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それにしても、久しぶりに殺陣をやってみたが、中々面白かった。
まだスーツを着て実際にアクションしたわけではないが、少なくとも今日は思っていた以上に身体を動かすことができてホッとする。もしかしたら、二年という月日が、知らぬ間に恐怖心を薄れさせてくれていたのかもしれない。
――今日これだけ動けたのだから、スーツを着てのアクションも一週間あればきっと昔の勘を取り戻せる。
そんな確かな手応えを感じながら、長い廊下を歩く。ふと目に入ったのは、いくつかの控室のドアに掲げられたプレートだった。
何かドラマの撮影中なのだろうか。誰もが一度は目にしたことのある大御所俳優たちの名前がずらりと並ぶ。
その中に「草薙 弓弦様」という文字を見つけ、蓮は思わず足を止めた。
草薙弓弦――確か、獅子レンジャーに抜擢されていたメンバーの一人。今回のキャストの中でも特に人気が高く、注目されている若手俳優だ。女性ファンも多く、今年は「抱かれたい男トップ10」にも名を連ねている。
一体どんな人物なのか。あの日はナギにばかり気を取られ、まともに顔を見ていなかった。
長居をしたつもりはなかったが、知らぬ間に扉の前で立ち止まっていたらしい。
「じゃあ、ゆづ。また後でね! ――ぅわ」
突然、扉が開き、中から少女が勢いよく飛び出してきた。
避けようとしたが間に合わず、ポスッと胸元に軽い衝撃が走る。
「ご、ごめんなさ……うわ、キレーな顔」
「あぁ、いえ……」
慌てて顔を上げた少女と視線が合い、思わず苦笑する蓮。その直後、部屋の奥から半ば呆れたような声が飛んだ。
「姉さん! ドアを開けるときは周りを確認しないと……」
ひょっこりと顔を出した青年は、端正な造形をしていた。細身で背が高く、全体的にシャープな印象。きめ細かな肌に、こげ茶の髪がさらりと揺れる。
(へぇ……これが噂の草薙弓弦か)
噂どおりの美形。クールビューティの異名も納得だ。
「あ、ごめんなさい。怪我なかったですか? 急いでたもので……失礼します!」
蓮の胸元を凝視していた少女は、我に返るや否や物凄い勢いで謝罪し、返事も聞かずに走り去っていった。
「なんだったんだ……? 今のは」
少女が走り去った後、扉の前には蓮と、部屋の中に立つ青年だけが残った。
静かに視線が絡む。
「……すみませんでした。怪我は?」
低く落ち着いた声。
蓮は首を横に振る。
「いや、大丈夫です」
「そうですか……。よかった。じゃあ、私はこれで」
短いやり取りを残し、弓弦は静かに扉を閉めた。
その動作すら計算されたように淀みがなく、残るのはほんの僅かな余韻だけ。
(……やっぱり噂どおりの人だな)
蓮は胸の奥で小さく息をつき、歩き出した。
今回、蓮たちが稽古場として利用している建物の一角にあるシャワー室は全部で5つ。
古い造りのため個別ブースではなく、大浴場のように脱衣所を通して出入りする形になっている。
そのため、扉を開けたら別の俳優と鉢合わせ――なんてことも珍しくない。
「あっ……」
「……」
蓮が扉を開けた瞬間、中にはすでに人がいる気配がした。
しかも、最悪なことに――その相手はナギだった。
向こうもまさかこんなところで出会うとは思っていなかったのだろう。露骨に顔を背けられてムッとする。
久しぶりに会ったというのになんだその態度は。あの夜はあんなに可愛かったのに……。
「……久しぶりだね」
「……」
無視か、この野郎。
「つれないなぁ。あの夜あんなに愛し合った仲だって言うのに」
「わ、ちょ……っ、そう言うの止めてくれない?」
背後から近寄り耳元で囁くと、案の定真っ赤になって振り返ってきた。
「どうして? 君も満更じゃ無かっただろ?」
「……っ、それはそう、だけど……。あの時はアンタが芸能界の関係者だったなんて知らなかったから……」
