「転校生と人気者」
教室の扉を開けた瞬間、雫の心臓は早鐘を打った。
「……東京の高校、やっぱ人多かね」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、博多弁がこぼれる。
校舎の廊下も、ガラス張りのドアも、見慣れない風景だった。
転校初日。親の仕事の都合で福岡から引っ越してきた。
昨日までクラスの友達と笑っていたのに、今日はひとり。
寂しさを悟られたくなくて、精一杯背筋を伸ばした。
「じゃ、自己紹介してもらえるかな」
担任の声で教室が静まる。
黒板に向いた雫は、一度だけ深呼吸してから振り返った。
「秋元雫です。……福岡から来ました。よろしくお願いします」
声が震えそうで必死に抑えた。
教室の空気は思ったより冷たくない。
小さな拍手が起き、先生もにこやかに頷いた。
「秋元さんはあっちの空いてる席に。えーと、橘、近いから案内してあげて」
「はーい」
声がした方を向くと、茶色がかった柔らかい髪の男子が手を挙げていた。
大きな声で「こっちこっち」と笑う。
クラス全体がなんとなくほぐれる。
雫はほっとして、小さく会釈した。
「ここ、窓側でいいよ。荷物置ける?」
「うん、ありがとう……」
「橘蓮、よろしく」
「……秋元雫。よろしくね」
蓮は自然すぎる笑顔を見せた。
転校初日で不安な心をすっと撫でられるようだった。
昼休み。
雫は机でお弁当を開こうとしたけど、視線を感じた。
見れば蓮が堂々とこちらを見ている。
「秋元さーん」
「ん、な、なん?」
「一緒に食べない?」
「え、よかと?」
「もちろんだよ!」
博多弁が出てしまい、赤くなる雫。
蓮はそれを面白そうに見ていた。
「方言かわいいな」
「や、やめて……恥ずかしか……」
「なんで? すげーいいのに」
「……////」
二人で机をくっつけてお弁当を広げると、周りの友達も「俺もいい?」「私も!」と集まってきた。
自然と輪ができる。
蓮が中心にいて、みんなが笑っている。
東京のクラスなのに、なんだか暖かかった。
放課後。
雫は校門まで一緒に歩いた。
知らない街の夕暮れ。
人混みの多い交差点。
「秋元さん、こっちどこまで?」
「駅までやけん」
「俺も同じ方向。案内するよ」
「……ありがと」
蓮のペースに合わせるように歩く。
都会のざわめきも、彼が横にいると怖くなかった。
蓮は、今日一日だけで雫にとって東京で一番の知り合いになった。
数日後。
雫はもう教室でひとりじゃなかった。
輪に入って自然に笑えるようになった。
蓮がいつも声をかけてくれるおかげだ。
「秋元さーん!」
「……うちの名前、呼び方変えんと?」
「え?」
「名字じゃ堅かろ?」
「あ、じゃあ……雫」
「……////」
「いい?」
「……よかよ」
顔が熱い。
蓮は屈託なく笑う。
その笑顔を見たら、もっと話したくなった。
ある日。
雫は蓮に呼び出された。
放課後の校庭の隅。
夕焼けがグラウンドを茜色に染めていた。
「な、なんやろ?」
「うん、ちょっと……話したくて」
「どげんしたと?」
「雫、最近すげー楽しそうでさ」
「え……」
「なんか、俺、嬉しいんだ」
「……蓮のおかげやけん」
沈黙。
だけど、心は落ち着いていた。
蓮が笑う。
「これからも、いっぱい話そうな」
「……うん」
「東京も悪くないって思えるようにさ」
「……うち、もう思っとるよ」
「そっか」
「蓮がおるけん」
頬が赤いのは、夕焼けのせいにした。
数週間。
雫はクラスに完全に溶け込んでいた。
蓮との距離も縮まった。
ふたりで駅前を歩いたり、コンビニでお菓子を選んだり、図書室で宿題をしたり。
東京の街が、少しずつ「自分の場所」になっていく感覚。
