木の軋むような音をひとつ
時也は静かに寝室の扉を開いた。
空気は凪いでいた。
重ねるように、静かに階段を下る。
藍染の着物の裾が木段を掠める音が
わずかな余韻を残していく。
だが──
聞こえない。
子供たちの声が。
あの、笑い声が。
騒がしくて、眩しくて
生を謳うような、あの無垢な響きが──
一切、聞こえない。
(⋯⋯まさか)
不穏な静寂が胸を掴む。
それを振りほどくように歩を早め
階段を降りきった先──
リビングの扉を開けた。
そこには──
沈痛な空気が、淀んでいた。
ソファに深く腰掛けたソーレンは腕を組み
眉間に皺を寄せたまま
その隣に座るレイチェルも唇を噛み
何かを呑み込むような眼差しをしていた。
そして──
その二人の
テーブルの向かいに座っていた青年が
時也の姿を見るなり、微笑を浮かべた。
柔らかな笑顔。
穏やかな眼差し。
「起きられましたか、時也様⋯⋯!」
柔らかな声色とともに立ち上がった青年は
だが、その内側にあるのが〝誰か〟──
時也にはすぐにわかった。
「ご心配をお掛けしました⋯⋯
〝アライン〟さん」
その言葉に
青年はひとつ目を細め、肩を竦めた。
「ちぇ。
即バレかぁ⋯⋯さすが、時也」
その背後で
レイチェルが小さく笑うように問いかける。
「時也さん⋯⋯もう、平気?」
「えぇ⋯⋯ありがとうございます。
本当に、すみませんでした⋯⋯」
時也は小さく頭を下げた。
だが、すぐに顔を上げ
抑えた声で尋ねる。
「──子供たちは⋯⋯?」
沈黙。
わずかな間を置いて、ソーレンが低く答えた。
「⋯⋯俺が、お前を運んで
戻った時には、全員帰ってた」
「⋯⋯そうですか⋯⋯」
その事実に安堵するでも、納得するでもなく
時也はただ、静かに呟いた。
すると、テーブルを挟んだアラインが
肘をつきながら、軽い調子で口を開く。
「心配しなくてもさ──
キミが倒れたことなんて、子供たちの誰一人
〝覚えてない〟から」
「⋯⋯!」
時也の表情が、微かに揺れる。
だが、次の瞬間。
「⋯⋯あのね、時也さん
落ち着いて聞いてね?」
レイチェルの声は、どこか震えていた。
その表情から、いつもの朗らかさは消え失せ
ただ、何か
〝言わねばならない真実〟を前にした苦悩が
滲んでいた。
その彼女の横で──
アラインは、どこまでも平坦に。
「──アリアなんだけど
血を噴き出しながら
どっか飛んでっちゃったよ」
さらりと言い切る。
時也の心臓が、音を立てた気がした。
「──っ⋯⋯!」
「馬鹿野郎、ストレートに言い過ぎだ!」
ソーレンが即座にアラインに詰め寄る。
だが、アラインは肩を竦めただけで
悪びれる様子はなかった。
「え〜?
だって、どうせ
時也には隠しきれないでしょ?
言い回しを変えたところで
心の声で全部バレるじゃない。
それなら
オブラートに包むだけ無駄ってやつだよ」
「⋯⋯アリアさんが──!?」
その言葉が、時也の口から漏れた。
その瞳は、はっきりと揺れていた。
先ほど、あの深淵の中で感じた
〝本物の気配〟
あの瞬間、触れられたはずだった──
唯一無二の存在。
自責と焦燥が胸の内で渦巻く。
時也は、唇を噛み締め、拳を握る。
そして、彼の中で──
静かに 何かが燃え上がり始めていた。
「今、青龍が出てはくれてるけど⋯⋯」
レイチェルが静かにそう告げた
まさにその時だった。
──バサッ!
