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3話 過去の風景と誓いの祠
空はまだ薄明を引きずっていた。
それで、雲海の上に冷たい光の帯が伸びていた。
セリオスへ戻る航路の中で、仲間たちはそれぞれの任務に分かれていた。
ミイは島々の風に耳を澄ましていた。
噂を運ばせる役目を果たすのだった。
レンは遺跡の破片を厳密に解析するため、町の大きな工房へと向かう。
ジュリは図書館へ戻り、消えかけた断片をつなぎ合わせる仕事に没頭する。
ミコトは地上へ向かうために準備を整えて向かった。
ルナは民の心の回復にあたるという名目で街に残ることを選んだ。
リュナは、星の残響を追うために夜ごと祭壇へ出向くことにした。
だが船の甲板に残ったのは⋯
──シエルだけだった。
彼女は地図を閉じ、空の流れを見つめていた。
それは、微弱でかすかな疲労とともにどこか遠い記憶の断片を撫でているようだった。
普段の冷静さは薄れ、瞳の奥に柔らかな陰影が差す。
誰もすぐには気づくことができなかったが、シエルの内側には、誰にも触れさせたくない古い傷がひっそりと潜んでいた。
夕刻になり、船がセリオスの桟橋に着くころ、ルナが穏やかな笑みを浮かべながらやってきた。
彼女の手には温かい飲み物の入った陶器がある。
それをシエルに差し出した。
「冷えてるでしょう?少しでも温まって」
ルナの声音はゆっくりと優しくて、柔らかかった。
シエルは一瞬ためらった。
だが、受け取ってゆっくりと口を付けた。
温もりが身体に染み渡ると、彼女の表情はわずかに和らいだ。
「ありがとう」
シエルは小さく返した。
「だけど、私の方は大丈夫なのよ。ルナは民の元へ戻るのでしょう?」
「ええ。今日は少し手を貸すだけでいいって言われたから」
ルナは視線をそらし、空を仰ぐ。
「それに、あなたがここにいるべきだって思ったのよ。誰かが冷静に全体を見ている必要があるの。」
言外に、シエルの重責を心配する気遣いがあった。
だがシエルはその言葉に笑みを返すことはなく、静かに俯いた。
桟橋の上で二人はしばし黙していた。
潮風が二人の髪を掠める。
その背景に、船の帆は遠くで揺れる。
「……よかったら。聞かせてくれない?」
ルナが控えめに言った。
「あなたのこと。みんな知りたがっている。」
「あなたはいつも頼りになるけれど、どこか遠い。」
「辛かったことや、守りたいと思う理由があるなら、私たちにも半分、分けてほしい」
シエルはしばらく黙っていた。
内面の何かを振り払うように目を閉じる。
そしてゆっくりと語り始めた。
声は低いようで落ち着いていて、だが崩れはしない。
彼女が口にしたのは、幼い頃の記憶と、家系にまつわる秘密だった。
「私の家は、かつて星核の研究に関わっていた。」
「正式な学問の名の下、星力を解析し、星の息吹を安定させる方法を模索していたの。」
「名前は高名だった。だが、研究の一部が行き過ぎたとき、私たちは疑念と非難の矢面に立った。」
「人の運命に手を触れることの是非をめぐり、内部分裂が起きた。最後には、私の家は一つの事件に巻き込まれ、名誉を失った」
ルナは息をのみ、シエルの表情を見つめた。薄い光の中で、彼女の瞳には微かな揺らぎがあった。シエルは続ける。
「私は、あの時に誓った。」
「二度と過ちを繰り返さないと。だから私は学び、冷静であろうと努めた。」
「感情に流されず、運命を操作する道を断つために。」
「だが、今起きていることは⋯」
――私の家が関わっていた研究と同じ方法論に似ている。
「ノクティルカは、星核を用い、記憶を刈り取る。」
「もし私の過去の知識が、誰かを傷つける手段として使われたのなら、その責任はただ放ってはおけない」
シエルは過去のことを話した。
「あなたが責められるべきではない」
ルナは静かに言った。
「過去のことは変えられない。」
「でも、今あなたがここにいるのは、違う未来を作ろうとしているからよ。」
「あなたの力は、私たちにとって必要不可欠なんだから」
シエルはルナの手を取ろうとした。
だがすぐに引っ込めた。
彼女の肩はわずかに震えて、手の中の地図の角が指先で白くなる。
「私は……誰かが代償を払うことで、結果を得ることを見たくない。」
「だが、制御の難しい力を放っておくこともできない。」