戸惑いを隠し切れないのか、服の裾を弄りながら目を泳がせる姿はやっぱり可愛いと思う。
「ふーん。知ってたら声を掛けなかったって事?」
「当たり前じゃん! 俺、これから頑張んなきゃいけないし……。だから! こう言う誰が聞いてるかもわからない所であの夜の事蒸し返すの止めてくれる?」
「じゃぁなんで、あの時僕を誘ったんだ? いずれ有名になる予定なんだろう? いつも行きずりの男引っ掛けて発散してるの? それって危なくない?」
この子は自分の矛盾に気が付いていないのだろうか? 有名になった後で過去の男たちから情報をリークされたら、一発アウトなのに。
「ち、ちがっ……いつもはあんな事しないっ、……しないんだけど……」
蓮の言葉に反論しようとしたものの、自分で墓穴を掘っていることに気が付いたのか、次第に語尾が小さくなって行く。
そんなナギの姿を見て、嗜虐心がそそられ思わず意地の悪い笑みが浮かんだ。
「何時もしないことをしたんだ。それは何で?」
「なんでって……それは……っ」
「それは?」
俯いたまま言葉を詰まらせている彼の顎に手を掛け、上向かせる。
すると、観念したように瞳を潤ませて蓮を見つめた後、逡巡するように視線を彷徨わせてから、恥ずかしそうに頬を染めた。
「それは……っお兄さんが、タイプだったから……その、色々と我慢できなくなっちゃって……」
あ、ダメだ。なんて可愛い事を言うんだこの子。恥ずかしそうに視線を逸らすその姿は反則だろう。
今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたが、此処は公共の場だ、彼がいうように誰がいつ入って来るかもわからない。
しかし……。それにしてもよくもまぁ、こんなにも無防備に男を煽るような台詞を口に出来るものだ。
天然なのか? それともわざとやってる? だとしたら、質が悪い。
蓮は深呼吸を一つして心を落ち着かせて平静を装うと、ナギの手を引いて奥のシャワー室に連れ込んだ。
「わっ、ちょぉッ何!?」
戸惑いの声を上げるナギの声ごと飲み込むかのように、後ろ手で鍵をかけるとそのまま唇を重ね合わせる。
「ン……ぅ……っ」
「……っ」
何度も角度を変え、貪るように口付けを交わす。
ナギの柔らかい舌を吸い上げると、甘い吐息が鼻腔を掠めた。
「ぁ……ぅん……」
歯列をなぞるとビクリと身体を震わせ、すがりつく様に腕を回してくる。
「……はぁ……っ、……いきなり何すんだ!」
息継ぎの為に一旦離すと、とろんと蕩けた表情を浮かべたナギがキッと睨んできた。
「ごめんね? 君があまりにも可愛い事を言うから……僕の方が色々我慢できなくなっちゃった」
手を引いて自身の昂ぶりに触れさせるとナギがぎょっとしたように目を見開き息を呑むのがわかった。
「ここなら、声出さなきゃ誰にもバレないよ?」
そのまま手を掴んで自身に擦りつけながら耳元で甘く囁いてやると、みるみるうちに頬が真っ赤に染まっていく。
「……なッ、何言ってんの!? そんなのダメに決まってるじゃん!」
なんて言いつつ、手を離そうとしないのは一体どういうつもりなのだろうか。
「この間の夜、|好《よ》かったんでしょう? 凄く気持ちよさそうに喘いで、感じまくってさ……」
「っ、ぁ……言わないでってば……」
恥ずかしそうに視線を泳がせながらも、抵抗してこないのはやはり嫌ではないと言うことだろう。
「ほら、こうしてあげると……」
「んん……っ」
ズボンの上からやんわりと握ってやれば、切なげな声を上げてふるりと震える。
「嫌だって言ってる割に、腰浮かせて……えっちだね。僕、そういう子嫌いじゃないよ」
喉でククッと笑いながら、行為を思い浮かばせるような動きで膝の裏に手を差し込み持ち上げてやる。
