4話 潮風の港と忘れられた契約
朝霧はまだ海面を抱いていた。
セリオスを離れ、地上の港町へ向かうミコトの船は、淡い光の帯が伸びる水平線へと滑り込んでいく。
甲板の縁に肘をつき、彼女は遠くに広がる街並みを見つめていた。
風に絡む塩の匂い、波の拍子、そして胸の奥にまとわりつく過去の重み
──それらが彼女を静かに押し返す。旅立ちはいつも、新しい始まりと古い終わりを同時に呼び起こす。
「ここが、かつての取引港か」
ミコトは低く呟いた。
港町の名は表向きには普通の商業港だが、噂や古い書物に残る断片では、星核装置と縁のある素材の流通路がかつて通っていたという。
彼女はその流通の残滓を辿るために、地上へ降り立つ決意をした。
舟は波間に小さく揺れ、岸に繋がれた。
港には木材と鉄の匂いが混ざり、人々の足音や荷役の喧噪が絶えない。
だがその雑踏の中にも、ほんの少しだけ違和感があった。
誰もがどこか気を散らすように目を泳がせ、顔の輪郭に微かな焦りを湛えている。
ミコトはそれを見逃さなかった。
「まずは港の情報屋に頼ろう」
彼女は声を落とし、仲間への連絡は断続的に取るとだけ告げてから人混みへと身を沈めた。
港の路地裏は湿り気を帯び、古い看板が風に軋む。
情報屋の拠点は、薄暗い酒場の奥の小部屋にあった。
入り口をくぐれば、酒とタバコの匂い、そして客のざわめきが粘りつく。
情報屋は短気で手癖の悪い中年男だが、噂に精通しており、代価さえ払えば過去の流通記録の残滓や密輸の噂を吐き出す。
「なるほど、星核関係の箱なら、最近動きがあったって話は聞く」
情報屋は目を細め、指先で酒の縁を叩きながら言った。
「遠い島からの荷があった。夜の交易で運ばれてきて、見張りが少ない倉に放り込まれたって。だがそれが何かは――表だって話せるものじゃない。あんた、何か詮索するのか?」
ミコトはうなずいた。相手はガードが固く、無駄に喋らない。
彼女は代価を払い、喝を与えるように一枚の銀貨を渡した。
その時、情報屋の視線が一瞬硬直した。
銀貨の表面には、小さく刻まれた古い紋章があった。ミコトの手がわずかに震えたのを、相手は見逃さない。
「その紋章……昔、あんたの家で使われてなかったか?」
情報屋の声が小さくなる。
「君、王国の者だろう?」
瞬間、酒場の空気が変わる。
会話のざわめきが一瞬静まってしまう。
数人の好奇の視線がミコトへ向けられた。
彼女は引き寄せられるように過去の名を思い出す。
故郷の名
――それは彼女が逃れてきた理由の一つでもある。
だが今はそれを隠すことはできないと悟り、軽く頷く。
「そうよ。だけど、今は関係ない。教えてほしいの、最近運ばれた箱のある倉庫の場所を」
ミコトは声を落とし、情報屋に詰め寄る。
情報屋は少し逡巡した後、低い声で位置を告げた。
港の外れにある旧倉庫群の一角。
かつては魚の加工が盛んな場所だった。
だが、今は人気もまばらで、夜になると人影が薄くなる。
——だからこそ密輸が行われやすいのだという。
夜が更けるまで待機した。
月影が水面に揺れ、街灯が点々と灯る。
ミコトは影に紛れて旧倉庫へと向かう。
足音を忍ばせ、風を読みながら進むと、倉庫の扉は半ば開いており、内側からはかすかな光と人声が漏れていた。
人影が出入りし、布で覆われた箱が運び込まれている。
それらの箱の端から覗く金属片が、かつて遺跡で見た核の輪郭を思い出させた。
「やっぱり……」
ミコトは息を飲む。
だが、ここで強引に飛び込めば、ノクティルカの手先に捕まる危険もある。
彼女は慎重に観察を続けた。
倉庫に出入りする者たちの顔を見定め、目立たずにいる者を探る。
すると、見張りの一人がふと不穏な動きを見せた。
彼の背中には小さな焼印があり、それは図書館で見た羽根と円を模した印と酷似していた。
「ノクティルカの影がここにも」
ミコトの胸に冷たいものが走る。
彼女は一度、仲間へと合図を送る考えが頭をよぎる。
しかし時間は刻一刻と過ぎ、箱はさらに倉庫の奥へ運び込まれてしまう。
ミコトは決断する。
