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郷愁に似た明かりを投げ掛ける暖炉の火や喉の奥に溜まる甘やかな香りの白檀を使ったベルニージュの魔術がレモニカを少しずつ正気へと戻す。失われていく狂気と取り戻されていく正気に怯えたレモニカは工房馬車に籠ってしまった。メヴュラツィエでありボーニスであり、その他色々な生き物でもある双頭の巨人は瓦礫の頂に倒れたまま、徐々に雪に埋もれつつずっと無意味な言葉を呟いていた。
ベルニージュは工房馬車の資料を読み漁ると、今度は瓦礫になったクオルの研究所を掘り返して、彼女、あるいは彼女たちの研究成果を探した。
どちらが誰の研究なのか、そもそも研究対象が同じだったのかも分からないが、深奥と魂の研究が主だったものだ。ベルニージュが初めてクオルに会った時にも、魂について研究していると言っていた。その目的があの異形の巨人を生み出すことなのだろうか。
ベルニージュにも確信はないが、確かに方向性としてはあのような巨人が生まれかねない研究を行っていたようだった。魂の融合に伴う肉体の融合。あるいは肉体の融合に伴う魂の融合。だとすればクオルも何かと融合したというのだろうか。
しかしレモニカに聞いたクオルの新たな姿、全身の骨が光り輝く様は、何か特定の生物との融合を示すような姿ではない。
毎日毎日メヴュラツィエの戯言を聞きながら雪を溶かし、瓦礫を退かして資料を探し、工房馬車に持ち帰る。そんなベルニージュの姿をレモニカは呆れた様子で見ていた。
「わたくし、あまり感心出来ませんわ」
肉汁滴る兎肉と夏野菜の漬物の付け合わせ、沢山の茸の汁物、硬くなり過ぎた黒麺麭を前に、大男レモニカは寂しげに呟いた。工房馬車の貯蔵庫にはクオルの残した食物が十分にあった。
二人が贅沢な食事を楽しんでいた日々のある夜のことだった。
正気に戻ったとはいえ、レモニカはまだ少し夢うつつな時がある。その言葉をどこまで聞いていいのかベルニージュは推し量る。
「何の話? ユカリに気を使ってるの? ユカリがやってきた時にもまだ十分余る量だと思うけど」
「違いますわ」レモニカは小さくため息をついて大きく首を振る。「多くの犠牲の果てに成し遂げられた研究を利用しても良いものでしょうか?」
「結論から言えば、知識に良いも悪いもない」ベルニージュは疑問を跳ねのけるように答える。「研究方法や研究の利用法には高い倫理が求められるけど、知識そのものに善悪なんてない」
「ですが」と言って、レモニカは出すべき言葉を吟味する。「悪しき研究方法に手を貸すことにはなりませんか?」
要するに共犯になることを恐れているというわけだ。
「ならないね。未来は過去に影響を与えない。悪しき研究方法がワタシに手を貸すのであって、その逆はない。もちろん、逆に、悪行が善い研究方法に基づいた知識で行われたからといって許されることはない」ベルニージュはレモニカに気を使って小さく噴き出す。「善い研究方法って何だろうね」
レモニカは納得しかねる表情で頷き、そのまま俯く。
ベルニージュは、レモニカのその感情を間違ってると断ずるつもりもない。感情にもまた善悪はないものだ。レモニカは被験者たちの悲痛や無念を想い、それに対して目の前の魔法使いの行動は無関心を示している。同じように感じてくれるだろうと思っていたために、繋がりを絶たれたと感じているのだろう。レモニカの思慮にまで浮かび上がってはいないだろうが、レモニカの中の味方と敵に振り分ける判断にベルニージュは引っかかってしまったのだ。
「その被験者たちだけど」と言って、ベルニージュはレモニカが顔を上げるのを待つ。「瓦礫を掘っても出て来ない。何か分かる?」
「おそらく、メヴュラツィエ同様に融合させられたのですわ」
「つまりメヴュラツィエたち以外はああいう姿ながらに生きていて、ここを立ち去ったってことだね」
ベルニージュの目の前の大男は瞳に涙を浮かべて、蓄えた髭を震わせる。
「じゃあ、彼らをどうにかしないといけない。運が良ければ助けられるかもしれない。そうでなくても元に戻さないといけない。あんな存在がうろつけばサンヴィアは混沌に呑まれるよ。ねえ、レモニカ。そのためには何が必要だと思う?」
