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「あの補聴器、誰かに壊されたのか?」
この問いを聞いた瞬間、元貴の表情がわずかにこわばったのを感じた。
若井は元貴の反応を待った。焦らず、ただ黙って待つ。
しばらくの沈黙の後、元貴は顔を上げ、震える手で、ゆっくりと手話を始めた。
「…職場の人」
若井は息を呑んだ。予想していた答えだが、それでも聞くと胸が締め付けられる。
元貴の手の動きは重く、言葉を出すのを躊躇しているのが明らかだった。
「……ロッカーの、中。昨日、見つけた。割れてた」
元貴の言葉は途切れ途切れで、状況を詳しく説明しようとはしない。
「誰がやったのか、知ってんのか?」
若井が手話で尋ねる。元貴は黙ったままだ。
「誰」
若井の表情は硬くなる。怒りが再び込み上げてきたが、元貴を怖がらせないように、必死でそれを抑え込む。
元貴は、暗い表情で、その人物の名前を示した。
「……佐藤。聞こえないからって、いつも俺に、嫌味言う人」
元貴の手話は、その名前を出しただけで、崩れそうになる。
(やっぱり、いじめかよ)
若井の胃の腑が締め付けられる。自分のコミュニケーション手段を、悪意を持って破壊される。だから、あんなにも動揺し、自傷したのだ。
険しい表情になっていることを自覚しつつも、冷静に答える。
「元貴は、悪くない」
「仕事、辞めたい?」
若井はそう手話で提案する。
しかし元貴は、首を横に振った。
「……頑張って、見つけた仕事。ここで辞めたら、また、ダメになる」
元貴の言葉には、強い諦念と、それでもしがみつこうとする意地が滲んでいた。
「ダメになんかならない。俺がどうにかする」
若井は、何言ってんだというように、力強く手話で伝える。
すると、ふと元貴が若井と目を合わせ、虚ろな目で手話を続けた。
「……若井は、なんで、俺のこと、そんなに助けるの?」
若井にとって、それはあまりに愚かで、分かりきった問いだった。最初は若井も元貴の話に付き合い、口下手なりに必死に説明したりしたものだが、最近はもう諦めていた。無自覚に自分を蔑ろにし続ける元貴には、元貴のことをどれだけ大切にしているかということを何度説明したところで、納得などしないのだ。
「大切だから。」
若井はいつものようにそう答える。だが、元貴の表情は晴れない。
元貴は、目を逸らし、小さくつぶやくように手話をした。
「……もし、俺じゃなかったら?」
(もし、俺じゃなかったら?)
ここにきて初めての問いをぶつけられる。
若井は、この問いが何を意味するか理解できなかった。何かが、根底からすれ違っている気がした。
「俺は、元貴だから、助けてるんだよ。俺にとって、大切だから」
元貴にこれ以上何も言わせたくなかった。元貴の頭をポンポンと叩き、ベッドに入るよう、優しく促す。
「もう寝ようぜ。明日、一緒に考えよ」
元貴は抵抗することなく、大人しく横になった。若井もその隣に横になり、元貴の背中を抱きしめた。
元貴の呼吸が、だんだんと穏やかになっていくのを感じる。若井は、この夜、元貴が再び自傷しないよう、しっかりと元貴の背中を抱き続けた。
朝、若井が目を覚ますと、元貴はまだ腕の中で眠っていた。時計を見る。大学に行くには、そろそろ起きなければならない時間だ。
若井は静かに腕を抜き、起き上がった。元貴の顔を見ると、寝ている間も不安そうな表情をしている。若井は元貴の額に優しく触れた。
音を立てずに部屋を出てリビングに戻ると、昨日から開けっ放しだった冷蔵庫や散らかった服が目に入った。急いで朝食の準備を始める。
簡単な味噌汁と卵焼きを作っていると、寝室から元貴がフラフラと出てきた。若井が作っている朝食を見ても、特に反応はない。
「おはよ」
若井が手話で話しかけると、元貴は無言で頷き、椅子に座った。
「これ、食べよう」
若井は朝食を並べ、自分も席に着く。
元貴は、若井の顔を見ずに手話をする。
「……お腹空いてない」
「ダメ。栄養、取らないと」
若井は譲らない。元貴の前に卵焼きを差し出す。
元貴は渋々という顔で、箸を持った。しかし、箸で卵焼きを突くだけで、なかなか口に運ぼうとしない。
「…元貴。今日、仕事休もう」
若井は、昨日補聴器を壊されたことを思い出し、手話で提案した。
「だめ」
元貴は即座に首を振る。
(なんでだめなんだよ。あんなことされたのに)
若井の表情には、心配と苛立ちが入り交じっていた。
「……若井に、心配、かけたくない」
元貴は俯いたまま、小さな手話でそう返した。
(心配かけたくない、じゃねぇだろ。もう十分かかってんだよ)
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
めんどくさいな、と思ってしまう自分がいる。毎日毎日、何回「大切だ」と伝えても届かない。減らない自殺未遂。だんだんと雑になってきたことは自覚している。
静かにため息をついた。
「一緒に、補聴器直しに行こう。新しいの、買おう」
若井は穏やかに説得する。
元貴はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その目は、諦めにも似た色を帯びていた。
「若井は、俺の死にたい理由、知らないでしょ」
唐突な言葉だった。若井は箸を止める。
「知らない」
正直に答えた。知っているのは、元貴が理由を話してくれないという事実だけ。
「……いじめ、だけじゃない。ずっと、前から、こんな気持ち。多分、治んない」
ズン、と心が重くなる。しかし、若井は驚かなかった。なんとなくそうだろうなと思っていたからだ。じゃなきゃ、何回も伝えた自分の気持ちが届かないはずがない。
「…若井が、ずっといても、また、死にたくなると、思う」
元貴は、まるで若井に期待させないように、突き放すように手話をした。
元貴の意図は分かっている。元貴は、自分が死ぬ理由を若井のせいにはしたくないから、自分の問題は根深いと若井に突きつけているのだ。そうすることで、若井が自分から離れるきっかけを作ろうとしている。
「知ってるよ」
若井は、静かに、しかし力強く手話で返した。
「それでも、元貴が一人で苦しむのを、見たくないんだよ」
そう手話で伝えると、若井は卵焼きを一つ取り、元貴の口元へ持っていった。そのまま口に押し付ける。
元貴は、しばしの葛藤の後、口を開き、卵焼きを食べた。若井は、その小さな勝利に、深く安堵した。
「よし。じゃあ、今日は休もう。俺が、大学帰りに、補聴器屋に行く。お前は、家で休んでろ。な?」
元貴は抵抗しなかった。若井の言葉が、元貴の頑なな心をわずかに溶かしたようだった。
若井は立ち上がり、元貴の肩をポンと叩いた。
「じゃあ、行ってくる。ちゃんと、全部食えよ」
そう言って若井は、元貴の返事を待たずに自分の鞄を掴み、部屋を出た。元貴が一人でいるのは心配だったが、これ以上引き延ばすと、若井自身が大学に遅刻してしまう。
リビングのドアを閉める直前、若井はもう一度リビングを振り返った。元貴は、まだテーブルに座ったまま、若井の作った朝食を見つめていた。