「だからこそ私は厳しくあろうとする。」
「仲間のために、」
「街のために。」
「誰かが道を踏み外す前に。」
「それを止めるために。」
シエルの声は落ち着いていた。
なのにその言葉の重みはルナの胸にずしりと響いた。
彼女たちの会話の背後で、図書館の針は夜の匂いを刻んでいた。
ジュリは古書の束に埋もれて、指先で古い文字を辿っている。
幾重にも重なった断片を繋ぎ合わせるのは骨の折れる作業だと思うが、彼女の目は確かな光を宿していた。
図書館の奥の一室。薄暗いランプの下で、消えかけた記憶を取り戻すための細工が並べられている。
小さな瓶、蝋、古い布片、そして封印を解くための呪文が書かれているもの
──どれも慎重に扱われねばならない物ばかりだ。
一方で、街の片隅ではレンが装置の分析を続けていた。
彼は無口だ。だが手先は器用で、自分の能力の基礎を駆使して解析をするため、装置の中に含まれる魔法成分を読み解いている。レンの解析は冷徹そのものだった。
魔法成分には通常の魔力に混じり合う異質な紋様があり、魔力を結びつけるために特殊な触媒が用いられていることが示唆されていた。
レンはその触媒の魔力配列を見て、眉を寄せる。
「この触媒は、単独では不安定だ。」
「だがある条件下で、星力の流れを束ねる導管として作用する」
レンは静かに言った。
「つまり、装置は単なる集積器ではなく、能動的に星力を引き寄せる。」
「そして、外部へ向けて再配分する設計だ。」
「使い方次第では、星の声を切り取り、別の用途へ転用することも可能になる」
レンの言葉はシエルの記憶と結びついたのだった。
彼女の家の研究は、まさにこの理屈に近い考察を伴っていた。
だが本質の違いは、制御の動機と倫理だ。
シエルは研究を間違った手段から守るために厳格であろうとして、ノクティルカは力の独占を目的とする。
その夜、リュナは一人祭壇へ向かった。
街が眠りにつく中、彼女は星石の前に座り、静かに目を閉じた。
水晶盤の中で断片的な振動が踊る。
そしてほんの一瞬だが互いの言葉が繋がる感覚があった。
リュナは喉の奥で小さな祈りを紡ぐ。
「どうか、教えてください。どこに導けばいいのかを」
リュナの声は肌寒い夜に溶けた。
だが返ってきたのは、片言の映像と、曖昧な感情だけだった。
少年の手、古い歌、そして忘れられた名。
連なったピースは合致しそうで合致しない。
彼女はじりじりとした焦燥を覚えながらも、少しずつピースを拾い集めていった。
星の声は必ずしも完全な言語を返すわけではない。
時にそれは匂い、時にそれは色、そして時にそれは痛みを映す。
リュナが気付くと、祭壇の影に小さな人影が寄り添っていた。
ミイだ。彼女は風を浴びた髪を乱し、満面の笑みでリュナを見上げた。
「聞いたよ。あなた、夜も祭壇へ来てるんだね」
ミイはそっと言った。
「風がね、いろんなことを運んでくるの。」
「今日は遠い島から、『黒い荷物を運ぶ船』って話が入ったよ。」
「それがノクティルカかどうかは分からないけど、動きがあるみたい」
情報は小さくとも貴重だ。
手がかりになることも多いのだとか。
リュナはミイの報告を胸に入れ、再び水晶に耳を傾ける。
小さな光の粒子が集まり、幾つかのイメージが形を成す。
見えたのは、ある港町の風景と、夜にひっそりと動く荷役の人々。
箱詰めされた物は布で覆われて隠されていた。
そして、何か黒い布片が交じっている。
その先にある筐体の形は、遺跡で見た核の形状と一致しているようだった。
一方で、ミコトはある古文献を前に座し、指先でページを押さえながら深く考えていた。
古文献には、星核装置の禁忌として残された呪文が書かれていた。
そこには、装置の稼働による、「記憶の摩耗」と「名の消失」についての警告文が、詩的な言い回しで記されている。
ミコトはその警告を何度も読み返し、ページの隅に記された古い注釈を辿る。
注釈の筆跡は掠れているが、確かにこう書かれていた。
「名を失うと、世界の繋がりも失われる」
と、文字は綴られていた。
夜が更けるにつれて、各自の任務は重くなる。
ミコトは地上へ向かう準備を整え、古い知人たちに手紙を送る手筈をとる。
彼女が向かうのは、かつて星核研究と縁のあった地上の小国だ。
そこにはまだ、古の研究を知る者や、装置の素材の流通を覚えている商人がいるかもしれないのだ。
