テラーノベル
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次の日の朝、音は消えていた。
ハルは目を覚ますなり床へ耳をつけたが、聞こえるのはナナが台所を走る足音だけだった。
「何してるの?」
ナナが戸口から覗く。
「音、聞いてる」
「床の?」
「地下の」
ナナも隣に腹ばいになった。
二人でしばらく黙る。
「聞こえない」
「俺も」
「じゃあ、ないんじゃない?」
「昨日はあった」
ナナはあっさり起き上がった。
「昨日いたなら、今日はお出かけしてるんじゃない?」
「何がだよ」
「地下のやつ」
ハルは笑ったが、少しだけぞっとした。
地下に何か生き物がいると思ったわけではない。
昨日の音は機械の音だ。
たぶん。
学校へ行くと、ミオはすでに席についていた。
ハルが隣へ座るなり、ミオは言った。
「今日、工房の日だよ」
「それが?」
「ゲンさんに聞ける」
ハルは瞬きをした。
週に一度、午後の授業は修理工房で行われる。
壊れた道具の手入れや、簡単な配線、金属部品の扱いを習う時間だ。
教えるのはゲンという老人だった。
村で壊れた物が出ると、とりあえずゲンのところへ持っていけ、と大人たちは言う。
「何を聞く?」
「音」
「十七は?」
「一度に全部聞いたら怪しまれる」
「父さんじゃないんだから、別にいいだろ」
「ハルはそういうところが雑」
「じゃあミオが聞けよ」
「そのつもり」
午後、二人を含む十人ほどの子供が修理工房へ向かった。
工房は村の中央より少し北寄りにある。
屋根の低い古い建物で、入口には壊れた農具や金属板、使えそうな配線が種類ごとに積まれている。
中へ入ると、油と鉄の匂いがした。
「今日は水栓の分解だ」
ゲンが言った。
七十を過ぎているはずだが、声は大きい。
白くなった髪を短く刈り、太い指には細かな傷がいくつもある。
「壊れたからって捨てるな。どこが悪いか見つけろ。悪いところだけ替えれば、まだ使える」
机の上には古い水栓が並んでいた。
「新品は?」
誰かが聞いた。
ゲンは鼻で笑う。
「そんなもんが倉庫から勝手に生えてくるなら、わしは毎日昼寝してる」
子供たちが笑った。
ハルも笑いながら水栓を手に取った。
金属は曇り、根元には何度も工具を当てた跡がある。
ゲンは一つずつ部品を外して見せた。
「順番を覚えろ。外したものは並べる。分からなくなってから人に聞くな」
「分からなくなる前なら聞いていい?」
ハルが言う。
「お前はまず黙って手を動かせ」
また笑いが起きた。
作業が始まった。
ミオは外した部品をきれいに順番通り並べる。
ハルは三つ目で順番を忘れた。
「だから言ったのに」
「覚えてるよ」
「じゃあ、その輪っかどこ?」
「……ここ」
「違う」
「細かいな」
「水漏れするよ」
向かいの机でゲンが笑った。
「ミオの言うことを聞け。水は細かいところから逃げる」
その言葉に、ハルは昨日の会話を思い出した。
北側、圧が落ちてる。
「ゲンさん」
「手を止めるな」
「水の圧が落ちたら、音って変わる?」
ゲンの手が一瞬だけ止まった。
「何の話だ」
「機械」
「機械にもいろいろある」
ミオが横から続ける。
「地面の下から、ゴウンって聞こえる機械」
ゲンは二人を見た。
さっきまでの笑った顔ではない。
「どこで聞いた」
「北の方」
ミオは嘘をつかなかった。
ただ、境界とは言わなかった。
ゲンはしばらく二人を見たあと、作業台へ視線を戻した。
「古い送水管だろう。圧が変われば振動することもある」
「地下に送水管があるの?」
ハルが聞く。
「ある」
「どこまで?」
「知らん」
「ゲンさんも?」
「わしが村中の管を掘ったわけじゃない」
