テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
先に帰宅して、いつものようにスマホを眺めながら雅を待っていた。時計の針は、すでに午前四時を回っている。
サブスクの動画サービスで映画を探すのも切り上げ、そろそろ寝ようかとスマートフォンの画面を落とした。
朝五時まで店を開けていることもある雅にとって、この時間まで帰らないのは珍しくない。
休みの日でも碌に言葉を交わさず、そのまま土曜日が来て、彼はまた仕事へ行く。寂しいかと問われればそんなことも無く、もう慣れっこだった。
ひとつ伸びをしてソファから立ち上がる。キッチンのコンロには、酔い覚ましのしじみ汁を用意しておいた。
鍵置き場に«キッチン、鍋、中、見て»と簡潔にメモを残し、リビングの電気を点けたまま寝室へ向かおうとした、その時だった。
カチャリ、と玄関の開く音がした。リビングのドア。モザイクガラス越しに廊下の明かりが漏れ、雅の影が揺れる。
彼がリビングに来るのを、寝室へ向かう扉の前で見ていると、手洗いを済ませて入ってきた彼と、ちょうど目が合った。
「おかえり」
「ただいま、って何。寝るところ?」
「そうだけど」
「帰ってきたし待っててよ。どうせこの時間まで俺の事待ってたんだろ?」
「そんなわけないじゃない。ばーか」
我ながら、可愛くないと思う。素直に待ってたくらい言える女ならよかったのに、この面倒な性格は今更どうにもなりそうにない。
雅は私の心中を見透かしてか、ふっと笑みを零した。
彼がそのままいつもの場所に鍵を置こうとして、ふと視線を落とす。
その瞬間、はっとした。
(しまった……、急いで回収しておくんだった)
雅はその紙切れを、細く綺麗な指先で拾い上げた。
それを口元に寄せて隠すように、少しだけ目を細めて笑い「いつもありがとう」とそれだけ言い残して、彼はそのままシャワーへと向かった。
な、なんだ、今の意味の分からない眩しい笑顔は。
不意打ちの眩しすぎる笑顔に、目眩がした。
三十路の男が放っていい輝きじゃない。
時折見せるクズ男のアイドル並の笑顔にノックアウトしそうになった。
待っててよ、なんて言われたら、ここまで起きていたんだし…と自分に言い訳をして、もう一度ソファに腰を下ろした。
限られた時間を少しでも共有したいと願っているのは、きっと雅だけじゃない。
雅だって、時々無理に早起きして私を見送ってくれることがある。だから私も、こんな風に夜更かしをして、眠る前のわずかなひとときでも会いたいと無理をする。
付き合いたての頃の私なら、考えられない。あの頃は「私は勝手にするから、そっちが合わせればいい」と本気で思っていた。
正面から向き合うつもりなんて、さらさらなかったのに、今は生活のすべてを雅優先にはできなくても、少しでも長く、同じ空間にいたいと思ってしまう。
以前の私なら、仕事の疲れや翌日の予定を優先して、今頃はとっくに眠っていたと思う。そう思うと、雅も私も、ずいぶん変わったのかもしれない。
そう考えながら、なんとなくスマートフォンのアルバムを開いた。雅は写真を嫌がるし、進んで写りたがる男でもないけれど、思い出を残しておきたいという私のわがままには、何だかんだと言いながら付き合ってくれる。
(案外、私のわがままに弱いのよね)
暗いリビングで、画面に映されている雅の姿を眺める。画面の中の彼は、やっぱり少しだけ不器用な顔をしていて、そんな変化さえ愛おしく思っている自分に、私は苦笑した。
スマートフォンに視線を落として二十分。バスタオルで髪を拭きながら、雅がリビングに戻ってきた。
ふいに視線が彼とぶつかり、言いようのない気恥ずかしさに襲われて、私は咄嗟に顔を逸らす。
もしかしたら、今日がその日なのかも。
そう意識するたびに、体が強張る。夫婦になってからのほうが、付き合っていた頃よりずっと、彼を意識しすぎてしまう。
「……何?」
雅が髪を拭く手を止め、不審そうに問いかけてくる。
言葉にしなくても、空気がじわじわと熱を帯びていく。余裕をなくしていく自分を自覚するほどに、この男に抱かれると意識することが堪らなく恥ずかしくなった。
「何でも、無い。私、もう寝るから」
逃げるようにソファを立った。けれど寝室へ向かおうとした瞬間、背後から伸びてきた雅の手に手首を掴まれる。
振り返った先の、真剣な眼差し。それだけで、足が竦んで動けなくなる。
「逃がさないけど。一緒に寝るだけなら、待っててとか言わないだろ」
「し、知らない!」
「何で最近の夏帆ちゃんは嫌がるかな。意識してんの? 結婚して責任とってるし、何か問題? ここぐちゃぐちゃにされて、俺の、中に出してくらい、言えばいいのに」
いつの間にか手首を離した手は、私の体を逃がさないように肩を抱きよせていた。雅は空いている手で私の下腹部に指を這わせ、その先にあるものを意識させるように、ゆっくりと焦らすような触れ方をしてくる。
交際していた頃から、この男はこういう駆け引きを仕掛けてくる。
こうして煽ることで、私が本当に嫌がっているのか、それとも求めているのかを試して、人の反応をじっと見て攻め時をうかがっている。