ズボン越しに昂ぶりを押し付けて軽く揺すってやれば、既に芯を持ち始めていた彼のそこは徐々に硬度を増していく。
「はぁ……っ、……あぅ、だ、だめ……そんなに腰押し付けないでよ……」
「どうして? シたくて堪らなくなるから?」
「っ、違うし!」
「本当に?」
ナギの耳にふっと息を吹きかけて、そのまま耳の中をぞろりと舐める。首筋から胸元にかけて指先を走らせれば、堪えきれないとばかりにナギの口から熱いため息が零れた。
「いいね。その顔……。本当は期待しているんじゃないの?」
「し、してないっ……ほんとに止めてってば……誰か来ちゃ……」
「大丈夫。君が声を出さなきゃバレないよ」
言いながらドアに押し付け唇を塞いだ。
逃れられないように片手で後頭部を押さえつけ、体を密着させる。
「や、待っ……んんっ!」
強引に彼の口内に侵入し、舌先に触れ逃げる舌を追いかけて吸い上げると鼻から抜けるような吐息が漏れた。
それが余計に興奮を煽り、舌先で歯列をなぞり、上顎を刺激する。
舌の裏まで舐め上げ、最後に下唇を食むようにして離すと二人の唾液が糸を引いてぷつりと切れた。
「……っ、せめて服脱いでいい? 替えが無かったら困るし……。逃げないから」
はぁ、と艶のある息を吐きナギが汗でしっとりと濡れた前髪を掻き上げる。
「そんなの後にしなよ。君のココも凄いことになってるし。今更だろ?」
湿り気を帯び始めた下半身はすっかり形を成していて苦しそうだ。
ベルトのバックルを外して前を寛げてやり直接握り込んで上下に扱いてやるとナギの身体が面白いくらいに跳ね上がった。
「やっ、ちょっどこ触ってんだよ!」
抗議の声を無視して触れれば軽く扱いただけで先端からは蜜が溢れ出してきて、滑りが良くなり淫猥な水音が狭い個室の中に響き渡る。
「こんなにしておいてよく言うね。気持ち良いんでしょ?」
「ち、違っ! あっ、あ……駄目だって……っ」
「何が違うの? ほら、僕の手の中でビクビク脈打って今にもイきそうじゃないか。なんだかんだ言ってこの状況に興奮してるんだろう?」
耳元で囁くと首筋に鳥肌が立ち、更に硬く張り詰めていくのが手に取るようにわかった。
「あー、すっごいエロい。このまま一回イッとくかい?」
親指で鈴口をグリッと刺激すると一際高い声が上がる。
「やだ、ほんとに止めてってば……! っう、や、もう出る……っ!出ちゃうっ」
切羽詰まった声で懇願する彼の視線にぞくぞくとした快感を覚える。
「我慢しないで出しちゃいなよ」
耳の穴に舌を這わせながら指先に力を込めて強く擦り上げると、彼の体が弓のように反り返った。その拍子にシャワーのコックを強くひねったらしく冷たい水が二人の頭上から降り注ぐ。
「冷たっ!」
慌ててコックを捻るが時すでに遅し。お湯に変わるまでにはしばらく時間がかかりそうだ。
「はぁ……。あーぁ、結局びしょ濡れだよ……」
濡れてしまったシャツを脱ぎ捨てながら思わず溜め息をつく。湯の奔流を頭から浴びて服もパンツも全てずぶ濡れになってしまった。
「それはこっちのセリフ! 俺、ヤだって言ったじゃん」
恨めしげに見つめてくる瞳は涙で潤んでいる。頬も紅潮していてまるで情事の最中のような表情で言われても説得力が無い。
「ごめんごめん。つい君が可愛くて意地悪したくなったんだよ。でもまさか本当にイクとは思わなかったけど」
「~~ッ、誰のせいだと!!」
真っ赤な顔で睨み付けてくる彼に苦笑しながら濡れた前髪を掻き上げ、蓮は額に触れるだけのキスを落とした。
「そうだな、可愛い事言って煽ってくる君が悪い」
「アンタの可愛いの基準がわかんないよ! って言うか……こんなとこでしようとするなんてほんっと、信じらん無い」
そっぽを向いて不貞腐れた様子のナギを見て思わず吹き出す。
「そんな拗ねるなって。本気で嫌なら鍵を開けて出ていく事も出来たはずだ。それをしないで自分もソノ気になってたのに、人のせいにするんだ」