その言い方はトウマに少し似ていた。
ハルはさらに聞こうとしたが、ミオが足を踏んだ。
痛い。
黙れ、という意味だ。
作業へ戻る。
しばらくして、ハルは水栓の側面に薄い刻印を見つけた。
数字ではない。
読めない小さな文字と、四角い印。
「これ何?」
ゲンが覗き込む。
「昔の製造印だ」
「昔っていつ?」
「わしが子供のころにはもう古かった」
「じゃあ、百年前?」
「わしを何歳だと思ってる」
「百二十くらい」
「外に放り出すぞ」
工房が笑いに包まれた。
外。
その言葉を、ゲンは冗談のように使った。
ハルは笑いながらも引っかかった。
大人たちは外を危険だと言う。
なのに、時々こうして何でもない言葉として口にする。
授業が終わり、他の子供たちが帰り始めた。
ハルとミオは片づけをわざとゆっくりした。
最後の一人が出ていく。
ゲンは棚へ工具を戻している。
「まだ何かあるのか」
背中を向けたまま言った。
「ゲンさん、昔は境界の仕事してたんだよね」
ハルが聞く。
ゲンの手が止まる。
「誰から聞いた」
「父さん」
これは本当だった。トウマが以前、壊れたポンプを直せなかったとき、「ゲンなら昔の境界設備も触ってたから分かるかもしれない」と言っていた。
「昔の話だ」
「じゃあ、北側の地下のことも知ってる?」
「知らん」
早い答えだった。
ミオがハルを見る。
ハルも気づいた。
質問が終わるより少し早かった気がする。
「十七って何?」
今度はハルがまっすぐ聞いた。
ゲンが振り返った。
「何の十七だ」
「境界の柱にある」
「計器箱にもあった」
ミオが付け足した。
ゲンの目が細くなった。
「お前たち、北側で何をしてる」
「見ただけ」
「どこまで行った」
「壁の手前」
「建物には入ってない」
ミオがすぐに言う。
ゲンは大きく息を吐いた。
「トウマに見つかったら、わしまで怒られる」
「なんでゲンさんが?」
「お前らに余計なことを教えたと思われるからだ」
「余計なことって?」
「そうやって言葉尻を拾うな」
ゲンは工具箱を閉じた。
「十七は古い管理番号だ。それ以上は知らん」
「父さんも同じこと言った」
「なら答えは出てるだろ」
「でも、柱も計器も十七だった」
「古い設備はまとめて同じ系統番号を使うこともある」
ミオが尋ねる。
「何の系統ですか?」
ゲンは答えなかった。
代わりに工房の入口を開けた。
「帰れ。暗くなる」
外へ出たあと、二人はしばらく無言で歩いた。
先に口を開いたのはハルだった。
「絶対知ってる」
「たぶん何かは知ってる」
「ほら」
「でも、十七の意味を知ってるとは限らない」
「またそれ?」
「だってそうでしょ」
ミオは歩きながら指を折った。
「分かったのは三つ。地下の音は送水管かもしれない。ゲンさんは昔、境界設備を触ってた。十七を聞いたら、私たちが北側に行ったことを気にした」
「四つ。何か隠してる」
「それはハルの推測」
「もう推測でいいよ」
「よくない」
村の中央広場を抜けるころ、ミオが急に立ち止まった。
「そういえば」
「何?」
「工房の裏」
「裏?」
「古い機械、いっぱい置いてあるよね」
修理できない機械はすぐ捨てられない。
使える部品を外すため、工房裏の屋根付き置き場に何年も残される。
「十七、あるかも」
ハルが言う。
「探すだけ」
「分かってる」
二人は工房へ戻った。
正面ではなく、建物の横を回る。
ゲンの姿は見えない。
裏には錆びたポンプ、壊れた発電機、曲がった配管、用途の分からない箱が積まれていた。
「手分けしよう」
ハルは左、ミオは右から見る。
一つ目。
数字なし。
二つ目。
文字が消えている。
三つ目。
「ハル」
ミオが小声で呼んだ。
古い金属箱の側面を指している。
泥の上から指でなぞった跡。
