く離れた町で命を落とした姉妹を繋いでいたロザリオのことを思い出したリオンは、ゾフィーは金が欲しい一心で罪を犯したが、罪悪感がなかった訳ではないとも気付き、無意識に拳を握る。
彼女は彼女なりに苦しんだはずだし、最も身近な存在であるリオンが刑事だった為にその苦しみはかなりのものだっただろう。
それに気付けなかった己が本当に愚かで、肩を揺らして笑ってしまいそうになるのを何とか堪えたリオンは、ヴィーラントが咳払いをしたために顔を上げて前髪を掻き上げる。
「……あなたの言葉を疑うわけではないが、公平な調査をするために今まであなたが担当した事件の被害者や関係者に話を聞きたいと思う」
「今まで担当した事件の関係者? 別に構わねぇけど結構な数になるぜ」
「そうね。でもそれをしないと公平さを欠くことになる。そんなことは許せないわ」
たとえ時間が掛かろうが調べてみせると語気も荒く語るのであればリオンも冷たい目で彼女を見つめるだろうが、抑揚のない、だが冷静さの上着を取り払った下に近寄るだけでも火傷しそうな熱が渦巻いていることに気付き、外見から得る印象とはまた違った貌を持っているのだとも気付くと、肩を竦めてすべてを委ねること、自分は当分自宅待機をしているので連絡が欲しい場合は携帯に直接連絡が欲しいと伝えると、二人が頷いて取り敢えず今日は構わないと言ったため、戯けた風な礼を残して会議室を後にする。
リオンを視線で見送った二人だったが、まずどの事件の関係者を呼ぶのかとマニンガーが身体ごと向き直って問い掛け、ヴィーラントが手元のファイルを捲っていく。
「直近の事件は窃盗や傷害ばかり。……護衛もしているようね」
彼女の手元のファイルにある資料はリオンがウーヴェの父であるレオポルドの護衛をした時のもので、事件の詳細を読み進めていく内にそのレオポルドがドイツ国内だけではなくユーロ圏内でも名前の通った大企業の会長であることを知り、大企業の会長をたかが地方警察の一介の刑事が護衛をするのかと意外に感じるが、バルツァーサイドからリオンを直接指名してきたことも知り、ここにある資料だけではリオンと大企業の会長との接点が見いだせずに直接聞き出した方が良いとため息を零しつつファイルを捲っていくのだった。
内部調査が己の予想していたものとは少しばかり感触が違ったことに戸惑いつつ会議室から出たリオンは、刑事部屋に顔を出そうかどうしようか少し悩んで足を止めてしまう。
自宅待機をしている者が顔を出しても良いのかと思うが、ヒンケルが連絡をくれたのだから構わないと背中を押す声も存在し、その声に力を借りて一歩を踏み出したリオンは、刑事部屋が見えると同時に普段からは考えられないほど静まりかえっていることに気付いて壁際から顔だけを突き出して室内の様子を窺うと、写真や資料が貼り付けられて情報が書き込まれているホワイトボードを難しい顔で睨んでいたコニーを発見し何故か小声で彼を呼ぶ。
「コニー」
ゾフィーが犯した罪を告白する前に殺害されたことで事件解明への足掛かりが無くなったという後ろめたさと、忙しい時に自宅待機になってしまって申し訳ないという思いが声を潜めさせたのだが、その声を聞いた彼が顔を振り向けると同時にコニーの穏やかな風貌に苦痛や怒りと言った感情が浮かび上がり、やはり自分が声を掛けたのがいけないのだろうかと視線を彷徨わせると、肩を落としたように背中を丸めたコニーがやってきて、リオンの顔を無言のまま見つめる。
「悪ぃ、忙しいよな」
