テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
y_i
90
神亜結花
14
「もちろん、続けるよ。さっきのは軽いウォーミングアップ」
「ふぅん。じゃ、今からが本番? いいよ、相手してあげる」
再び視線がぶつかり合い、空気が張り詰める。蓮はつま先に力を込め、一気に東海へと駆け出した。
踏み込みの音と同時に、風を裂くような打ち込み。
台本に沿った動きだが、間合いを詰める感覚や呼吸のタイミングは完全に実戦そのものだ。
「ッ……!」
東海の拳が掠める。蓮は腰を捻り、身体の反動を利用して鋭く蹴りを放つ。
「ぐっ……! ……あっぶな」
「……あれ? どうしたの? あぁ、ごめんね? 身長差考えてなかったよ」
唇の端をゆっくり吊り上げる蓮に、東海の眉間がピクリと動いた。
わずかな舌打ちが耳に届き、そこから漂う棘を感じ取る。
「ッ……あんた性格悪いね。わざと煽ってるだろ」
「それはお互い様じゃないかな?」
「はっ、言っとけよ」
再びぶつかり合う。足音と衣擦れ、息を吐き出す音が稽古場に響く。
次第に蓮の動きは滑らかさを増し、間合いの読みも正確になっていく。
元々スロースターターだが、いったん身体が馴染めば本領を発揮するタイプだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
10分が経つ頃には、完全に立場が逆転していた。
終了のホイッスルが鳴り響くと同時に、二人はほぼ同時に床へ倒れ込み、天井を仰ぐ。
「あー、残念。もっとやれると思ってたのに」
「アンタ……なんなんだよ。……どんどんパンチもキックも精度上がってくし……その辺の奴らより全然身体のこなしが違うんだけど」
「なにって、ただのオジサンだけど? 君こそ持久力が足りないんじゃないか?」
額を伝う汗をシャツの裾で拭い、にっこりと笑いながら言い返す。東海は悔しそうに起き上がり、胡坐をかいて盛大に溜息を吐いた。
「……っ、やっぱアンタ性格悪……っ」
「ははは、褒め言葉として受け取っておくよ」
「あー、疲れた。マジで悔しい」
「君も中々いい動きだったよ。でも、まだ荒削りだ。そこを上手くカバーすれば、もっと良くなると僕は思うな。……あと、喧嘩を吹っ掛ける相手を間違うと、そのうち痛い目を見るよ」
額の汗を手の甲でぬぐい、にやりと口角を上げる。
悔しさを隠しきれない東海を、わざとらしく鼻で笑ってみせた。
「……っ、チッ」
東海の舌打ちが背後で響く中、蓮は背筋を伸ばし、呼吸を整える。
その視線の先には、腕を組んで見ていた凛の姿が見え、ゆっくりと蓮の方に近づいてくる。
途端に稽古場の空気が一瞬ぴりっと引き締まる。
“鬼コーチ”と呼ばれる男が動く、その一歩で場の温度が変わる――はずだった。
「なんだかんだ言って、楽しんでたみたいだな」
柔らかな声音と口元だけの笑み。その場にいたスタッフや共演者たちが、一様に目を見開く。
「……え、あの御堂さんが笑ってる?」
「マジで……?俺、初めて見たかも」
「俺も……」
まるで化け物が人間の顔を見せたかのような視線とささやき声が、稽古場のあちこちから漏れ聞こえてくる。
「……あの人でも、あんな顔するんだな」
「やっぱ、特別扱い……?」
蓮は苦笑しつつも、背筋を正して兄を迎えた。
「そう? 結構ギリギリだったよ。彼に指摘されたとおり、まだまだキレも足りないし、動きもだいぶ鈍ってきてるみたいだ」
「そうは見えなかったがな。……まぁ、でもこれで少しはやる気が出ただろう?」
「うん、まぁね」
素直に返すと、凛は片眉を上げ、さらに笑みを深めた。
「それなら良かった。お前、主役だからな。スイッチが入ってもらわないと困る」
「……あと一週間だっけ? それまでには完璧な状態に仕上げてみせるよ。そうじゃないと……馬鹿にされるのは嫌いなんだ」
先日、自分の存在を無視したナギの冷たい横顔が脳裏をよぎる。胸の奥がチリ、と熱を帯び、内心で短く舌打ちをした。
――あんな屈辱、二度と御免だ。
「期待してる」
ポンと肩に置かれた兄の手は、そのまま蓮の頭へ移動し、わしゃわしゃと容赦なく髪をかき回す。
「……あのさ、子ども扱いしないで欲しいんだけど」
「すまない。お前の頭は撫でやすくて、つい」
「つい、じゃないだろ」
凛は他人には決して見せない、柔らかな目元で笑っている。弟子や後輩には叱咤はしても情を表に出さない彼が、蓮にだけはこうだ。
その異様な光景に、雪之丞や東海でさえ言葉を失い、驚きの色を隠せない。
周囲のスタッフも小声でざわめく。
「……あの御堂さんが笑ってる」
「しかも、あんな優しそうな顔……初めて見た」
まるで氷の仮面がひび割れ、人間らしい素顔が覗いたかのような空気が広がる。
しかし蓮にとっては、それは昔から変わらない“兄”そのもの。
厳しくも頼れる存在であり、誰よりも信じられる背中だった。
嫌ではない。……嫌ではないが、もういい年齢なのだから、そろそろやめて欲しい。
一応、抗議だけはしておく。どうせ聞く気はないとわかっていても。
「……ちょっとシャワー浴びてくる」
不本意な注目を浴び、背中に突き刺さる視線がどうにも落ち着かない。
汗臭いまま兄に撫で回され続けるのも、正直あまり気分がいいものではない。
ため息まじりに立ち上がった蓮は、軽く肩を回しながら稽古場を後にした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!