17。
三つ目だった。
「やっぱり」
ハルはしゃがみ込んだ。
その隣には別の小さな印がある。
数字ではなく、アルファベットらしい文字。
学校で習う簡単な英字なら少し読める。
「……C?」
ミオが言った。
Cのような形。
その横に、17。
C-17。
「これも設備番号?」
「分からない」
「ゲンさんに聞こう」
「今聞いたら、ここ探したのばれるよ」
「もうばれてもよくない?」
「よくない」
そのとき、工房の中で物音がした。
二人は反射的に金属箱の陰へ隠れた。
足音が近づく。
ゲンだった。
老人は裏口から出てきて、まっすぐ二人が見つけた金属箱へ向かった。
ハルは息を止める。
ゲンは箱の前で立ち止まった。
そして、誰もいないはずの置き場で呟いた。
「まだ残ってたか」
ハルとミオは顔を見合わせた。
ゲンは箱を動かし、その後ろから古い部品を取り出した。
それだけだった。
老人が工房へ戻るまで待って、二人は外へ出た。
「聞いた?」
「聞いた」
「まだ残ってたか、って」
「箱のこととは限らない」
「ミオ」
「分かってる」
珍しく、ミオがハルの言葉を遮った。
「私も気になる」
二人はもう一度C-17を見た。
境界の柱。
北側の計器箱。
工房裏の古い機械。
同じ数字が、離れた場所に残っている。
設備の番号。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
でも、何の設備なのかを誰も答えない。
帰宅すると、ナナが昨日の絵の続きを描いていた。
境界の外側に、小さな丸がいくつも増えている。
「これ何?」
ハルが聞く。
「家」
「外に?」
「うん」
「誰が住んでるの?」
「知らない」
ナナは当然のように答えた。
「知らないのに描いたの?」
「だって、あるかもしれないでしょ」
ハルは返事をしなかった。
昨日なら笑っていたかもしれない。
外には何もない。
危険だから行ってはいけない。
それが村では普通だった。
でも、普通というのは、誰かが確かめたことなのだろうか。
夜。
また音がした。
ゴウン……。
ハルは布団を抜け出した。
窓を開ける。
冷たい風が入る。
耳を澄ませた。
ゴウン……。
昨日よりはっきり聞こえる。
ハルは音の方向を確かめようと、窓から顔を出した。
北。
境界。
そう思った。
けれど、少し違う。
音は遠くから空気を伝ってくるのではない。
家の床にも、窓枠にも、ほんのわずかに振動がある。
村の下を通っている。
ハルは手のひらを壁につけた。
ゴウン……。
何かが、村の地下で動いている。
そして、その何かは境界の下へ続いている。
翌朝、ハルはミオに言う言葉をもう決めていた。
音がどこから来るのか、確かめる。
今度は見るだけではない。
音が消える場所まで、境界に沿って歩く。
十七がどこまで続いているのかも調べる。
父に聞いても、ゲンに聞いても、答えは同じだった。
古い設備。
それなら、自分たちで確かめればいい。
ハルはもう一度、床へ耳をつけた。
ゴウン……。
低い振動の向こうに、何か別の音が混じった気がした。
水の音ではない。
金属が、ゆっくり擦れるような音。
それはまるで、ずっと閉じられていた何かが、地下でわずかに動いたように聞こえた。
コメント
1件
第3話、一気に世界の輪郭が見えてきました。地下の音、誰も答えない「17」、そして工房裏のC-17。同じ記号が離れた場所に散らばっているのに、誰も意味を言わないあたりが妙に不気味です。ゲンさんの「まだ残ってたか」という独り言、あれは絶対何か引っかかります。ナナが描いた外の家々も、子供の空想なのか本当なのか……。最後の「金属が擦れる音」で背筋が伸びました。次が楽しみです。