普段は「仕事が大事なのはわかってるし、今が時期じゃないのも、知ってるよ」なんて、物分かりの良い夫の顔をして私を気遣ってみせるくせに、ひとたびただの男女に戻った瞬間、彼はこうして駆け引きを始める。
ずっとずっと、ずるくて、こういう所嫌いなのに……。
─────嫌じゃない。あんたとの駆け引きが。
いつになっても、いつまで経っても。この男を振り回していたいとずっと思っていたのに、いつからか振り回されるのも嫌じゃなくなっていた。
「……そんな甲斐性無いでしょ。いざ子供出来たら困るくせに」
「試してみる?俺は正直夏帆が仕事に行かず家にいてくれるなら、孕ませたくて仕方ないけど」
シャツの裾から忍び込んできた手が、私の脇腹をゆっくりと這い上がる。熱いのか冷たいのかも判然としないその指先が、肌をなぞるたびに擽ったいような、ゾクっとする快感に背中が跳ねる。正直、もう余裕なんて欠片も残っていない。
雅は私の髪を耳にかけさせると、そのまま耳元に唇を寄せた。わざとらしくリップ音を鳴らして、甘く耳朶を舐めてくる。私の弱点を知り尽くした、性格の悪い攻め方。
嫌だ、と思っているのに抵抗できず、雅のシャツの胸元を、離さないようにぎゅっと握りしめた。
そんな私の反応を、見て奴は笑みを零す。
今度は顔を至近距離で合わせる。
「……何、物欲しそうな顔しちゃって。おねだりも碌に出来ねぇのに欲しいもんもらえると思ってんの?」
「……っ……」
どこまでも意地が悪い。キスをするなんて簡単なくせに。欲しいものは目の前にあるのに、焦らすだけで一番欲しいところには届かない。
「……あんただって、欲しい癖に」
せめてもの抵抗で、私は彼を睨みつけながら言うと、雅は目を細め、心底楽しそうに笑った。
「欲しいよ。いつだって夏帆の全部欲しいって思ってる」
ほら、またこれだ。こういうところ。
嫉妬すれば余裕をなくして力でねじ伏せてくるくせに、私が素直になれずにいれば、一歩引いて逃げ道を塞ぎ、一番欲しい言葉を言わせる。
結局いつも、私が負けたような気にさせられる。
本当にムカつくけれど、どうしようもなく好き。
許せないのに、この男を求めてしまう。
「も……、無理。私の負けで良い」
絞り出すように告げた私の言葉に、雅が眉を寄せた。
どこか苛立ったような、そんな表情。
「バカだな、本当お前って……。無自覚な所ムカつくよ。計算?」
「え……?」
問い返す隙もなかった。代わりに降ってきたのは、甘い囁きでも何でもない、ずっと欲しかったもの。
さっきまでの余裕たっぷりの揶揄いはどこへ行ったのか、隙間なんて一ミリも許さないほど深く、激しく、余裕もない口付け。
脳が溶けるような快感に意識が白くぼやけていく。掴んでいたシャツを離し、今度は首の後ろに腕を回し、もっと、もっと、と強請る。
唇が離れた瞬間、お互いの唾液の糸が引く。
それさえも逃さず雅に舐めとられ、熱い吐息が肌に当たる。
視線が絡むと、雅は「……本当、ムカつくけどすげぇ可愛い」と、余裕もなくとびきり甘い言葉を吐いた。
私の返事なんて待たず、そのまま抱き抱えられるようにして寝室へ連れ込まれる。それからベッドに押し倒され、彼の重みが重なる。
☁︎·₊°
午前六時。陽はすでに昇っているというのに、この情事はまだ終わる気配がない。
彼は今日も仕事のはずなのに、そんな心配さえ馬鹿馬鹿しくなるほど、私達は幾度も身体を重ねていた。
「まだ飛ぶなよ……っ……、煽ったんだから、大人なんだし、責任取って……」
首筋に熱い吐息とともに唇を落とされ、絶え間なく腰を打ち付けられる。
今日の雅は、どこまでも執拗で、激しい。限界をとうに超えているのに、私は残ったわずかな力で彼の首を抱きしめた。
「はっ……、本当、うぜー。可愛すぎて、全部ぶっ壊したいのに、無くなってほしくは無いな」
矛盾した愛おしさを吐き捨てながら、雅が私の頬に汗で張り付いた髪を優しく指で払う。
もう、眠たいのに、寝かしてくれない。
可愛いだとか、愛の甘い言葉はうんざりなのに。
いつになったら、私はこの男に勝てるんだろう。
いつになったら、この男を振り回せる?
─────まあ、そんなのいっか。どうだって。
「み、やび……」
「ん?」
「だいすき」
自分の声が、届いたのかはわからない。ここが現実か、それとももう夢の中なのか。
きっと私は、朝になれば何も覚えていないなんて確認しようがない卑怯なことを言って、この男に愛を囁いたことをなかったことにするのだと思う。
でも、仕方ないでしょう? 夢と現実の区別がつかなくなるほどに、何度も執拗に、私はこの男に愛されているのだから。
「だから……っ、そういうとこだって……」
結局、私が望んでいたはずなのに、この男が私に振り回されている瞬間を見ていないまま、夢の中に落ちている。
コメント
1件
もう、この2人の駆け引きがクセになるわ…。「嫌いなのに好き」って感情が文章の端々から滲み出てて、じれったくて愛しい。雅の余裕あるようで実は必死な感じと、夏帆の素直になれないけど本心では求め合ってるギャップがたまらん。寝落ち寸前に「だいすき」って呟いて、朝にはなかったことにする卑怯っぷりも、逆に甘酸っぱくて好き。応援してます🔥