レモニカははっとして顔を上げ、希望を込めた言葉を紡ぐ。「クオルが彼らに一体何をしたのか、知る必要があります」
「そういうこと」ベルニージュは頷き、努めて優しく話す。「知識はそれだけで宝石のように輝かしく、それでいて有用な道具にもなる。確かに危険な武器にもなるけど、誰かを助けることができる。だからワタシは魔法の研究が大好きで、そんな自分に誇りを持ってる。たとえ記憶喪失でもね」
レモニカは今度ははっきりと頷いた。その瞳は決意で彩られている。
ベルニージュは徒っぽい笑みを浮かべて付け加える。「ちなみに例のユカリに贈る魔法も完成させたよ」
「本当ですか!? それじゃあ……」
「うん。ユカリが到着し次第ようやくお祝いだね。幸い食べ物は沢山ある」
数日後、森の奥の邪な痕跡の残る場所にやって来たのはユカリ一人ではなかった。かの第二局首席焚書官サイス及び次席焚書官ルキーナ、そして他十数人の焚書官たちが淡檜の森を掻き分け、雪を踏み越えてやってきた。
ユカリがベルニージュとレモニカの名を叫び、喜びにあふれた様子で、焚書官から突出して走って来る。しかしその表情はこわばっていた。決して寒さのせいだけではない。
「ベル! レモニカ! 良かった!」ユカリは寒さに負けない陽気さで言い、二人を抱き締めて焚書官たちに聞こえないように囁く。「私たちは自分たちの作った魔法道具をクオルに奪われて、それを取り戻すために旅していることになってるから。よろしくね」
口裏を合わせようというわけだ。どこまで話したのか知らないが、たぶん必要以上に話してしまったんだろうな、とベルニージュは覚悟する。
焚書官たちはベルニージュたちに目もくれず、瓦礫の山の上に鎮座する双頭の巨人を取り囲む。
「いったい、何だ? あれは」
いつの間にかそばにいたサイスが巨人を睨みつけ、うんざりした様子で言う。
「メヴュラツィエと、あと色んな生き物が混ぜられてしまったらしいよ」とベルニージュは淡々と答える。
サイスは舌打ちをし、ユカリは何も言わずに巨人に憐れみの眼を向けた。
ルキーナも後ろからやって来て、落ち着いた声色で言う。「だからしばらく前から探知できなかったんだね」
「ともかく調べるほかないな」サイスは重々しい溜息をついて先行したルキーナを追う。「そもそもあれは生きてるのか?」
「生きているかは分からないけど動いているから注意して」ベルニージュはそう言って二人を見送る。
しかし二人が瓦礫を上り始める前に、突如双頭の巨人が両腕と両足で踏ん張る獣のように立ち上がった。まるで数千年眠りについていた石像が身じろぎするように、己の硬直した肢体を一つ一つ確かめるように立ち上がる。同時に姿かたちが著しく変化する。うってかわって柔らかな泥を捏ねるようにして、鼠と狼の合いの子のような姿になった。肉体は逞しくも、相変わらず二つある頭のうち、メヴュラツィエだった方は何かを警戒するように落ち着きがない。大してボーニス側の首は力なく項垂れている。メヴュラツィエだった獣の口の上下から伸びた前歯は、かの残虐な黄色目族の犀の皮をも容易く切り裂くという邪な剣のように輪郭の不揃いな鋸のようで、また極めて鋭い。
サイスに命じられるまでもなく焚書官たちのうち、魔術を身につけている者たちは双頭の魔物を痛めつける魔法を放つ。眩い炎を迸らせ、佇んでいた瓦礫をけしかけて、主なき影を投げつけた。
しかし魔物は不格好な巨体も、身も凍らせるような寒さもものともせず、解き放たれた発条のように襲い来る魔法を素早くかわして、前方に飛び掛かる。ひとっ飛びで瓦礫を降りた魔物の目の前にいたのはルキーナで、しかしルキーナの体は横から何かに突き飛ばされて魔物の牙をかわし、踏みしめられた雪の上を小さな悲鳴と共に転がった。
双頭の魔物はベルニージュたちとサイスの間で前歯をかちかちと鳴らし、沢山の獲物に目移りしているかのように餓えた眼を巡らせる。
ベルニージュはユカリが動く前に肩を抑えてとどまらせる。
「変身は最後の手段だよ。ワタシがやるからルキーナについてて」
ユカリはベルニージュの言葉に従い、レモニカとともにルキーナの元へ駆けだす。