蓮はそれを全部見ていてくれた。
時々からかうし、真剣な顔もするけど、ずっとそばにいてくれた。
そして、事件は突然だった。
その日も、蓮は笑っていた。
「また明日なー!」
駅前で手を振って別れた帰り道。
雫はコンビニで立ち読みしていた。
パトカーのサイレン。
人だかり。
「高校生の男の子が……」
「事故……」
心臓が止まるかと思った。
駆け寄ろうとして足がもつれた。
名前を呼ぶ声が喉から出ない。
泣き叫ぶ代わりに震えて立ち尽くした。
蓮は、そのまま帰ってこなかった。
葬儀の日。
東京の空は晴れていた。
「なんで……」
泣きすぎて声が枯れていた。
東京に来て、一番優しかった人。
一番最初に声をかけてくれた人。
大好きだった人。
「なんで、死んだと……」
博多弁が崩れ落ちる。
何度も名前を呼んでも、返事はない。
夜。
布団の中で泣き疲れた雫は、目を閉じたまま願った。
「神様……うち、なんでもするけん……蓮を……助けさせて……」
その声が消える頃には、意識も闇に沈んだ。
そして――
目を開けた。
「……っ」
教室の天井。
制服。
机。
「え?」
「秋元さーん!」
顔を上げたら、そこには。
「橘、近いから案内してあげて」
「はーい!」
あの日の、あの笑顔があった。
「……なんで、ここにおると……」
教室のざわめきの中で、雫は自分の声が震えているのを感じた。
「秋元さん?」
先生が怪訝そうに見ている。
クラスの皆も静かになった。
視線が一斉に突き刺さる。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
雫は真っ先に、その顔を探した。
「……橘、近いから案内してあげて」
「はーい!」
あの柔らかい笑顔。
茶色の髪。
少しだけ人を安心させるような声。
蓮。
生きている。
心臓が喉から飛び出しそうだった。
目の奥が熱くなった。
涙が滲んだ。
「ど、どうしたの?」
「……あ、ああ……」
「席、こっちだよ?」
蓮が当たり前のように笑って手を差し出した。
雫は震える手で、その手を握った。
指先が暖かかった。
死んだはずの人が、ちゃんと生きていた。
それだけで、足元が崩れるくらいの衝撃だった。
でも、泣いたらおかしい。
「転校生が初日から泣く」と思われたくなかった。
だから、雫は無理やり笑った。
「ありがと……」
声が震えるのは止められなかった。
席に着く間、何度も深呼吸をした。
先生の話もクラスメイトの視線も、全部が上の空だった。
ただ、目の端にいる蓮を、何度も確かめた。
生きている。
笑っている。
ふざけた調子で隣の席のやつを小突いたり、振り返って声をかけたり。
クラスの人気者。
全部、全部、知っている。
(夢……じゃない……よね……?)
机の下で、スカートの布をぎゅっと握った。
葬儀の日の、冷たい空気を思い出す。
泣き声。
香典袋。
白黒の花。
あの現実を全部知っているのは、きっと自分だけだ。
(なんで……なんで戻ったと……)
神様に願った。
「蓮を助けたい」って。
本当に、それが届いたのか。
だとしたら――
(今度こそ……助けんと……)
心に熱いものが湧き上がった。
昼休み。
「秋元さーん、一緒に食べようぜ!」
同じ言葉。
同じ笑顔。
雫は息を呑んだ。
懐かしいようで、同時に痛いほど新しい。
あの時と同じ展開。
ここから「事故まで」のカウントダウンが始まる。
「……よかよ」
声が上擦った。
蓮は首を傾げたが、すぐに「やった!」と笑った。
机をくっつけた瞬間、雫は心臓が苦しくなった。
この手が、血に染まる前に。
この笑顔が、奪われる前に。
何をすればいい?
どうしたら救える?
