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第五章
数日後の午後、お兄さんは事務机の端末を見ながら満足げに息を吐いた。
「決まった。海外のコレクターから即決のオファーだ。血統つき、希少種、幼体。今が一番高く売れる」
その言葉を聞いた瞬間、シルバーの手が止まった。
「……何の話ですの」
「おチビの売却だ。パッキングの準備をしろ」
お兄さんはごく自然に、小さな輸送箱を棚から取り出した。
「お兄さん、この子はまだ離乳あまあまも卒業していませんわ」
「向こうで育てればいい」
「体温維持も不安定です。移送の負荷に耐えられる時期ではありません」
シルバーは机の横に立てかけてあった記録板を持ち上げた。
「ご覧ください。食事の間隔はまだ短く、睡眠も安定していません。昨日も夜間に体温低下がありました。すくなくとも、あと一ヶ月はここで育てるべきです」
シルバーは初めて、お兄さんに反論した。
だが、お兄さんは記録板に一瞥をくれただけだった。
「機会損失のほうが大きい。買い手が熱いうちに捌くのが鉄則だ。すぐ売らないと別の売り手が寄ってきてしまう」
「ですが――」
「シルバー」
低い声が、言葉を断ち切った。
「早く準備しろ」
シルバーは何も言えなかった。
言えない自分を、遠くから見ているような感覚だけがあった。
異変を察したのか、おチビちゃんが不安そうな声を上げた。
「ゆぁ……? おねーちゃ?」
シルバーが振り向くと、おチビちゃんは保温布から這い出し、よたよたとこちらへ転がってきた。小さな身体が脚に触れ、そのまますがるように押しついてくる。
「おねーちゃ、どこいくの? こわいの、やー……」
その声に、シルバーの喉の奥がひきつった。
「……大丈夫ですわ」
反射のように、そんな嘘が口をついた。
大丈夫なはずがなかった。
自分が何一つ止められないことを、もう知っているのに。
「にゃ? おちびちゃん、どこいくのー?」
ちぇんは、新しく出された最高級ゼリーを舐めながら首をかしげた。
「いいおうちにいくんだよー! ちぇんみたいに、あまあまいっぱいもらえるんだよー! にゃふふ、よかったねー!」
実の親であるちぇんは、別れの意味を理解していなかった。
理解しないまま、明るく送り出した。
おチビちゃんはますます強く、シルバーの脚にしがみつく。
「おねーちゃあ……! おねーちゃといっしょがいいのぉ! たしゅけてぇ……!」
その小さな声は、助けを求めていた。
商品としてではなく、管理役としてでもなく、ただ自分だけを見て。
シルバーの前脚が、わずかに動く。
「危ないだろ、何をしてる」
冷たい声が落ちた。
お兄さんの手が、おチビちゃんの身体を無造作につまみ上げる。
「やっ、やぁあああ! おねーちゃ! おねーちゃあああ!!」
シルバーは動けなかった。
「たしゅけてえええ! やだああああ!!」
そして、バタン、と無機質な音を立てて箱が閉じた。
泣き叫ぶ声は厚い緩衝材に吸われ、やがて遠く、小さくなっていった。
おチビちゃんがいなくなった部屋は、不自然なほど静かだった。
「よし、無事終わった。ちぇん、来週には次の繁殖予定を組む。体調を落とすなよ」
「あーい! ちぇん、がんばるにゃー!」
ちぇんはもう、おチビちゃんのことなど忘れたように、寝床で身体を揺らしている。
さっきまで聞こえていた泣き声も、もう何も残っていないような顔で。
シルバーは保温布の傍へ歩み寄り、その端を無意識に整えた。
そこにはまだ、かすかなぬくもりが残っている。
止められたかもしれない、とは思わない。
逆らったところで結果は変わらなかっただろう。
それでも、自分は命令が落ちてきた瞬間に、身体のどこかで諦めてしまった。
箱が閉まる前から、もう従っていた。
その事実が、何故かたまらなく苦しかった