ここで観測だけを続けることよりも、確かに手掛かりを奪うことが優先だと。
扉をすり抜け、影に紛れて倉庫の内部へ侵入する。
屋内は想像よりも静かで、箱にかけられた布が足音ひとつでひらりと揺れる。
彼女は息を殺し、箱の一つにそっと触れた。
布はざらつき、下に隠された金属とその魔力の冷たさが手に伝わる。
だが彼女が箱を引き寄せようとした瞬間、足元に小さな仕掛けが点滅したかのように光り、床が一瞬だけ震えた。罠だった。
「罠っ!?」
ミコトは咄嗟に跳び退き、背後からの気配に気付く。
暗がりから複数の人影が現れ、羽根の紋章を掲げた黒い仮面の者たちが冷ややかに笑う。
彼らは静かに、だが確実にミコトを包囲する。
「よく来たな、王国の流れ者」
黒い仮面の一人が冷たく言い放つ。
声は仮面の奥で低く響き、悪意の輪郭がはっきりしている。
「君のような者が手を出せば、都の者たちにとっても面白いことになる」
ミコトは杖を構えて戦闘態勢に入る。
だが相手は複数であり、一瞬の油断は命取りだ。
彼女は懸命に戦い、仮面の者の動きを避けながら相手の一人を切り倒す。
だがその代償として、彼女の魔力を過多に消耗してしまう。
過去に使った禁術の痕跡が体に疼き、胸が締め付けられるように冷たくなるのを感じた。
「逃げろ!」
ミコトは叫び、混乱の隙を突いて倉庫の裏口へと突進する。
外に出ると、冷たい夜風が顔を打ち、波の香りが口に広がった。
ミコトは必死に走り、背後で聞こえる追手の足音を振り切ろうとする。
だがそのとき、何かが彼女の脚をひっかけ、転倒する。
振り向けば、追手の一人が罠の網を操っていたのだ。
網は鋭い紐でできており、足を縛るには十分すぎるほどだった。
仮面の者たちは近づき、冷たい笑みを見せる。
ミコトは杖を振るおうとしたが、体は思うように動かない。
その瞬間、背後から強い光の軌跡が飛び、仮面の一人が弾き飛ばされた。
視線を向けると、そこに現れていたのはレンだった。
彼は冷静に、だが確実に彼女を助けるために銃で弾丸を放ち、網を破壊した。
レンの表情はいつもの無表情だが、その目は燃えるように鋭かった。
「危ないところだったな」
レンは簡潔に言い、ミコトを助け起こす。
ミコトは息を切らしながらも礼を言うと、二人はその場を離れた。
追手は撤退する素振りを見せたが、仮面の者の影は深く、彼らの意図はまだ不明確だ。
「彼らは何を狙っていた?」
レンが問う。ミコトは倉庫で見た箱と、箱の中の金属の断片のことを話す。
レンの目が微かに光る。
彼は分析した破片の話を思い出し、ミコトの報告と照合することで、新たな仮説を組み立て始める。
「ノクティルカは装置の部品を集めている。目的は星核の再構築か、あるいは既にある装置の稼働維持かもしれない」
レンは冷静に推測した。
「彼らは情報や名を消す術を使う。」
「それに加えて装置の材料を確保することで、物理的な支配を築こうとしている⋯」
ミコトは胸を抑え、過去に犯した罪の影が再び揺れた。
彼女はかつて禁術を使い、運命の都合を変えようとしたことがある。
その代償は大きく、それが彼女の力を危うくさせる。
だが今は、過去に縛られている場合ではない。
彼女は仲間のため、そして失われた記憶を取り戻すために動かなければならない。
「戻ろう」
レンが言い、二人は港を後にしてセリオスへ向かう準備を始める。
だがその前に、ミコトは一つの決意を固める。
彼女は自分の過ちを償うだけでなく、同じ過ちが再び起きることを防ぐ役目を果たすことを、仲間に誓おうと決めた。
一方、セリオスでは――
ジュリが図書館で新たな断片を編みながら、ノクティルカの手口の奥に潜む「契約」の痕跡を見つけていた。
古い注釈の中に、かつてある集団が星核の力を用いる代わりに、何かを差し出す契約を交わしたという記述があった。
契約の形はさまざまで、儀式的な印、血のしるし、名の誓いなどが記されている。
だが共通するものは、「差し出されたものは取り戻せない」という語り口だ。
ジュリの顔に影が差す。
