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スマホの画面を見ながらニヤける榊を乗せた橋本のハイヤーが、あと数分でマンションに到着しようとしていた。
片想いをしている、大切な相手を乗せているからこそ、いつもより丁寧な運転を心がけている目の前で、外装の装飾が派手な大型トラックが僅かに蛇行運転をはじめた。
トラックの荷台には、大きな弁天様が描かれているだけじゃなく、その絵を引き立たせるようにライトアップしているせいで、橋本の目には蛇行運転が誇張して見えた。
ほんの僅かな揺れだったが注意を促すべく、数回クラクションを鳴らしてやる。
「どうしたんですか?」
普段はクラクションなんて鳴らさない橋本の行動に、榊が話しかけた。
「目の前にいるトラックが、どうにも怪しい動きをしているんだ。大きな車で居眠り運転の末に、ハイヤーが巻き込まれたりしたら、たまったもんじゃないだろ」
「本当ですね。ちょっとだけ、ふらついているかも。だけど今どき珍しいな、デコトラなんて」
運転席に手を伸ばして前方を見据える榊を、橋本はルームミラーに視線を飛ばし、しっかり見つめる。自分が無意識におこなった無駄な確認作業に、やるせない恋心を感じた。
「確かに以前に比べたら、デコトラの数は減ってるよな。工場や倉庫を持ってる、大手の企業がデコトラの入場を規制していたり、保安基準でトラックが飾りにくい構造になっているから当然、数は激減するだろう。こういうトラックの維持費は高いのに、給料が安い業界で働く運転手や加齢の関係で、乗り手が減ったのも要因か」
目の前にいるデコトラの運転手も、間違いなくいい年齢だろう。歳からくる疲れで、ふらついているのかもしれない。
「おっ、停車帯に入っていった。注意するついでに、ちょっと顔を拝んでくる」
「プロのドライバーとして、頑張ってくださいね。だけど怒りすぎないように」
「何だよ恭介、まるで俺に叱られ慣れてるみたいな発言をするなんて」
大型トラックの真後ろにハイヤーを停車させて、シートベルトを外した橋本に、榊は自分のオデコをぺちぺち叩いてみせる。
「叱られ慣れませんよ。橋本さんってば、容赦なく叱るじゃないですか。デコトラの運転手さんが大丈夫かなぁと、少しだけ心配になります」
「年上相手に、ギャーギャー言わねぇよ。恭介のオデコを叩くのは、指導の一環からだぞ。俺の愛情がこもっているんだ」
すると榊は顔全部で憔悴を表わしながら「信じらんねぇ……」なんてことを口にした。
「何が信じらんねぇだよ。和臣くんに関して何かあったら、すぐに目くじら立ててバーニングするくせに」
橋本は車から出ると見せかけて、素早く振り返り、ぼんやりしている榊の広いオデコをいつものように叩いてやった。
「ゲッ! 隙をつくなんて酷い。俺の前髪の毛根がまた死滅した」
「大丈夫だ、死滅しない程度の力加減で叩いてやってる。安心しろ」
「そんなことないですって。和臣よりも、確実にオデコが広くなって――って、あれ?」
おまえが毎日整えてる髪形のせいだと、橋本が反論のセリフを考えていた矢先だった。榊が驚いたように大きく目を見開いて、車の前方を指差す。つられるように橋本もそこを見たら、大型トラックから若い男が降りて、頭を左右に振る姿が目に留まった。
「いい歳したオッサンが降りてくると思ったのに、意外な展開だな」
「ですね……。若いトラック野郎だったんだ」
感嘆の声をあげた榊をそのままに、橋本はハイヤーから降りて、若い男のもとに向かう。
頭を振っていた男は橋本の存在に気がつき、疲れきった顔で、済まなそうに頭を下げた。
「おいおまえ、さっきの運転はどうしたんだ?」
苛立つ感情を押し殺した声で話しかけたが、言葉がきつくなるのは、どうしても隠せなかった。
「すみません……。あと少しで仕事が終わると思ったら、気が緩んでしまったようで」
「気が緩んだだと!? ふざけんなよ、このクソガキ!」
若い男の言葉にプッツンした橋本は、榊を叱るように怒鳴りつけた。
「最初は小さな蛇行運転でも、大きな図体でフラフラしていたら、遠心力で大きな揺れに変わっていくんだ。それくらい分かるだろ?」
「はい……」
