テラーノベル
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付き合い始めてから、しばらく経った頃。
阿部のアパートの隣の部屋に、新しい住人が引っ越してきた。
夫婦だった。
最初は特に気にしていなかった。
けれど。
数日後の夜。
『いい加減にしてよ!』
突然、壁の向こうから大きな声が聞こえた。
「……。」
阿部の身体が固まる。
『お前が悪いんだろ!』
何かが床に落ちるような音。
壁に何かがぶつかる音。
怒鳴り声。
阿部は怖くなって、ベッドの中で小さくなった。
やがて静かになったけれど。
その夜は、なかなか眠れなかった。
___________
それから。
隣の夫婦の喧嘩は何度も続いた。
昼間でも。
深夜でも。
時間は関係ない。
大きな怒鳴り声が突然聞こえてくる。
直接何かをされたわけではない。
それでも。
いつ始まるか分からない喧嘩に、阿部は少しずつ疲れていった。
そんなある日。
目黒と電話をしている最中にも、壁の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
『……今の何?』
「隣の人。」
『喧嘩?』
「うん。最近ずっとこんな感じ。」
『大丈夫?』
「俺は何もされてないから大丈夫。」
そう答えた直後。
大きな物音が響いた。
「……っ。」
思わず阿部が息を呑む。
電話の向こうの目黒がすぐに言った。
『あべちゃん。今日、俺ん家来て。』
「でも、もう遅いよ。」
『迎え行く。』
「めめ、明日仕事でしょ?」
『それでも行く。』
目黒の声は優しかったけれど。
断らせる気はなさそうだった。
___________
それから。
阿部は目黒の家で過ごすことが増えた。
「今日も泊まっていい?」
「もちろん。」
最初は一泊だけ。
次は二泊。
気付けば。
阿部の服が目黒のクローゼットに増えていた。
洗面所には阿部の歯ブラシ。
冷蔵庫には阿部が好きなもの。
「……俺、最近めめの家にいすぎじゃない?」
ある夜。
ソファで並んで座りながら阿部が言った。
「いいじゃん。」
「でも迷惑じゃない?」
「全然。」
目黒は即答する。
「むしろ帰るの?」
「俺の家あるからね。」
「……。」
目黒が明らかに嫌そうな顔をした。
「何その顔。」
「帰ってほしくない。」
阿部は思わず笑った。
「子どもみたい。」
「だって。」
目黒が阿部の手を握る。
「一緒にいるの慣れちゃった。」
「……。」
「仕事から帰ったらあべちゃんいるの、嬉しい。」
阿部の表情が柔らかくなる。
「俺も。」
「じゃあ。」
目黒は少しだけ緊張した顔になった。
「あべちゃん。」
「何?」
「一緒に住まない?」
「……え?」
「ここで。」
阿部が目を瞬く。
「同棲ってこと?」
「うん。」
「隣の人が怖いから?」
「それもあるけど。」
目黒は首を振った。
「それがなくても、一緒に住みたい。」
「……。」
「朝起きた時も、仕事から帰った時も、休みの日も。」
阿部の手を優しく握る。
「もっとあべちゃんと一緒にいたい。」
阿部はしばらく黙っていたけれど。
やがて。
嬉しそうに笑った。
「……俺も一緒に住みたい。」
「本当?」
「うん。」
目黒の顔が一気に明るくなる。
「じゃあ決まり。」
「早いよ。」
「明日から?」
「もうほとんど住んでるじゃん。」
二人で笑った。
___________
こうして。
二人の同棲生活が始まった。
朝。
「めめ、起きて。」
「あと五分。」
「昨日も言ってた。」
「じゃあ三分。」
「減っただけ偉いね。」
夜。
「ただいま。」
「おかえり、めめ。」
帰れば。
好きな人がいる。
休みの日には。
一緒にスーパーへ行って。
「これ食べたい。」
「じゃあ今日作ろうか。」
「一緒に作る。」
「あべちゃん料理できる?」
「……手伝う。」
「できないんだ。」
「ちょっとはできるよ。」
くだらないことで笑う。
ソファでは自然と隣に座る。
眠る時には。
同じベッドへ入る。
特別なことは。
ほとんどなかった。
それでも。
「……幸せだね。」
ある夜。
眠る前に阿部がぽつりと言った。
「うん。」
目黒が阿部を抱き寄せる。
「俺も幸せ。」
「最初、コーヒー買いに来てただけなのにね。」
「俺は最初からあべちゃん目当てだったけど。」
「それ後から聞いてびっくりした。」
「一目惚れだから。」
「ふふっ。」
阿部は目黒の胸元へ少し近付く。
もう。
壁の向こうから突然聞こえる怒鳴り声に怯えることもない。
聞こえるのは。
隣で眠る目黒の呼吸だけ。
「おやすみ、めめ。」
「おやすみ、あべちゃん。」
偶然出会って。
恋をして。
少しずつ近付いて。
今では。
同じ場所へ帰ってくる。
二人で始めた暮らしは。
驚くほど穏やかで。
阿部がずっとここにいたいと思えるくらい、幸せだった。
___________
目黒は最近、阿部との結婚を考えていた。
まだ阿部には言っていない。
指輪も、プロポーズの言葉も決めていなかった。
ただ。
朝起きれば隣に阿部がいて。
仕事から帰れば「おかえり」と笑ってくれて。
休みの日には二人で出かけて。
そんな毎日を、この先もずっと続けたかった。
もう目黒の未来には。