俺とは違って忙しいだろうと昨日発見されたゾフィーや一緒の部屋で死んでいた二人の男たちも調べなければならないのにとらしからぬことを呟いてコニーを見れば無言でコニーが頭を左右に振り、伝えるべきかどうするべきか逡巡するように視線を泳がせるが、何かを決心したように深呼吸を何度か繰り返しながら拳を握り、長く息を吐いた後に沈んだ声で昨日から今朝に掛けて分かった事実を教えてくれる。
「ゾフィーの身体から複数の人間のDNAが発見された」
「……カールが調べてくれてるんだ?」
「ああ。その事で警部がお前に直接話をしたいと言っているから警部の部屋に行って来い」
決心したもののやはり言い出せない何かがあるのかコニーが青い顔でリオンを見上げたため、こんなにも顔色を無くす同僚を見たのは初めてだと驚きながらもそんな彼を安心させるために頷いて刑事部屋に入ると、ホワイトボードの裏面を見ていたらしいブライデマンが姿を見せ、嫌味の一つでも言われることを覚悟しているリオンを痛ましそうに見つめてきたため、一体どんな心境の変化があったのか教えてくれと胸の裡で呟き、いつものようにドアをノックして返事を待たずにドアを開ける。
「おはようございます、ボス」
「リオン……!」
「?」
挨拶をしドアを後ろ手で締めようとしたが青白い顔のコニーとリオンの顔を決して直視しようとはしないブライデマンが後から入ってきたことに気付いて何ごとだと呟くと、ヒンケルが椅子に座れと丸椅子を指し示す。
「何ですか、ボス。ゾフィーのことで今以上に悪いことでもあったんですか?」
リオンにしてみれば皆の顔色が悪くなるのはゾフィーが絡んだ事件で最悪の事態が起きた事しか想像できなかったため、わざと軽口を叩くようにヒンケルの厳つい顔を見つめたのだが、その一言に観念したのか救われたのか、ヒンケルが手を組んで額に押し当てつつ、今何故その名前が出てくるのかが分からない男達の名を口にする。
「…………ロスラーとジルベルトだ」
「は? ロスラーとジルがどうしたんですか?」
そう言えばロスラーの姿が見えないが一体どうしたんだと室内にいる者の顔を見渡すが誰一人としてリオンの問いに答える者はおらず、ボス教えて下さいとリオンが焦れたように身を乗り出す。
「ゾフィーの身体から少なくとも三人の男のDNAが発見された」
「三人?二人はあの筋肉バカですよね。後一人って……あ、もしかして、あの動画を録画してたヤツですか?」
「そうだ。あと、彼女の身体に張り付いていた紙幣や床にばらまかれていた紙幣から今回の事件で登録されていない指紋が発見された。その指紋と彼女の身体に残っていた指紋は一致しなかった」
「え、じゃあDNAが検出された三人と紙幣に残っていた指紋の持ち主と合わせて四人があの部屋にいたってことですか?」
「ああ。……死亡していた二人のDNAを念のために今回の事件で検出されたものと照合したが、ダーシャの体に残っていた体液や毛髪から検出された物と一致した」
「じゃああの二人がダーシャを殺して川に捨てた?」
それならばダーシャ殺害の実行犯は死亡したことになると舌打ちをするリオンをヒンケルが組んだ手の上からじっと見つめる。
「その可能性が高くなった。ダーシャからも指紋が検出されていたが、その指紋と死亡した男の人差し指と両手の親指の指紋が一致した」
そしてダーシャの体内に奇跡的に残っていた体液も二人の男と一致したこと、またゾフィーに残されていた体液から検出した物とも一致したことを伝えると、それは動画を見たから当然理解出来るが紙幣に指紋を残していった人間と動画を撮っていたヤツは同一人物なのかとリオンが呟くと、今までとは比べられない、まるで空気が固形化したような重さを伴ってリオンの全身へと降り注いでくる。
「ボス? コニーもどうしたんだ?」