だが地上に戻れば、ミコトはまた自分が過去に犯した禁忌と向き合わねばならない。
彼女の心は不安と期待が混じり合って揺れていた。
その翌朝、セリオスは薄霧に包まれていた。
船着き場には人々のざわめきが戻りつつあり、その中でルナは民衆の気持ちを鎮めるために市の中心へと向かう。
リュナは仲間へと集まるよう呼びかけ、作戦会議が開かれた。
地図の前に並んだ仲間たちの表情は固く、笑ってはいなかったのであった。
議題は明確に分かっていたからだ。
ノクティルカの動向を把握し、星核装置の所在と目的を突き止める。
そして、消された記憶の回復と被害の拡大を防ぐこと。
シエルは会議で慎重な言葉を並べた。
彼女の指示は緻密で、可能な選択肢とリスクを洗い出すものだった。
リュナは星の断片を基に、夜に見たイメージを地図上に落とし込む。
ジュリは図書館の情報と照合を行い、レンは装置の部品の構造から、運用に必要な最小要件を推定した。
ミイは風の情報を繋ぎ合わせ、ミコトが向かう地上の港町に関する噂を報告した。
会議の終盤、シエルはふとある提案をする。
「我々は分かれて動くべきだが、決して孤立してはならないの。」
「レンとジュリは装置の情報を中心に調査を続けてほしい。」
「ミコトは地上へ、ミイは風の耳として島々を巡る。」
「ルナと私はセリオスで街の安全を確保する。」
「リュナは星の残響を追い、その指示のもとで動いて。」
「私達はすべての情報線を繋ぎ、互いに短い間隔で報告を交わす。」
「ノクティルカは記憶を奪うことで動くの。」
「だが記憶を守る術は、我々にもあるはずだから。」
「見落とした鍵を見つけ出すことよ。」
提案を受け、全員が頷いた。
だが誰もが分かっていた。
これから先は、彼らが対峙するのは単純な戦いではない。
名を抹消し、歴史そのものを書き替えようとする者たちに対抗するためには、単なる剣や魔法だけでは足りない。
知識と絆、そして犠牲を伴う決断が必要になる。
会議が終わると、シエルは独り、図書館の裏手へ向かった。
そこには小さな祠があり、彼女は静かに手を合わせる。
祠の中には一枚の古い写真が置かれてあった。
写真には幼いシエルが、誇らしげに並ぶ数名の研究者たちと写っている。
写真の中の彼女は笑っていた。
それでも残酷なもので、その笑顔の端にはすでに影が差し込んでいる。
シエルはその写真を撫で、心の中で誰にも見せぬ謝罪をつぶやいた。
「もう一度、正しい道を選ばせて」
彼女は小さく呟いた。
「私自身が導きを誤らないように」
その声は風に薄く消えたが、祠の中の写真は静かに揺れた。
シエルは肩の荷を下ろすことはできない。
だが彼女は、その重さを抱えながらも前へ進む覚悟を固めた。
そして仲間たちは、それぞれの道を進み始めた。
誰もが不安を抱え、誰もが戦いの先にある代償を恐れながら。
だが星の沈黙に抗うため、記憶と名を取り戻すために、彼らは一歩ずつ確かな足取りで進んでいく。
シエルの過去は、これから訪れる試練の鍵でもあった。
そして、また傷をもたらす刃でもあるだろう。
仲間たちはそのことを知りながらも、彼女を信じ、彼女の決意に応えようとしている。
薄曇りの空の下。
この街、セリオスは静かに息を整えたようだった。
だが遠い地平線の彼方で、黒い彗星はまだ尾を引いている。
ノクティルカの影は広がり続け、世界の記憶を塗り替えようとする意志はなお消えていない。
彼らが紡ぐ物語はまだ序章に過ぎない。
次に訪れる嵐は、より深く、より個人的で辛い運命の問いを彼らに突きつけるだろう。
リュナは祭壇の光を見上げ、やっとの思いで決意を固める。
ルナは民の声に耳を澄まし、慰めの言葉を編む。
ミコトは地上への旅支度を整える。そしてレンは装置の分析を続ける。
ジュリは図書館の奥で、失われた名前を呼び戻す方法を探る。
ミイは風の導きで、新たな情報を集める。
シエルはその重みを胸に抱きながらも、仲間を導く役目を果たすだろう。
彼らの目に映る未来は、まだ霧の中だ。
しかし一つだけ確かなことがある。
誰かが名を奪われたとき、誰かがそれを取り戻すために立ち上がる。
その選択を、彼女らはすでにしたのだ。
――運命を壊して、創り変えるの。
それまで待っていて。
3話 過去の風景と誓いの祠 End