紙の厚みがぶつかり合い
空気を裂くような乾いた音。
リビングの空気が微かに震えたその刹那
時也が着物の懐から
無数の護符を取り出した。
文様。呪式。呪文の連なり。
墨色で描かれたそれらが
一本の扇のように彼の手の中で開かれ
厳然たる〝構え〟となって場を支配する。
それはもう〝行動〟ではなかった。
〝思考〟が追いつく前に
〝本能〟が動いていた──
時也の身体は
既に捜索のための布陣を整え始めていた。
「今すぐ、式神の烏を三十⋯⋯
いえ、百羽──!!」
「ちょ、ちょっと待って時也さん!!」
レイチェルの焦るような叫びが走る。
時也は手を止め
鳶色の瞳だけをこちらに向けた。
護符の合間から覗くその瞳は
どこか不思議そうに丸くなっていた。
首を傾げ、控えめに問う。
「⋯⋯何か、間違っていましたか?」
その表情があまりにも真剣で
レイチェルは頭を抱えたくなった。
だが、堪えて
ポケットからスマホを引き抜く。
操作ももどかしく、数回スワイプしてから
彼の前に突き出した。
「アリアさんに
ティアナがしがみついてたから⋯⋯!
あの子が一緒にいたなら
これで居場所はわかるの!」
液晶に浮かぶ地図。
地図の中心には、点滅する一つのピン。
店から大きく離れた
深い森林地帯の座標が光を放っていた。
時也はゆっくりと画面を覗き込み
そして、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯ティアナさんが一緒にいると⋯⋯
なぜ、アリアさんの居場所が?
あ⋯⋯なるほど。
あの首輪に付けた
〝涙の宝石〟の気配⋯⋯ですね?」
その瞬間。
「はぁっ!?
あの〝ふかふかちゃん〟に
あの宝石を付けたっての!?
正気かい、キミ!?
あれ一個で何億すると思ってんの!!」
バンッ!と
立ち上がったのはアラインだった。
白い手が机を打ち
半ば発狂したように叫ぶ。
「お前⋯⋯反応そこかよ⋯⋯」
ソーレンが呆れ顔でアラインの肩を叩くが
当の本人はなおも顔を引き攣らせ
呪詛のように呟いた。
「信じられない⋯⋯!
破損リスクと紛失リスク、桁違いだよ!?
ていうか、首輪!?
猫の首輪に!?
ありえない⋯⋯⋯⋯っ!」
「全員スカポンタン!!!」
雷鳴のごとき咆哮が、リビングを貫いた。
レイチェルだった。
額に青筋を浮かべ
怒りの拳を机に打ち付けながら叫ぶ。
「ちっがーーう!!
確かにあの宝石も付いてるけど
そこじゃない!!
GPSの方よ、GPS!!!
グローバル・ポジショニング・システム!!」
──沈黙。
アラインは眉を寄せ、うんうんと唸り
ようやく「あー、なるほど」と呟いて
納得した。
ソーレンも、肩を竦めて
「あー、そういうことか」と呟いた。
しかし。
時也だけは、護符を握ったまま
完全に置き去りにされていた。
「⋯⋯じーぴー⋯えす⋯⋯?」
その呟きは
まるで禁断の呪句を唱えるかのように響いた
レイチェルはもう何も言わず
両手で顔を覆い
深く長い、絶望の溜息を吐いた。
「⋯⋯もう、いいわ⋯⋯
機械音痴の時也さんに教えるだけ無駄⋯⋯」
「⋯⋯あの⋯⋯つまり
ティアナさんの首輪が⋯⋯
アリアさんの場所を、教えてくれると?」
「そう!!
それで十分だから、護符はしまって!
ね?お願い!」
その訴えに、時也は神妙に頷き
素直に護符を懐へと仕舞った。
しかしその目元には
「GPSとは何か⋯⋯」という謎を
解ききれないままの迷子の影が残っていた。
「⋯⋯時也、お前
たまに本気で原始人みてぇだな⋯⋯」
ソーレンの呆れ声に
アラインがぽんと手を打ち、にっこり笑う。
「時也にとって〝機械文明との共存〟が
現代における一番の修行かもしれないねぇ」
その言葉に、レイチェルは無言で
クッションをアラインに投げつけた。
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