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次の日の午後、新しく里親に登録した家族の家に、犬を飼うのに適しているかどうかの自宅訪問をした 後、少し疲れたのと喉が渇いたのもあって、何か飲み物と食べ物を買おうとコンビニに向かって歩いていた。
 昨日も結局桐生さんは遅くまで帰って来ず、夕飯も外で食べたと言って帰った後倒れたように眠ってしまった。彼が着ていた服からは相変わらず結城さんの香水の匂いが漂ってきて、彼がまたこの週末も彼女と過ごしているのがどうしてもわかってしまう。
 私は昨日の竹中さんと佳奈さんの言葉を色々と思い浮かべた。
 彼女達は言いたいことは言うべきだと言うが本当にそれが正しいことなのだろうか?そもそも私が桐生さんに結城さんと会わないでと言ったところで、何かこの現状を変える事ができるのかさえわからない。
 コンビニに着くとドアを開け中に入った。コンビニの入り口付近で5歳くらいの男の子が一人でウロウロしているのが何となく目に留まる。私はその男の子に目をくばりながら、お茶とちょっとしたお菓子を買ってコンビニを出た。
 しかしコンビニを出てもどうしても気になってしまい子供を一人にしておく事ができない。しばらくお店の前でお茶とお菓子を食べるふりをしながら、子供の親が来るまで一緒に待つ事にする。
 ところが十分経っても二十分経っても誰も来ない。私は思わず男の子に近寄って尋ねた。
 「お母さんを待ってるの?それともお父さんかな?」
 話しかけても男の子は私の存在をまるで見ていないかのように無視しながら、手の中にあるおもちゃか何かを必死にいじっている。
 ── 知らない人とは喋っちゃいけないって言われてるのかな……?
 そう思いながらしばらく男の子の隣にいるが、やはり誰も来ない。夕方で徐々に日も落ちあたりも薄暗くなってくる。もう一度視線を同じレベルにすると、男の子に声をかけた。
 「お母さんどこにいるかわかる?電話番号わかるかな?お母さんに電話して迎えに来てもらおうか?」
 しかし男の子は私とは目を合わさず、手の中のおもちゃを触ったりぶつぶつと何か独り言を言ったりと相変わらず私に無関心な様子を示す。それに次第に私が話しかけている緊張からなのか、体を前後に揺らしたりと落ち着きがなくなる。
 以前ニューヨークでダウン症の子供達と一緒に遊ぶボランティアをした時、子供の一人がこんな感じだったのを急に思い出した。何となくその時の感じに似ている気もするが、この子は見た感じ明らかにダウン症ではない。自閉症かな……と思うがよくわからない。ただご両親は心配してきっとこの子を探しているに違いない。
 何とか住んでいる所か名前だけでも聞きたいが、私は専門家ではないので一体どのように接していいのかよくわからない。
 無理してストレスをかけてはいけないし、かと言ってここでいつまでも待っているわけにもいかない。どうしようかと途方に暮れたとき、突然背後から誰かが私を呼んだ。
 「七瀬さん……?」
 振り向くとカジュアルな格好をした久我さんがいた。しかし彼はいつもかけている眼鏡をかけておらず、髪もラフにスタイリングしていて長めの前髪がふわりと目に少しかかっている。
 「えっ……久我さん……?」
 瞬きをしながら別人のような久我さんを見た。
 「七瀬さん、この辺に住んでたの?びっくりした」
 久我さんは目にかかった前髪をかき上げると、買い物袋なのか大きな手提げ袋を二つほど持ちながら、私の所までやって来た。
 「違うんです。実はちょっと用事があってこの近所まで来たんですけど、迷子の子を見つけて。でも住んでいる所もわからないし聞いても答えてくれないから、どうしたらいいかわからなくて」
 私は先ほどからひたすら手の中のおもちゃで遊んでいる男の子をちらりと見た。
 「ああ、この子なら知ってるよ。俺と同じマンションに住んでる」
 「えっ、本当ですか?」