「そ、それは……っ!! だって……」
口籠もり俯いたナギの顎を掴み上向かせ今にも唇が触れ合いそうな距離で囁く。
「本当は、こう言うシチュエーションが大好きなんだろ? この間もバスの中だったし。変態はどっちだろうな?」
「ぅ……っ、違くて……あれはその……」
「何が違うんだ? バスの中で、声が出せない状況に興奮して俺の上で自分から腰振ってたくせに今更純情ぶるなよ」
耳元でわざと思い出させるように囁けば、ナギの顔が見る間に赤く染まっていく。
「そ、そんな言い方しなくたって良いじゃん!」
「僕は事実しか言ってない」
「……っ!」
「それとも、また虐められたいの?」
「ちが……っ」
否定の言葉を紡ごうとする唇を塞いで深く口付ける。
歯列をなぞり上顎を舐め上げて舌先を絡めて吸い上げる。
何度も角度を変えて貪るように唇を重ね、呼吸すらままならないほどに責め立てた。
「蓮君、随分ご機嫌なんだね。シャワー室で何かいいことあった?」
念のためにと準備していた着替えに袖を通し、すっかり濡れてしまった服をカバンに突っ込んで稽古場にしているスタジオに戻ると、練習中だった雪之丞に開口一番そう言われた。
「あー……うん。凄く可愛いネコがいてね」
「猫? スタジオ内に猫が居るなんて……誰かのペットかなぁ?」
「違うんじゃないかな? 首輪してなかったし」
不思議そうに小首を傾げる雪之丞に曖昧に笑いながら蓮はシレっと嘘を吐く。
「野良か。俺も触りたかったなー」
「……もうすぐ会えるよ。嫌でも」
ぼそりと呟いた言葉は雪之丞には届いていないらしい。
「何か言った?」
と、尋ねられ慌てて首を振る。
「なんでもないよ。それより、この後の予定は――」
出来ればもうさっさと帰ってしまいたい。これが終わったらあの子と……めくるめく妄想に思いを馳せていると、凛が二人を呼び寄せる声が聞こえて来る。
「え、ボクも?」
「そうだ。早く来い」
一体なんだというのだろう? 後半は雪之丞と手合わせしろとか言うつもりだろうか?
二人は顔を見合わせ、仕方なく彼の下へと足を向けた。
「蓮、そして棗には今から海まで行って、殺陣をやってもらう」
「「……はい!?」」
「―――ち、ちょっと待って兄さん! もう一回言って貰える!?」
「だから、今からお前ら二人には海に行ってもらうと言ったんだ」
突拍子もない事を言われ、思わず聞き返すと、目の前の男は至極真面目な顔をしてもう一度同じ台詞を繰り返した。
「いやいや、意味わかんないんだけど。どうして急に海になんか……っ。それに今からなんて……雪之丞と手合わせするなら別にここでもいいんじゃ……」
「午前中と同じことをしたって意味が無いからな。次はスーツを実際に着用してより実践的な動きを思い出してもらう。その為の移動だ。もちろん私も同行する」
淡々と説明をする凛に困惑の表情を隠せない。
せっかく終わったらあの子と甘いひと時を過ごせると思っていたのに……。
しかし、凛は有無を言わさないといった態度で早く支度しろと促してくるばかりだ。
「行くならもっと早く言ってよ……」
「ハハッ、凛さんの無茶ぶりは日常茶飯事だよ」
「……嘘……」
知らなかった。自分の兄は普段からこんなに強引なのか。蓮は項垂れながら深い溜め息を吐き出した。
せっかく彼と色々出来ると思ったのに。海に行くなら午前中からでも良かったじゃないか……。
海に向かう車の中で、蓮は内心毒づいていた。練習が終わり次第ナギと合流し、ホテルへ行って……あわよくば最後まで……と、思っていたのに。
「……何を不貞腐れているんだ」
「……別に。何でもない」
バックミラー越しに感じる視線から逃れるように窓の外へと視線を移す。こんな事になるのならメッセージアプリのID位交換しておけばよかった。
移動するギリギリまで彼の楽屋を探してみたが見つからず、結局連絡先を交換することが出来なかったのだ。