もしノクティルカがその契約の方法を再び用いているなら、彼らが奪うものは単なる記憶や名だけではない。
奪われた側の存在そのものが変質してしまう可能性がある。
「我々は時間がない」ジュリは静かに言った。
「彼らは被害を拡大し、歴史を塗り替えようとしている。封じるには儀式を逆行させるか、あるいは別の根源的な対抗手段を見つけるしかない。しかし、そのためには失われた知識を取り戻す必要がある」
図書館の奥で、リュナは新たな断片を受け取っていた。
夜に見たささやきの続きだ。
水晶盤の中で、かすかな声がまた揺れる。
言葉はまだ破片だが、その断片同士の繋がりが少しずつ浮かび上がる。
ある名前、ある場所、そしてある「契約」の形がぼんやりと見える。
リュナはそれを胸に仕舞い、仲間たちへの報告を準備する。
その夜、仲間は桟橋で再会した。
ミコトは港で見た光景と遭遇したことを報告し、レンはそれを元にノクティルカの行動予測をまとめる。
ジュリは契約に関する古文書の内容を伝え、シエルは冷静に次の一手を考えた。
彼らは情報を繋ぎ合わせ、行動計画を練る。
「ノクティルカは単に材料を集めるだけでなく、儀式によって代償を固定化しようとしているの」
ジュリは言った。
「差し出されたものを回収するには、彼らが用いる契約の根源を断つか、代価の形を差し替えるしかない。だが差し替えは容易ではない。差し替えるためには、新たな契約、あるいは古い契約を理解する知恵が必要になる。」
「私達にできることは何なのかしら⋯」
ルナが問う。
彼女の声は穏やかだが、決意は強い。
「まずは装置の流通経路を断つよ」
シエルが答えた。
「それと並行して、ジュリとリュナで言葉の断片を繋ぎ、儀式の構成要素を復元する。」
「レンは材料の特性を詳細に解析し、ミコトは地上の繋がりからノクティルカの隠れ家を割り出す。」
「私たちは分散して動くが、通信は短く頻繁に行う。ノクティルカは名を奪うが、我々は名を繋ぎ止める術を探る」
皆の顔がその言葉に引き締まる。
そこには恐れと疲労が混じるが、同時に希望の光も宿っている。
記憶と名を守るための戦いは、これから一層激しさを増すだろう。
しかし彼らは、互いの背を預け合いながら前へ進む覚悟を持っていた。
港町での奇襲は、ノクティルカの存在が単なる伝説ではないことを改めて証明した。
だが同時に、仲間たちは新たな知見も得た。
装置の部品は市場に流れ、契約の術式は復元可能な手がかりを残す。
問題は、復元に要する時間と、ノクティルカがそれを完成させるまでの時間との競争である。
その夜、港の灯りが波間に揺れる中、ミコトは一人港の端に立ち、手の中の古い銀貨を見つめた。
それは彼女の母の形見であり、昔の痛みと後悔を思い出させるものでもあった。
彼女はその銀貨に唇を寄せ、静かに誓う。
「もう、誰も傷つけさせない。私が過去の償いをする番だ」
月は彼女のその誓いを静かに照らし、波に淡い銀色の筋を描いた。
仲間たちはそれぞれの任務へ散り、次の衝突へと動き出す。
だが今回の出会いが示した通り、ノクティルカの策略は深く、影はますます広がっていく。
彼らが取り戻すべきものは、単なる記憶や名だけではない。
世界の繋がり、信頼、そして人々が語り継ぐ物語そのものだ。
夜が深まり、港町の喧噪が遠ざかる。
セリオスの空では、どこかで小さな星の光がまた瞬いた。
リュナはその光を見つめ、胸の水晶盤に耳を当てる。
断片の声はまだ弱いが、確かにそこには繋がる糸がある。
彼女はその糸を解きほぐし、仲間に届ける方法を探すことを、改めて心に刻んだ。
第4章の帆は上がり、航路はより険しくなる。
ノクティルカとの対峙はただの戦いではなく、名と記憶を巡る哲学的な争奪戦でもある。
仲間たちが持つ力と、彼らが紡ぐ絆が、どのようにしてこの世界の未来を織り成すのか
──それは、これからの、仲間たちの行動にかかっている。
4話 潮風の港と忘れられた契約 End
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