 私は男の子を無事に両親に届けることが出来そうでホッとする。
 「ああ。案内するよ。……ほら、行くぞ」
 そう言って久我さんは男の子に声をかけると前を歩き始めた。すると男の子は久我さんを知っているのか、相変わらず私たちに興味がないふりをしながらも、トコトコと後を歩き始めた。
 「あの、久我さん、今日はいつもの眼鏡をかけていらっしゃらないんですね。雰囲気が全然違うので、最初誰だか分かりませんでした」
 後ろからついてくる男の子に目を配りながら、久我さんに話しかけた。
 「時々コンタクトにしてるんだ。でも会社では眼鏡をしてる方が仕事が出来そうに見えるだろ?」
 久我さんはそう言うと、悪戯っぽく笑った。髪型のせいなのか、それとも眼鏡をかけていないからなのか、いつもよりずっと若く見える。悪戯っぽく笑う彼に微笑むと、辺りをぐるりと見渡した。
 「久我さんってこの辺りに住んでいらっしゃったんですね」
 ここは桐生さんのマンションがある高級住宅街とはまた違った賑やかな雰囲気がある。比較的新しい住宅地なのか、周りにあるマンションやお店の入った建物など、きちんと整備されてて全体的に新しい。しかも子供も沢山いる場所で、とても安全な感じがする。
 「そう。なんでも歩いていける距離にあって便利で住みやすいんだ。それに娘が今住んでいる所から近いんだ」
 
 しばらく歩いていくと、久我さんは「あそこ」と言って大きなマンションを指差した。そのマンションの前で母親らしき女性が男の子を必死に探していた。
 「佑樹!どこ行ってたの!?」
 その女性は男の子を見ると、駆け寄ってホッとしたように抱きしめた。男の子を見ると少し安心したのか、小さな笑みがこぼれたのが見えた。
 「すみません、本当にありがとうございます。ちょっと目を離した隙にいなくなってしまって……」
 佑樹君のお母さんは、私と久我さんを見ると何度も頭を下げた。
 「いいえ、無事でよかったです」
 彼女にそう言うと、さっさとマンションの中に入っていく佑樹君を見ながら、無事に家まで送り届けられた事に安堵した。
 「それじゃ、私はこれで」
 無事役目も終わったので会釈をして元来た道を戻ろうとすると、久我さんが私を呼び止めた。
 「七瀬さん待って。家まで送ってくよ」
 「ええっ……?そんな、とんでもないです。自分で帰れるので大丈夫です」
 久我さんは、慌てて断る私を見るとふっと笑った。
 「『Pay it forward』だっけ?」
 「えっ……?」
 「ほら、映画のタイトル。七瀬さんが洋画を見て英語を勉強したらいいって教えてくれたから早速見てるんだよ」
 「え、本当ですか?」
 彼が私のアドバイスを早速実行してくれた事に少し嬉しくなる。
 「『Pay it forward』。いきなりタイトルから意味がわからなくて調べたよ。親切にされたら、他の人にも親切にするっていう意味だろ?」
 久我さんは映画のタイトルにもなっている英語の諺を持ち出した。
 「七瀬さんがあの子を助けた親切を見て、俺も七瀬さんに『Pay it forward』したいと思ったんだ」
 ── うーん。どうしよう……。
 『Pay it forward』は本来自分が親切にされたら、その親切をしてくれた人に返すのではなく、違う人に親切をしてあげるという意味だ。でも久我さんの言いたいことはわかる。要は親切で私を家まで送りたいと言っているのだ。何となく彼の親切を無下に断るわけにいかなくなってしまった。
 「わかりました……。では、お願いします……」
 「よかった」
 彼はそう言うと、持っていた買い物袋を持ち上げて私を見た。
 「これ、自分の部屋まで持って行きたいんだけど……俺の部屋まで一緒に来る?」
 「えっ……?い、いえ。ここで待っています」
 途端に警戒心を抱き訝しげに見ると、久我さんはクククっと面白そうに笑った。
 「じゃ、ちょっと待ってて。すぐに降りて来るから」
 彼はロビーからエレベータの方に向かって歩いて行った。