阿部しかいなかった。
___________
その日も。
二人は並んで街を歩いていた。
「今日の夜、何食べる?」
「めめ何食べたい?」
「カレー。」
「この前も食べたじゃん。」
「じゃあ、あべちゃんが食べたいもの。」
「それ一番困るやつ。」
そんな。
いつもの会話だった。
目黒は何気なく阿部の手を握った。
阿部も当たり前のように握り返した。
その時だった。
「あ……!」
小さな子供が。
道路へ飛び出した。
車が来ている。
「危ない!」
阿部の手が離れた。
「あべちゃん!」
考えるより先に。
阿部は走っていた。
子供を抱えるようにして。
道路の外へ押し出す。
そして。
振り返った。
目黒と目が合った。
ほんの一瞬だった。
阿部の唇が動いた。
『めめ、ごめんね。』
その言葉だけが。
目黒の耳に残った。
___________
阿部は。
帰ってこなかった。
あの日。
二人で出かけたはずなのに。
帰ってきたのは。
目黒一人だった。
身寄りのなかった阿部の葬儀は。
とても静かだった。
目黒は。
最後まで泣けなかった。
現実だと思えなかった。
遺影の中で。
阿部は笑っている。
「……あべちゃん。」
呼んでも。
返事がない。
昨日まで。
呼べば必ず振り返ってくれたのに。
棺の中の阿部を見ても。
まだ。
起きるような気がした。
「あべちゃん。」
もう一度呼んだ。
「帰ろう。」
声が震えた。
「家、帰ろうよ。」
当然。
返事はなかった。
___________
葬儀が終わった。
それでも。
家には阿部がいた面影がある。
玄関には。
阿部の靴。
洗面所には。
二人分の歯ブラシ。
クローゼットには。
阿部の服。
冷蔵庫には。
阿部が好きだった飲み物。
何一つ変わっていない。
なのに。
阿部だけがいない。
「……ただいま。」
仕事から帰るたび。
目黒は言った。
でも。
「おかえり、めめ。」
その声は。
二度と聞こえなかった。
___________
一ヶ月が経った。
二ヶ月。
三ヶ月。
周りは目黒を心配した。
少しずつでいい。
無理しなくていい。
そう言ってくれた。
目黒自身も。
いつかは少し楽になるのだと思っていた。
でも。
ならなかった。
夜。
一人でベッドに入る。
無意識に。
隣へ手を伸ばす。
冷たいシーツに触れて。
「あ……。」
そこで毎晩。
思い出す。
いない。
もう。
どこにもいない。
「あべちゃん……。」
ようやく。
涙が落ちる。
___________
ある日。
引き出しを開けた時。
一枚の小さな紙が出てきた。
初めて阿部へ渡した。
自分の連絡先を書いた紙だった。
「……持ってたんだ。」
目黒はその場に座り込んだ。
あの日。
偶然コーヒー店へ入らなければ。
出会わなかった。
毎日通わなければ。
仲良くならなかった。
勇気を出して。
この紙を渡さなければ。
恋人にはなれなかった。
阿部から初めて連絡が来た夜。
初めて二人で出かけた日。
告白した日。
一緒に暮らし始めた日。
全部。
幸せだった。
「……結婚したかった。」
声にした瞬間。
涙が止まらなくなった。
「あべちゃんと結婚したかった……。」
まだ伝えていなかった。
これからも一緒にいたいって。
家族になってほしいって。
ずっと。
隣にいてほしいって。
「言えばよかった……。」
いつか。
ちゃんと準備して。
一番いい日に。
そう思っていた。
時間は。
まだいくらでもあると思っていた。
目黒は。
阿部のいない生活に慣れることができなかった。
何ヶ月経っても。
コーヒーを飲めば思い出す。
街を歩けば思い出す。
家へ帰れば。
もっと思い出す。
そして今でも。
玄関の扉を開ける瞬間だけ。
ほんの少し期待してしまう。
もしかしたら。
「おかえり、めめ。」
そう言って。
阿部が笑っているんじゃないかと。
「……ただいま。」
今日も。
静かな部屋に声だけが落ちる。
返事はない。
目黒は目を閉じた。
最後に阿部が残した言葉は。
愛してるでも。
さよならでもなかった。
――ごめんね。
きっと。
一人にしてしまうことを。
阿部は最後の瞬間に謝ったのだ。
だから目黒は。
何ヶ月経っても。
その言葉に返事をすることができなかった。
「大丈夫だよ」と言ってしまったら、本当に阿部がいない未来を受け入れてしまうような気がしたから。
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#⛄️
kaede🍁
47,545
コメント
2件
悲しい😭
うわあ……もう、切なすぎて言葉にならないよ……。 最初の同棲の話とか、コンビニ帰りとかに「一緒にいるときが幸せだね」って言い合うシーン、ほんとに温かくて、読んでてこっちまで幸せな気持ちになったのに。 あの事故のシーン、一瞬で日常が壊れるのが怖いくらいリアルで、心臓がぎゅってなった。阿部くんの『めめ、ごめんね』っていう最後の言葉が、今もずっと頭の中に残ってる。 目黒くんの「ただいま」に返事がない、その静けさの描写がもう、胸が痛くて。泣きながら読んだよ。 みらさんの書く日常の細かい描写が、幸せだった分だけ喪失を深く感じさせるんだね……。最後の「大丈夫」って言ったら認めてしまいそう、って気持ち、すごくわかる。