ブライデマンの顔が真っ青を通り越して真っ白だったが敢えて指摘をせずに上司と同僚を見ると二人が視線を重ねて合図を送り合い、コニーが溜息を床に向けて落としながらロスラーが昨日から行方不明になったと答える。
「ロスラーが行方不明?」
「ああ。警部がロスラーにフランクフルトの事件を洗い直せと命じたからあちらに一度帰ると言っていたそうだが、警部もフランクフルトの警察も誰もそんな事は命じていなかった」
「……ボス、それって……」
「昨日、マックスにフランクフルトに行かせた」
リオンが病院に行っている間に部長や署長と相談をしマクシミリアンにフランクフルトまで行くように命じたヒンケルは、現地に到着するが早いかマクシミリアンが入手した情報に驚愕と恐怖を感じたと呟き、コニーから引き継いだ言葉を伝える為に口を開く。
「ロスラーも人身売買組織の一員だった」
「!?」
現役の刑事が人身売買に関わっていたのかと昨日その驚きと恐怖を実体験したコニーらに遅れてリオンも経験してしまい、背筋を震わせて椅子の上でもぞもぞと身動ぎする。
「フランクフルトで参考人として事情を聞いていた男が口を割った。ゾフィーが連れてきた少女達をフランクフルトのFKKに振り分けていたのがロスラーだったそうだ」
「…………あ!」
「どうした?」
「ゾフィーのあの手帳……! アレを見せた時、ロスラーの顔色が悪くなってましたよね!?」
あの騒ぎの中ロスラーの様子など気にしていないと思っていたリオンが実は密かに観察していた事実を知って内心舌を巻いたヒンケルは、ドクも同じことを言っていたから調べさせたと手を組み、ドクが言っていたのは秘密を暴露されることへの恐怖を感じているようだとの言葉だったが、彼女の手帳に書かれていた情報をフランクフルトと共有して手分けして調べていることも伝えて口を閉ざす。
「じゃあ動画を撮っていたのはロスラーだったってことですか!?」
リオンのもっともな疑問に対しヒンケルが先程よりも顔色を無くしコニーも唇を噛み締めて拳を微かに振るわせ、ブライデマンなどはリオンの顔を直視する事も出来ない程真っ白な顔色になってしまう。
己の疑問は当然のものだと思っていた為に三人の反応が理解出来ずに眉を寄せたリオンは、ヒンケルの顔を直視しながらゆっくりと問いを発する。
「ボス、あの動画を録画していたのはロスラーだったんですか?」
リオンとしては当然ながらそうだという言葉を予想していたが、永遠にも感じるような沈黙の後にヒンケルが告げた言葉が予想外のものだった為に目を瞠って己の耳を疑う。
「…………は? もう一度言って下さい」
ヒンケルの重苦しい口調にリオンが何だってと問い返すと、リオンの少し後ろにいたコニーが同じように苦しそうな顔で、ゾフィーの手の爪から小さな皮膚片が発見されたこと、動画に映り込んでいたコードバンの革靴と全く同じ特徴を持つものが見つかったことを告げ、今まで生きてきた中で最低で最悪の事実を伝えなければならない己を呪うように、だが事実は事実として受け入れなければならないとも態度で示しながらゆっくりと口を開く。
「――ジルベルトだ」
「!?」
コニーの言葉にリオンが背後を振り返り、次いでヒンケルへと顔を振り向けると同時に椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、苦渋の決断を下している上司のデスクに両手をついて事実を説明してくれと声を荒げる。
「俺も最初は疑った。だがな、この時期にあいつがいないはずの祖父の葬儀に出席するからとフィレンツェに行ったこと、忘れていった革靴のことが気になって調べさせた」
