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彼を待つため、マンションのロビーにある小さな待合用のベンチに腰掛けながら中庭を見た。
このマンションは入り口のロビーを入ると真正面がガラス張りになっていて大きな中庭が見える。
マンションはコの字型に左右、それと奥と12階建のマンションが繋がっている。その中庭は大きくとても綺麗に整備されていて、一階のガラス張りの廊下から丸見えになっている。それに各マンションの部屋のバルコニーからも良く見えるようになっている。
外界からも隔てられとても安全なのか、夕方のこの薄暗い中でも沢山の子供達が遊んでいる。ただ一階の廊下には中庭への出入りができるようにドアがいくつかある。佑樹君もお母さんが見ていない隙にここからロビーまで出てしまい、そのままマンションの外まで出てしまったに違いない。とにかく佑樹君が無事でよかったと思う。
「お待たせ」
中庭から目をそらし、戻ってきた久我さんに視線を移す。彼は何と腕の中に大きなヘルメットを二つ持っていた。
「えっ……」
── まさか送るってバイクで!?む、無理!
何と言っても私は石橋を叩いて渡るタイプだ。そもそも危険な事は絶対にしない質で、もちろんバイクなど運転した事も乗った事もない。
「あの、やっぱり自分で帰ります」
丁重に断り逃げる様に立ち去ろうとする私を久我さんは「待て待て」と引きとめた。
「どうせバイクなんて危ないとか思ってるんだろ。大丈夫だって。俺14の頃から乗ってるけど一度も事故した事ないから」
「14歳!?」
驚いて目を見開いている私を久我さんは駐車場へと連れて行く。
「やっ、あの、ちょっと待って……」
躊躇する私を無視して彼は駐車場まで来ると、大きな黒いバイクの側に立った。私はそれを見て一気に青ざめた。
「むむむ無理です!」
「大丈夫、大丈夫。ゆっくりと安全運転するから。ほら、これ芽衣のだけど頭小さいから入るよな」
彼は鼻歌を歌いながら私にヘルメットをボスっとかぶせると、躊躇する私の手を取ってバイクの後ろに乗せた。住所を聞かれ桐生さんのマンションのある場所を伝えると、久我さんはヘルメットを被りバイクに跨ってブォンっとエンジンをかけた。
「しっかり掴まってろよ。じゃないと後ろに転倒するから」
「ええっ??」
私は怖くて必死になって彼にしがみついた。
バイクはゆっくりと彼のマンションから道路に進み、街の中を駆け抜けていく。初めに思っていたよりもバイクは安定感があり次第に余裕が出てきて、彼の大きな背中にしがみつきながら過ぎゆく美しい夜の街を眺めた。
やがて桐生さんのマンション近くにバイクを停めた久我さんは、高級住宅地を物珍しそうに見たものの何も聞かずに私を降ろした。
緊張していたのかバイクを降りた私は足元がおぼつかなくてふらついている。久我さんはくつくつ笑うと私のヘルメットをボスっと取った。
外は既に暗く街灯の下にふらふらと立っている私は、まるで絶叫マシンから降りたばかりの様に顔が蒼白に違いない。
彼は私の顔を見ると面白いものでも見たかの様にククッと笑った。そして溜息をつくと、私の顔にかかった髪をそっと指で払いながら「参ったな」と呟いた。
「あの、わざわざ送っていただきありがとうございました」
慌ててお礼をすると、久我さんは「どういたしまして」と微笑みヘルメットのシールドを下ろした。
「それじゃ七瀬さん、また明日会社で」
彼はブオンとバイクの低いエンジン音をさせながら去って行った。
いまだふらつく足に何とか力を入れながらマンションへ帰ろうと振り返ると、何と暗闇から桐生さんが姿を現した。
「桐生さん!もう驚かさないでください!」
私はドキドキと早鐘を打つ胸を押さえながら彼を見た。
「こんな所で何してるんですか?」
