テラーノベル
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その場の空気が張り詰めた。誰も口を開かない。
私に叩かれた美麗さんは、何が起こったのか、すぐには理解できていないようだった。
目を見開き、乱れた髪を直すこともできず、ただ呆然と立ち尽くしている。
私は興奮で息が乱れていた。
叩いた手をゆっくりと下ろし、美麗さんに警告する。
「私の夫を傷つけることは許さないっ!
たとえ、それが母親だとしてもっ!」
そう啖呵を切った。いくら母親とはいえ、私は我慢ならなかった。
「あ、あなた、こんなことが許されると思っているの!」
美麗さんの怒りで、前額部に数本の青筋が浮き上がった。
「人として、言ってはいけないことがあります! 美麗さんはそれを言ったので、注意したまでですっ!」
「瞳子さんっ。もうやめてください!」
私の心臓は激しく脈打っていた。
朝倉くんがすぐに私の背中をさすり、なだめてくれる。
「ありがとう、瞳子さん。あなたの気持ち、十分伝わりました。それだけで幸せですから」
こんなに優しい朝倉くんの心を抉る美麗さんを、私は許せなかった。
「母上、帰ります。瞳子さんを悲しませて、私はあなたを許しはしません」
朝倉くんが怒りを込めた目で、自分の母親を見つめていた。
「行きましょう」
私の肩を抱いた朝倉くんが、出口へ導こうとする。
だけど、私は迷った。
(この家族の根本にある問題は、まだ解決していない!)
私は助け船を求めて、黒川さんに視線を投げた。
それを受け取った黒川さんが、ようやく我に返る。
「祐二さま! お待ちくださいっ! 最後に、美麗さまの歴史的発見の版画をご覧ください!」
「黒川、やめてくれ。もうそんな状況ではない」
この場からすぐに去りたい朝倉くんに、私はお願いした。
「見ましょう。歴史的発見なんて、滅多にないわ」
「瞳子さんまで……一体どうしたんですか?」
黒川さんが割って入る。
困惑する朝倉くんに、熱弁を振るった。
「明治維新に活躍した版画家、鮎川馬喰郎の未発表作品が手に入ったのですよ!」
黒川さんの進行に、私も合わせる。
「その作品は、どちらにあるのですか?」
「美麗さまの寝室にございます!」
「見たいです。黒川さん、案内してください」
私と黒川さんのやり取りに、朝倉くんと美麗さんは呆気に取られていた。
しかし、これでいいのだ。
「もちろんです。では、こちらへ」
黒川さんが甲斐甲斐しく手で誘導する。
それに私は付いていく。
そして朝倉くんも、仕方なしに付いてきてくれた。
しかし、一人だけそれについてこられない人物がいた。
美麗さんだ。
「黒川! 余計なことをしないでっ!」
黒川さんが、そのときだけ足を止めて振り返った。
「美麗さまの歴史的発見のお宝ですから、祐二さまにぜひ見ていただきましょう」
黒川さんが説明し終えると同時に、エレベーターの扉が開いた。
中に入り、黒川さんが三階のボタンを押す。私たちも続いて乗り込んだ。
呆然としていた美麗さんが我に返り、私たちの後を追いかけてくる。
「勝手に私の部屋に入るのは許さないっ!!」
閉まりかけた扉に指をかけ、無理やり開いて乗り込んできた。
「美麗さま、申し訳ございません。祐二さまがご覧になれば、きっと現状が変わるはずです」
「何のことを言っているのっっ! 今すぐに戻りなさい!!!」
あの美麗さんから余裕が消えていた。
髪を振り乱し、必死の形相で叫んでいる。その動揺ぶりは、驚くほどだった。
しぶしぶ私に付き添った朝倉くんだったが、美麗さんの乱れる様子を見て、何かを感じ取っていた。
何かある、と。
黒川さんは美麗さんに怒鳴られても、エレベーターの壁一点を見つめ、動じることはなかった。
そして三階のフロアで扉が開いた。
今度は朝倉くんが一番乗りで、美麗さんの部屋へと向かっていく。私もそれに続いた。
美麗さんが必死に先回りし、自室の扉の前で両手を広げた。
「祐二っ! 断りもなく入るなど、許さない!!」
サイドにまとめた美麗さんの髪が乱れて逆立っている。眉間に深い皺を作り、まるで威嚇する動物のようだった。
(美麗さんの部屋には、秘密がある)
私は確信していた。
そして朝倉くんも、母親の異変に感づいているはずだ。
彼は美麗さんとは対照的に、冷静な口調で話しかけた。
「私は母上の部屋に興味などありません。鮎川の作品か否か、それを確認しに来ただけです。今さら、もったいぶるのですか?」
朝倉くんが腕を伸ばし、扉のドアノブに手をかけた。
しかし、それを美麗さんが勢いよく手で払いのける。
「黒川! 二人を連れ出しなさい! できないのなら、あなたはクビよっっ!」
それはもう、金切り声に近かった。
(必死になって息子に隠したいものは何?)
きっと、それが朝倉家が抱えている問題を解決する糸口になるはずだ。
私はポケットから四つ折りにした一枚の紙を取り出した。そして、それを広げて美麗さんに見せるように突き出す。
「美麗さん、忘れ物です」
皆の視線が、その紙に集まった。
「なんです……それは」
朝倉くんが一番先に反応した。
これは、美麗さんの処方薬の薬剤情報提供書。
怪訝な表情の美麗さんが、数歩前に出てくる。
そして、私の持っている紙が何なのかを理解すると、焦って叫んだ。
「なぜあなたが持っているのっっっ!」
怒りとともに私に駆け寄り、私から紙を勢いよく奪い去った。
扉の前が空いた、その隙に黒川さんが扉を開いた。
そして表情を硬くした朝倉くんが、躊躇することなく部屋に踏み入った。
「祐二っ、入らないでっっ!!」
あの美麗さんが、懇願するように朝倉くんの後を追いかける。
そして彼の腕を引っ張り、外に出そうとした。
しかし、すでに私たちの視界には、部屋の全貌が入っていた。
二十畳ほどの部屋だった。
ベッドやサイドテーブルには脱ぎ捨てられた服が散乱し、ゴミだと判別できるものが床のあちこちに捨て置かれている。
なにより、私たちを絶句させたもの。
それは── くさんの空の酒瓶。
それが部屋中に転がっていたことだった。
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