「疲れてるなら早めに休憩して、体調を万全に整えてから運転するのが、プロってもんだ。大型を運転するんだから、簡単に気を緩ませちゃダメだろ」
本当は、もっと言いたいことが橋本の中にはあったが、強く言えない理由もあって、それをぐっと飲み込む。
「仰る通りです。疲れているけど大丈夫なんていう傲慢な気持ちが、疲労感を抱えた躰を誤魔化していました。お客さんを乗せているのに、こうして注意してくださり、ありがとうございます」
「……あの客は、待たせても大丈夫なヤツなんだ。気にするな」
1秒でもいいから、早く恋人に逢いたいという榊の気持ちを分かっているのに、他人に注意を促すことで待たせる行為は、イジワルに繋がるものになる。しかし逢えない時間が長ければ長いほど想いは募って、再会したときの喜びが倍増されることを知っている、お節介という名の橋本からのプレゼントにもなっていた。
結局のところこの若い男は、榊の喜ぶ顔が見たいという、橋本のワガママに巻き込まれただけだったりする。
「おまえ、この仕事をはじめて、どれくらいなんだ?」
「もうすぐ1年半になります」
「そうか。ちょっと待ってろ」
若い男をその場に待たせてハイヤーに戻ると、後部座席のドアを開けて車内に設置されている、小型冷蔵庫に腕を伸ばした。
「橋本さん、やっぱり優しいですね」
中にあった飲み物を掴んだ橋本を見て、意味深に微笑んだ榊が声をかける。
「俺もトラックの仕事をしたことがあるから、大変さはわかっているしな」
「橋本さんが? なんかすごく意外かも」
「友人に頼まれて、日雇いで働いただけさ。あの男とすぐに話を終えてくるから、もう少しだけ待っていてくれ。悪いな恭介」
ドアを閉めて、すぐさま若い男が待っているところまで戻った。
「ほらよ。このエナジードリンク飲んで、頭をシャキッとさせろ」
「あ、その……。何から何まで、ありがとうございます」
男は小さく会釈して、手渡されたものを素直に受け取る。その様子を橋本は、まじまじと見つめた。
自分と同じくらいの身長だが、筋肉質そうな体つきは、肉体労働向きだなと思った。
「トラックの仕事は、体力勝負だ。集中力と体力が底をついたと感じたら、とっとと転職することだな」
長距離運転をして、荷物を運ぶだけじゃない。運転する前に、何トンもの荷物をひとりで荷台へと運び入れた後に、長距離をかけて運転し、目的地に着いたら、ふたたび荷物を搬入させる。何時間もかけて……。
運転するだけならまだしも、ひとりきりでの荷物の搬入は、マジでキツいものだった。しかもそんな重労働なのにも関わらず、賃金が安かったりするので、働き手が減っていく。
それが人手不足につながり、働いているドライバーの労働時間が自動的に増えていくという、負のループが回っていく業界だった。
「じゃあな、頑張れよ」
(この若い男は、いつまでそれに耐えられることができるだろうか――)
「すみませんっ、貴方の名前を教えてください!」
「別に、名乗るほどのものじゃねぇよ」
背中に投げつけられた問いかけに橋本は振り向き、右手を振りながら歩き出した。
「俺、宮本って言います。このご恩は、絶対に忘れませんっ!」
律儀に名乗った若い男の言葉に、橋本の足が止まった。面倒くさかったが、向こうが名乗った以上、名無しでいるわけにはいかなくなったので、仕方なく教えることにした。
「俺は橋本、何だか奇遇だな。名字に同じ読みがあるなんて、運命を感じちゃうだろ」
冗談めかして告げた言葉を聞いて、宮本がうれしそうに瞳を輝かせた。
「宮本のもとは元気の『元』じゃなく、本屋の『本』です」
「俺のも同じだ。それじゃあな、宮本。最後まで気を抜くんじゃねぇぞ」
振り返らずに右手をひらひら振って、ハイヤーに戻った。
「ありがとうございます、橋本さんっ!」
「しつこいな。その元気を、自宅に帰るまでにとっておけよ……」
静寂を切り裂くような宮本の大きな声に、橋本は眉根を寄せつつも、ちょっとだけ照れながらハイヤーに乗り込むと、急いで発進させた。
待たせてしまった榊に悪いと思ったからこそ、無駄なくスマートに車を運転させる。
そんな運転をしている黒塗りのハイヤーが見えなくなるまで、宮本が見送り続けていたのを、橋本は知る由もなかった。
偶然出逢った、デコトラを運転する若いドライバーの宮本とは、もう逢うことはないと思っていたのに。