「電話しても取らないし暗くなっても帰ってこないから、もしかして電車に乗ってるかと思って駅まで迎えに行こうと思ったんだ」
彼は怒ったような傷付いたような顔で私を見た。
「久我と今まで何処に行ってたんだ?」
「えっ?違いますよ。ただ送ってくれただけです。実は里親の自宅訪問の後、迷子の男の子を見つけたんです。その時偶然通りかかった久我さんがその子と同じマンションに住んでいると教えてくれて……。それで男の子を家まで送り届けたら、その後親切に私をここまで送ってくれたんです」
よくあれで久我さんだと分かったなと思いながらも、私は経緯を桐生さんに説明した。すると彼はハッと呆れたように乾いた笑いを漏らした。
「親切?あれが親切か?あれだけあいつには隙を見せるなと言っただろ」
「隙なんか見せてません!大体久我さんは私に彼氏がいるって知ってるし、それに大きなお子さんだっているんですよ」
私は桐生さんの言い方にムッとして、マンションに向かって一人歩き出した。
「一体それのどこがあいつに隙を見せてもいい理由になるんだ?」
彼は私の後を早歩きで追って来る。
「だから隙なんか見せてません!」
私も負けじと早歩きで歩きながらマンションのロビーを通過する。
彼にわけのわからないことで責められることに腹が立つと同時に、昨日の竹中さんや佳奈さんの言葉が頭に浮かぶ。私は遂に我慢ができなくなり、誰もいないエレベーターホールで思わず声を上げた。
「桐生さんだって“毎日毎日”結城さんと一緒に出かけてるじゃないですか!!」
「それは仕事だから仕方ないだろ!」
桐生さんも苛立ちを抑え込む様な声で私に言う。
「分かっています!だから私今まで一言も文句言ってないじゃないですか!」
そう言ったものの実際にこうして口に出してみて、思っていたよりも彼が毎日結城さんと出かけている事に腹を立てていたのだと気付く。
「私にだって男の人の知り合いや友達だっているんです!桐生さんにいちいち言われたくないです!」
私はエレベーターに乗ると苛立ち紛れに「閉」のボタンを何度も押した。
「勝手にしろ。大体そんなだからいつも男につけ込まれるんだ」
「なっ、そんな言い方しなくても……!」
自分は仕事とは言え結城さんと毎日出かけているくせに、久我さんにただ送ってもらっただけでこんなに責められるなんて不条理すぎる。
だんだんと腹が立ってきて、エレベーターが開くと桐生さんを無視してマンションの部屋に入った。こういう時まだ自分のあのアパートがあればと思ってしまう。
「蒼……」
桐生さんは少し気を落ち着け、溜息をつくと何か言いたそうに私の腕を掴んだ。しかし私は彼の腕を振りほどくと、何処か一人になれるところを探した。これ以上彼といると、何か後悔しそうな事を言いそうで怖い。
「蒼!」
彼が私を呼ぶ中、どんどん部屋の中を進み唯一彼を締め出して一人になれる場所、バスルームへと逃げ込み鍵をかけた。その途端一気に目の前が涙で霞んでくる。
最近彼とはすれ違ってばかりだ。
あれだけ毎朝毎晩抱かれていたのに、今ではろくに会話をする時間さえない。やっと会話ができたと思えばこうして喧嘩をしてしまう。あれ程近くに感じていた彼が今はとても遠くに感じる。
先ほど桐生さんに初めて自分の気持ちをぶつけて分かったことがある。彼が仕事で結城さんと毎日過ごしているこの状況に、私は思っていたよりもずっと寂しくてそして悲しいのだ。
しかし明日になればまた彼は結城さんと一緒に仕事に行く日々が続く。竹中さんと佳奈さんは言いたいことがあれば言えばいいと言うが、言った所で一体何が変わると言うのだろうか?どうせ先ほどの様に喧嘩して私たちの溝は深まるだけだ。
私は涙を拭くと荷物をゴンっと床に落とし、着ていた服を全部脱ぎ捨てた。そして浴室に入ると冷え切った体に温かいシャワーを浴びながら、もう一度溢れる涙を拭った。