せめて現在何に出ているのかとか、スタジオが何処か聞いておけばよかった。
約束した玄関前まで行ってみたものの姿は確認できずに、そのまま凛が準備した車に乗り込んだ為、彼の現在地さえ分からない。
怒っている、かな? 変に期待させて行かなかったら、冷やかしだと勘違いさせてしまったかもしれない。
大体、10月の海なんて絶対に寒いに決まっている。風は冷たいだろうし、濡れたら確実に風邪を引く。大体、雪之丞は今回の急な移動をどう思っているのだろうか? 誰かとデートの約束があったとしたら、迷惑以外の何ものでもないはずだ。
蓮はチラリと横を見た。雪之丞はずっと俯いてスマホを弄っている。
「なぁ、さっきから何やってるんだ?」
「えっ? ええっと……着くまで暇だし、アプリゲームを……」
「ふぅん」
視線を落としたまま答える彼の言動からは、特に焦ったり困っていたりする様子は見受けられなかった。 確かに、若干コミュ障の気がある雪之丞がリア充している姿は中々想像が付かない。
いつも一人でスマホを弄ってゲームをしていることが多いし、友だちと出かけたとかそう言った話も聞いたことがない。
少なくとも蓮が所属していた間は恋人が出来たという話すら無かったはずだ。
「……蓮君はやらないの?」
「僕はあんまり興味無いな」
「そっか。面白いのに」
そう言って再び黙り込む雪之丞を見て、蓮は小さく嘆息すると車のシートに背を預けた。
自分には、ゲームにのめり込む感覚がよくわからない。人の趣味っをとやかく言うつもりは無いが、画面と睨めっこしているくらいなら、アプリで適当な男を捕まえて、ホテルに連れ込んでしまった方が絶対に有意義だと思う。
まぁ、もっとも最近はナギ以上にそそられる相手もおらず、少々欲求不満気味ではあるのだが。
そんな事を考えながらぼんやりとしているうちに、車は高速に入り、しばらく行くとやがて目的地である海が見えてきた。
くねくねとした長い坂道を登りきると目の前には断崖絶壁が広がっている。
その景色を眺めているうちに、蓮は段々と憂鬱な気分が増長していくのを感じて小さく息を吐いた。
この景色を自分は知っている。この先に待っているであろう光景が容易に脳裏に浮かんできて、蓮は眉間に深いしわを寄せた。
あぁ、帰りたい。
だってこの場所は――。
「……着いたぞ」
凛の声に我に返る。いつの間にか車は止まっていて雪之丞は既に車を降りた後だった。
「蓮君。ちょっと寒いけど、潮風が気持ちいいよ」
雪之丞が目を輝かせて見つめる先にあるのは夕闇に染まりかけた海だ。水平線の向こうには既に日が落ち始めていて空がオレンジ色に染め上げられている。
キラキラ光を反射する海面はとても美しく幻想的な雰囲気を醸し出している。だが、今の蓮に景色を楽しむ余裕なんて無い。
「……兄さん、どうして僕を此処に連れてきたんだ?」
硬い声で尋ねれば、凛は静かに口を開いた。
「……言ったはずだ。お前の今の現状を知る必要があると」
「それはわかってる! でも、何もここじゃなくったって……」
「此処じゃないと意味が無ないだろう。再びお前がアクションと向き合うには必要な事だ。――ここは、お前が大怪我をした場所なんだから」
「……っ」
凛の言葉を聞いて、思わず蓮は唇を噛みしめた。忘れるはずが無い。
2年前のあの日、確かに自分はこの少し先にある崖で撮影に挑んでいた。
危険なスタントは何度も経験して来たし、通常なら怪我をするはずのない場所だ。
誰もが、――自分自身でさえ、蓮は大丈夫だと思い込んでいた。
危険なアクションはそれだけで見応えがあるし視聴率にも直結してくる。
そこに慢心や油断があったのかもしれない。
結果、蓮は踏み切る際にスタッフの一人が片付け忘れた小道具を踏み、足を滑らせ崖下に転落してしまったのだ。
「……蓮君……」
「……ッ」