「なあ、秋元さん?」
「……ん?」
「顔赤いぞ?」
「そ、そげんこと……なか……」
「絶対赤いって。熱? 大丈夫?」
「……だ、大丈夫やけん!」
思わず語気が強くなる。
蓮は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そっか。無理すんなよ」
「……うん」
こんな会話も、全部懐かしい。
けど、同じ流れをなぞっていたら、また同じ未来が来る。
事故の瞬間が来る。
その前に、何かを変えなければならない。
放課後。
教室を出た蓮を追いかけた。
いつもの帰り道。
駅までの雑踏。
「秋元さん、駅までだっけ?」
「うん、一緒に……帰ろ」
「お、いいね!」
同じ道を歩く。
同じコンビニを通り過ぎる。
同じ雑踏。
事故があったのは、別れた後。
だから――
「蓮」
「ん?」
「今日は……もうちょっと一緒におろ?」
「お?」
「うち、まだ東京慣れとらんし……」
「そっか」
彼は簡単に頷く。
「じゃあさ、寄り道でもする?」
「……よかと?」
「もちろん」
未来を変える。
そう決めた瞬間、脚が震えた。
怖い。
「違う道」を選ぶのが怖い。
けど、やらなければ。
駅前のカフェに入った。
コンビニじゃなくて、カフェ。
前回は行かなかった場所。
「おお、秋元さんってコーヒー飲める?」
「少しは……」
「じゃあおごるよ」
「そ、そげん……」
「いいから。東京流」
蓮が笑って、カウンターで注文する。
その背中を見ながら、雫は唇を噛んだ。
この時間を伸ばせば、あの日みたいに一人で帰らせないで済む。
それだけで、事故のタイミングをずらせるかもしれない。
カップを渡されて座ると、彼はすぐに話しかけてくる。
「さっきからずっと黙ってるけど?」
「……なんもなか」
「絶対なんかある顔だぞ」
「そげん顔しとる?」
「うん」
不意に目が合う。
真剣そうな眼差し。
息が詰まる。
死んだ顔じゃない。
ちゃんと生きてる、温かい瞳。
「……ありがと」
「ん?」
「一緒におってくれて」
「は?」
「……助かっとると」
「なにそれ。お礼言われるようなことしてなくない?」
「しとる。いっぱい」
涙が出そうになって、慌てて目を逸らした。
蓮はちょっと不思議そうな顔をしていたけど、やがて笑った。
「ま、俺も楽しいし。いいじゃん」
「……うん」
夜。
家に帰って、布団に潜り込む。
息を潜めるように泣いた。
あの葬儀の記憶がこびりついて離れない。
あの未来は本物だった。
だから、同じことが起きる可能性も本物だ。
(でも、今日は防げた……かもしれん)
怖くて震える。
また事故が来るかもしれない。
けど、やる。
蓮を死なせない。
そのためなら、何度だって繰り返していい。
それが叶ったのなら、もう一度願ってもいい。
(神様……次も、どうか……)
翌日。
学校。
同じように蓮が声をかけてくれる。
「秋元さーん、おはよ!」
「……おはよう」
笑って返す。
だけど頭の中はフル回転だった。
「事故を防ぐ」だけじゃなくて、なんで事故が起きたのか調べなければ。
あの日、人混みの向こうで何があったのか。
どうしてあのタイミングで蓮があそこにいたのか。
(原因を探す。必ず)
目を伏せたまま、決意を固めた。
その瞳は少しも笑っていなかった。
放課後。
蓮は無邪気に誘ってくる。
「今日もどっか行く?」
「うん、行こ」
「どこがいい?」
「……駅前、見たい」
蓮はにこにこと頷く。
けど、雫の心は張り詰めていた。
一歩間違えたら、またあのサイレンを聞く。
血だらけの道路を見つめる羽目になる。
「今度こそ止める」
何度でも、何度でも。
カフェを出て、別れる直前。
蓮が言った。
「じゃ、また明日!」
その瞬間、雫は腕を掴んだ。
「やっぱ、送る」
「え?」
「一緒に……駅の改札まで。……最後まで」
「お、おう?」
予定外の行動に蓮はびっくりしていたけど、素直に笑った。
「変なの。でも嬉しいな」
改札を抜けて電車に乗るまで、ずっとそばにいた。
あの日別れた交差点には近づかせなかった。
ようやく電車の扉が閉まった時、雫は膝から崩れ落ちそうになった。
心臓がバクバクいっていた。
汗で制服が張り付くくらい緊張していた。
家に帰って、スマホを開く。
「今日もありがとう」
蓮からLINEが来ていた。
「なんか秋元さんに送られて恥ずかしかったけど、嬉しかった」
涙が溢れた。
必死に画面が滲むのを拭った。
「生きとる……」
声に出した。
生きてる。
(守った……)
けど、まだ終わりじゃない。
また明日が来る。
また別のタイミングで死ぬかもしれない。
「何度でも、何度でも」
そう心に刻んだ。
夜の窓に映った自分の顔は、目が真っ赤だった。
でも、その奥には、確かな光があった。
泣きながら笑った。
「蓮、うちは……負けんけん」
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博多弁かわいいいいい(()) いやぁ......タイムリーぷ?いいですねぇ......