それと平行してゾフィーの解剖の結果をいち早く終えたカールが伝えてくれたのは、爪の間から発見された皮膚からDNAが検出され、今回の事件で集められたものの中には無かったが、切り裂かれていた彼女のスカートのポケットから出てきたメダイにくっきりと指紋がついていたと教えられ、それがどうしてジルベルトのものだと分かったんだと詰め寄ると、彼女の身体に残っていた指紋や革靴に残っていたものと一致したことを教えられて腰を下ろそうとするが、その場に椅子が無かった為に派手に床に座り込んでしまう。
「リオン!」
「……ウソ、だろ……?」
己の姉を陵辱し殺害したのが同僚の中で最も信頼していたジルベルトだったと教えられたリオンの呟きが床に落ち、コニーが慌ててリオンの傍に膝をついて顔を覗き込もうとするが、その動きよりも先にリオンが勢いよく顔を上げて奥歯を噛み締める。
「教会に残されていたいくつかの吸い殻をすべて調べた。大半は無関係なものだったが、キャメルの吸い殻に残されていたものはすべて同一人物を示すものだった」
「……キャメル……」
「ああ。ジルが吸っていた煙草もキャメルだった」
ジルベルトのデスクを調べたが開封したばかりのキャメルのカートンが残されていたことを伝えたヒンケルは、部長らとも相談したことも伝えてリオンを見下ろす様に立ち上がると、片膝を抱えて座り込むリオンが顔を上げてヒンケルやコニーらが今まで一度たりとも見聞した事がない弱々しい顔と声で懇願する。
「ボス……ウソですよね? ……あいつが、ジルがゾフィーを殺したなんて……ウソですよね……?」
陽気で闊達、まるで子どもみたいだといつも揶揄われるリオンであってもさすがに陽気な仲間の筆頭であるジルベルトが己の姉同然のゾフィーを陵辱し嬲り殺した事実を受け入れることは出来ないようで、嘘ですよねと繰り返しながらヒンケルを見、次にコニーを見て最後に顔を背けるブライデマンのやけに生白い頬を見ると、蝋人形のような肌に数え切れない程の暴行の痕を残して物言わぬ身体をストレッチャーに横たえていたゾフィーの姿を思い出してしまう。
「――!」
生命活動を停止した身体は作り物めいていて、奇妙な実感と違和感を同時にもたらしていたが、ゾフィーの瞳や口に溢れていた生気を奪い取ったのがジルベルトだと知ったリオンは、拒絶反応を示したように身体を震わせて両手を床について今朝食べたもの総てを吐き出してしまう。
「リオン!おい、しっかりしろ!」
リオンが苦しそうに嘔吐する背中を見たコニーが慌てて部屋を飛び出し、驚きの目で見つめてくるダニエラ達にも手短に事情を説明し、医務室でリオンを休ませる準備をしてくれと叫ぶが、その時、黒縁眼鏡を押し上げながら冷たい目で室内を睥睨するヴィーラントとぶつかりそうになり、仲間内でも温厚だと評判の高いコニーが邪魔だからどいてくれと声高に叫ぶ。
「何があった?」
「今はあんた達の調査に付き合っている余裕はない」
コニーの激怒ぶりにヴィーラントよりも周囲にいた仲間や他の刑事達が驚き、一体どうしたんだとヒソヒソと顔を寄せ合って事情を探ろうとするが、ダニエラが水のボトルとゴミ箱を抱えてヒンケルの部屋に入った姿からリオンが何かしでかしたのだろうと結論づける。
ヴィーラントが顔を引き攣らせながらコニーを睨み付け、睨まれた方は意に介さない態度でヴェルナーを手招きし、来客時や休憩時にも使用しているソファをヒンケルの部屋に運ぶから手伝ってくれと伝え、ヴィーラントを一瞥する。
「リオンがどうかしたのか?」
「ああ。……警部の部屋で寝かせた方が良いかもしれない」
ダニエラには医務室の準備をしてくれと叫んだコニーだが、階下まで移動させる手間を思えば運び込んだソファで休ませた方が良いとヴェルナーに伝えると、幼い顔立ちのヴェルナーの表情が一気に引き締まる。
「ドクを呼んだ方が良いかな?」