「出来ないというのなら無理にやらなくていい。インパクトに欠ける作品にはなるだろうが、監督に掛け合って今後危険なシーンは極力省いて貰うだけだ。だが、実際にお前が何処まで出来るのか、知っているのと知らないのとでは結果が大きく違ってくる」
「……」
兄の言う事は理解できる。稽古場でのアクションは問題なく出来ていた。しかし、本番となれば話は別だ。
実際にスーツを着て動くことで、身体の動きや体重のかけ方、足の踏み込みなど微妙な変化が必ず生じる。撮影が始まってからでは、やっぱり出来ませんなんていう訳にはいかない。
だから、凛はあえてあの時と同じ場所で同じ状況を作り出すために、海を選んだのだろう。そう考えると、相手役に雪之丞を選んだのも納得がいく。
彼なら気心も知れているし、自分が万が一崩れてしまっても他言はしない筈だ。
流石に東海や、他の後輩アクター達にみっともない姿を晒すわけにはいかない。
「……わかった。やってみるよ」
「本当に、大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべて覗き込んでくる雪之丞に曖昧な笑みを返す。
正直言って自信はない。波の音を聞くだけでも足が震えるのにスーツを着てアクションが出来るのだろうか?
「……ッ」
「蓮君、もう少し左に寄って!」
「……ッ」
「……よし、そこでストップ! 次はそのままゆっくりしゃがみこんで……ッ」
「――……ッ」
「……蓮、そこの足場から飛び降りろ。早く」
凛の声でハッとし、乗っていた場所から飛び降りようとする。たった数センチ。かっこよく飛び降りなければいけないのに足が固まって動かなかった。
「……ッ」
「……」
沈黙が痛い。
「……おい、雪之丞」
「……ごめんなさい」
「……いや、別に責めているわけではないんだが……」
「……」
「……」
「……」
もう何度繰り返したかわからないやり取り。
最初のうちは、ぎこちなかったものの何とか動けていたのだ。けれど途中からはもう完全に駄目だった。
最初は大丈夫だと思っていても時間が経つにつれ、どうしてもあの時の事が頭を過ってしまう。
あの時感じた恐怖がフラッシュバックして身体が思うように動かなくなってしまうのだ。
凛は困ったように眉尻を下げると、そっと蓮の肩に手を置いた。
「……今日はここまでだ。これ以上続けても意味が無いからな。後は帰ってからまた話し合おう」
「……うん」
「雪之丞も悪かったな」
「……いえ、ボクは別に……それより、蓮君が……」
申し訳なさそうにする凛に対して雪之丞は首を横に振る。不甲斐ない。正直言って、もう少し出来ると思っていた。なのに、結局このザマだ。
「……蓮、着替えたら車に戻っていろ」
「はい」
項垂れながら返事をすると、蓮はトボトボと歩いてその場を後にした。後ろからついて来る雪之丞の視線を感じるものの、振り返る気にはならなかった。
きっと自分は今にも泣き出してしまいそうな情けない顔をしているに違いない。そんな顔を見せたくはなかったし見せたところで何の解決にもなりはしないと分かっているからだ。
(……情けねぇ)
こんな状態で主演のアクターが務まるのか? そう思うと蓮の心は更に沈んでいった。
帰りの車の中は来た時と同じようにシンと静まり返っていた。
ただ、車内は重苦しい空気で包まれており、誰も口を開こうとはしない。
雪之丞はスマホを弄っているものの蓮の事が気になるのか、時々視線だけを向けてくる。
蓮はその視線に気付かない振りをしながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめた。さっきまでは夕焼けに染まっていた空はいつの間にか暗くなり、街灯の明かりだけが頼りなげに道路を照らし出している。
やっぱり、自分には今回の仕事は向いていないのではないだろうか?
先ほどの自分の動きを思い出し、思わず深い溜息が洩れる。
正直、もう少し出来ると思っていた。自分の体が鈍りのように重く、言う事を聞かない。
今まではどんなにハードな練習をこなしても疲れる事はあっても、体が全く動かないと感じた事は無かった。
あまりにも不甲斐ない自分に対する苛立ちと、焦燥感がじわじわと心を侵食していく。
期待してくれて声を掛けてくれた兄や、監督には申し訳ないが、やはり自分にはこの役は荷が重いのかもしれない……。
そもそも、一度引退した身だ。やはり自分には裏方作業の方が性にあっているのだろう。
「蓮君……」
「ん?」
不意に声をかけられて、蓮はハッと我に返ると雪之丞の方へと視線を向けた。
彼は相変わらずスマホを弄っていたが、その瞳は真っ直ぐにこちらに向けられている。その表情は何時になく真剣なものだった。
「まさか、役を降りるとか言わないよね?」
「……ッ」
今考えていたことを見透かされたような気分になりぎくりと身体が強張った。
バックミラー越しに凛がチラリと此方の様子を伺う気配がする。
「……わからない」
そう答えるのが精いっぱいだった。 実際、今の自分では役に立つどころか足を引っ張るだけだ。爆弾を抱えた自分を起用するより、多少無難でも安定した演技が出来るアクターを起用した方が絶対にいいに決まっている。
でも、役を降りるとは言えなかった。
いや、出来れば言いたくない。
午前中に手合わせした東海との殺陣は本当に楽しかった。久しぶりに身体を動かしたが、あの時感じた高揚感や充足感を思い出すだけで自然と頬が緩んでしまうほどに楽しいと感じられた。
だが、これは仕事だ。けして遊びではない。マージンが発生する以上中途半端なものを見せるわけにはいかない。
「……別に今すぐ結論を急ぐ必要はないだろう。もう少し段階を経て挑むべきだったな」
すまない。と運転席から凛の声が聞こえてきて、蓮は小さく息を吐いた。
「兄さんが謝ることじゃないよ。……遅かれ早かれわかる事だっただろうし、寧ろみっともない姿をみんなに見られなかった事、感謝してる」
「……」
再び車内には沈黙が訪れ、スタジオに戻るまでの間、誰も口を開こうとはしなかった。
スタジオが近付くにつれ、約束を反故にしてしまったナギの事が気になった。
流石にもう待ってはいないだろうが、彼には悪い事をしたと思っている。
せめて一言詫びの言葉だけでも伝えられたらよかったのに……。
そんな事を考えながら窓の外を眺めていると、目の前の横断歩道に彼らしきが立っている事に気が付いた。
一瞬、幻覚でも見たかと目を瞬かせるが、確かにそこに居るのは彼のように見える。
よく似たそっくりさんだろうか? もしかしたら別人かもしれない。
でも、もし本人だとしたら?
「――蓮君? どうか、した?」
雪之丞の声にハッとして我に返る。いつの間にか信号は青に変わっており、車はゆっくりと進み始めていた。
「あ、いや……」
慌てて視線を窓の外へと向けるが、迷っているうちに彼は雑踏の中へと消えてしまていた。
「……なんでもない」
蓮は再び窓の外をじっと見つめる。
さっきのアレは見間違いだったのだろうか? 彼が来るかもわからない自分を何時間も待ち続けていたとは考えにくい。
でも、でももし……彼だったら? 蓮は無意識のうちに拳を強く握りしめていた――。