「いや、まだ分からないな」
とにかくこのソファを運び込もうと頷き、ダニエラが開けたままにしているドアを潜ってソファを置くと、吐瀉物の横に倒れ込んで肩を震わせるリオンを二人がかりでソファに寝かせ、ダニエラがすぐさま用意をしたタオルを水で濡らして汚れた口元を拭いていく。
「……ゾフィー……っ……!」
リオンの掠れる声に混ざる悲痛な思いを読み取れない仲間達ではないためにどんな言葉を掛けるべきか悩んで口籠もってしまうと、リオンがぼんやりした顔で起き上がる。
「寝ていなさい、リオン!」
ダニエラの厳しくも暖かい口調も今はゾフィーを思い出させる為に辛くて、耳を塞ぐ代わりに顔を背けて拳を握ったリオンは、開け放たれているドアの向こうで立ち尽くすパンツスーツ姿の女性を発見し、表情の消えた顔を向けて唇の両端をきれいな角度に持ち上げる。
その笑顔はいつもリオンが見せる笑みとは異質なものどころか、リオンの精神が壊れかけているのではないかと疑わせるようなもので、間近で目の当たりにしたダニエラが一瞬で蒼白になり、ヒンケルでさえも背筋に嫌な汗が伝い落ちていくような恐怖を感じ取ってしまっていた。
「――ヴィーラントだっけ、あんた」
「!?」
リオンの呟きに皆がドアを振り返ったり顔をそちらに向けたりするとヴィーラントがメガネを押し上げながら入って来る。
「俺よりもジルベルトを調べた方があんたが望む回答を得られるぜ」
「それはどういうことかしら?」
「自分で調べろよ、オネーサン」
俺は自宅待機中で詳しいことは知らないと嘯き、何気ない動作で立ち上がって伸びをする。
「ボス、俺、まだ自宅待機ですよね」
「そ、そう、だな……」
「じゃあ家に戻って寝てます」
なので後の事をお願いします、部屋を汚してしまってすみませんでしたと頭を下げたリオンは、呆然と心配を綯い交ぜにした顔で見つめてくる仲間に目礼をし、ドアを塞ぐように立っているヴィーラントを手で押し退けて部屋を出て行こうとするが、押し退けられると同時に手を伸ばした彼女がリオンの腕を掴んで引き留めようとする。
「離せよ」
「……っ!!」
つい先程会議室で向かい合った時とは別人のような顔で冷たく言い放たれて手を離してしまったヴィーラントは、これからあなたが担当した事件の関係者を呼ぶことを何とか伝えるが、無表情に冷たく光る青い瞳が勝手にしろと言い放った為、グッと拳を握って顎を引く。
「…………」
悔しさや恐怖を何とか押し殺そうとする彼女を一瞥したリオンは、ヒンケルやコニーらの顔をゆっくりと同じく冷たい目で見つめた後、現実の総てをシャットアウトすることを教えるような背中を見せてヒンケルの部屋を出て行く。
残された仲間達はただ呆然とその背中を見送ることしか出来ず、ヴィーラントが悔しさに歯噛みをしてマニンガーの名を呼びながら部屋を出て行くのもぼんやりと見ているのだった。
その夜、クリニックからの帰りにリオンの家に立ち寄ったウーヴェは、シンク前の丸テーブルに己が持ってきた朝食を入れていた容器があることとチョコレートを割った為に欠片が零れているのを見つけ、持ってきたものは食べてくれたのだと胸を撫で下ろし、容器を手早く洗ってテーブルを拭く。
部屋の主が戻ってくるまで待っていようと決めていたウーヴェは荷物をベッドサイドの床に置き散らかり放題の部屋を見回すが、何か得体の知れない違和感を感じてベッドに腰を下ろし、その違和感の元を探るように室内を見回す。
狭くて古くて汚れている室内はいつもと変わらない景色に見えたが何かが違っていて、その違和感の元を探ろうとするが何がおかしいのかがわからずにベッドに寄り掛かるように床に座り直し、何気なく天井を見上げてそのまま視線を左右に流して物が溢れてこぼれ落ちそうになっているサイドテーブルへと顔を向け、そこで違和感の元を発見する。
「!?」
吸い殻が溢れそうな灰皿やポケットに突っ込んでいたのであろうコインや請求書の山の上、リオンが刑事であることを一目で伝えるための警察手帳が無造作に積まれていて、その手帳に辛うじて引っかかるようにロザリオがウーヴェの動きにゆれたのかゆらりと揺れていた。
「!?」
警察手帳を置いて出かけることが今まであっただろうかと脳味噌を目まぐるしく働かせて思い出すウーヴェの目の前で、マザー・カタリーナがリオンのために作り、独り立ちするときに手渡してくれたと教えられたロザリオが、リオンの夢の証である手帳に引っかかっていることが不可能になったのかのようにスローモーションでサイドテーブルから床に落ちていく。
その動きがロザリオが床に落ちる事象だけではなく帰ってきていないリオンの姿を現しているように感じてしまい、床にロザリオが落ちる寸前にウーヴェが伸ばした指に鎖が引っかかる。
何とか受け止めることが出来た安堵に胸を撫で下ろしながら掌にロザリオを載せてじっと見つめていると、床に置いたままのバッグの中から軽快な映画音楽が流れ出す。
「リオン!」
携帯を耳に宛って今どこにいるんだ、警察手帳を忘れていったのかと口早に問い掛けたウーヴェは、答えではなく沈黙が返ってきたことに眉を寄せ、リオン、聞いているのかと語気を強める。
その時ウーヴェが感じ取ったのは繁華街ではないがそれなりに人の動きがある場所にいる雰囲気だったが、微かにマイクのアナウンスらしきものも聞こえた気がし、今どこにいるんだともう一度問い掛けると辛うじて聞き取れる声がオーヴェ愛してると答え、ウーヴェが次の言葉を伝える前に通話が切れてしまう。
「リオン、リオン!」
通話が切れた携帯に向かって何度も名前を呼ぶが当然ながら返事はなく、震える手でリダイヤルをしても電源が入っていないことを無機質な声に教えられるだけだった。
その声を呆然と聞いたウーヴェは携帯を床に力無く落とし、掌で冷たく光っているロザリオを見つめると、まるでリオンそのものだというように握りしめて拳を額に押し当てる。
今回の一連の事件でリオンが負った傷の深さを理解していたつもりだったが、力不足だったのかと自問し、リオンのプライドを傷付けないために一歩引いた動きしかしてこなかった事に気付くと押し寄せる後悔に歯を噛み締める。
リオンを守ると言っておきながら己の言動で本当に守れていたのか。リオンと同じ気持ちになっていたのかと自問し、なれていなかったからリオンが姿を消したのだろうと自答し、歯軋りがするほど歯を噛み締める。
こんなことならば嫌がるリオンの首根っこを捕まえて引きずってでも自宅に連れて帰り、二人きりになって胸の裡で渦巻いている思いを吐き出させれば良かったと悔やんでも後の祭りで、もう一度携帯を呼び出してみるがやはり電源が入っていないというメッセージだけが返されてくる。
悔しさにロザリオを握った手で床を一度だけ殴ったウーヴェは、ここで落ち込んでいても仕方がない、自分に出来ることをするだけだと腹を決めて立ち上がると、リオンが置いていった警察手帳とロザリオをバッグに入れて部屋から出て行くのだった。
この日を境にリオンは行方を眩ませ、親しい友人や知人、職場の同僚達とも連絡を取ることはなく、ヒンケルやコニー、そしてウーヴェ達がその行方を捜す為に彼方此方に連絡を取るが、リオンの足取りは警察を出た以降途切れたままになっているのだった。
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