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離婚届を鞄の中に忍ばせ、会社に出勤した途端に、上司に呼び止められた。
「津久野くん、人事から顔を出すように命令された。すぐに一緒に行こう」
朝礼をスルーしての呼び出し――鞄をデスクの上に置き、小さなため息を吐く。理由がなんとなくわかるせいで、別室に行く道中の足取りがやけに重かった。
第三会議室という狭い室内の中に足を踏み入れると、人事の責任者と思われる人物と目が合う。自分よりも大柄な体格だけでも威圧的なのに、つりあがりぎみの眼差しで睨まれたことで、すくみ上りそうになった。社内で不倫に及んだ俺を恨むにしては、ものすごい眼力だと思われる。
「人事部本部長の小日向です。お座りください」
(俺よりも年齢が若そうなのに、もう本部長なんて、いったい彼は何者なんだ?)
20代後半から30代前半と思われる容姿だが、いかんせん肉の塊じゃなかった、体格がよすぎて顔のシワが拡散しているため、若く見える可能性もあった。
上司と並んでパイプ椅子に腰かけると、小日向本部長はファイルから写真を取り出した。
それは妻に投げつけられた写真や、支店の女子社員との逢瀬のものと一緒に、華代とバーでイチャついている写真と、華代のマンションに向かってる写真が並べられる。
週刊誌でよく見る決定的な瞬間の写真のように、どれもよく撮れていて、俺じゃないと否定することは、到底無理だった。上司は俺の腕にご自分の腕を当てて、やってくれたなと無言で指摘する。
「津久野部長、妻帯者の君が職場で不貞行為に及んでいるのは、間違いないね?」
唸るような低い声での問いかけに、体を硬直させながら答える。
「間違い……ありません」
威圧感を漂わせるセリフに、俯くしかなかった。すると矛先は、俺から隣の上司に移動する。
「赤坂さん、津久野部長の勤務態度はどうなの?」
「前任者の冴島くんより、職員との連携はとれてましたよ。ただ――」
上司が言葉を濁して答えづらそうにした瞬間、小日向本部長の太い指が机を強く突く。カンカンカン……とっとと早く言えと急かしているのは明白なのに、上司はなかなか口を開かなかった。いや、開けなかったというのが正解かもしれない。
それくらいに、小日向本部長から放たれる圧が怖くてたまらなかった。
「赤坂さん、津久野部長を庇いたい気持ちはわかるけど、こっちは全部知ってるんだ。隠しても時間の無駄、さっさと吐いちゃいな。さもなくばアンタの罪も、自動的に重くなっちゃうよ」
「すみません。あの……津久野部長の仕事ぶりはですね、皆とのコミュニケーションをとるのがお上手な感じなのですが、それを活用して部下に仕事を押しつけたり、自分が仕事をしているように偽装して、うまいこと手柄にしているようです」
上司が説明している間、小日向本部長は流れるように万年筆を動かし、口角の端をあげる。さっきまでの態度とは真逆の上機嫌な様子は、今にも歌いだしそうな感じがするものだった。
「ねぇ津久野部長、花森杏奈さんって覚えてる?」
「は、花森さん、は――」
「絶対覚えてるよね。支店で勤めていたときに、仲良くダブル不倫していた相手なんだから」
一番最初の不倫相手だった女の話を、なぜ今頃持ち出すんだろうかと考えただけで、全身から冷や汗がにじみ出てくる。
大きく震えそうになる体に力を入れながら、唇を引き結んだタイミングで、小日向本部長が笑顔をまじえながら語りかける。
「津久野部長の社内不倫の話を聞いたのが、先週の木曜日だったんだけどね。午前中の早い時間に、津久野部長の奥様と不倫相手の斎藤さんが雁首揃えて、いろいろ告発してくれたんだよ。おかげで残業しちゃったけど、いろいろ調べることができたんだ」
「妻と……華代が告発⁉」
ふたりが手を組んでいたのを知っていたが、まさか会社に告発したのもふたりだったとは、思いもしなかったゆえに茫然となる。声を発することもできずに固まる俺に、目の前で腕を組み、偉そうな感じでペラペラ喋る。
「俺って社内の中で、上から数えられるくらいに仕事が早いって言われていてね。だから、トラブル関連の仕事をしてるってわけ。癌と同じで会社に蔓延る病巣は、とっとと駆除しなきゃダメだと思うんだ。そうだよね、赤坂さん?」
書き込みを終えた書類をまとめるように、机の上で揃えながら小日向本部長が訊ねたというのに、上司は無言を貫いた。
「赤坂さん、『俺は今回のことに巻き込まれた、憐れな被害者だ』みたいな顔してるけど、一番ダメなのは、わかっていて見て見ぬふりをしたアナタだからね。連帯責任って言葉、知ってます?」
「……はい」
震える声で上司が返事をすると、小日向本部長は揃えていた書類を大きく振りかぶり、机の上に叩きつけて手放す。巨漢が力まかせにやったことにより、紙の束を叩きつけたとは思えない、重たい音が室内に響き渡り、上司と俺はびくっと全身を震わせた。
圧迫面接とも思える雰囲気が室内に漂い、なんとも言えない緊張感で、心臓が痛いくらいにバクバク鼓動する。
「俺、人事部でこの仕事をして、いろいろ見てきたけど、それなりの役職に就いてるイケてない職員が、不特定多数を相手に不倫してるのは、今回がはじめてだよ。残念な限りだね」
大きなため息を吐きながら、机で叩いて乱れた書類を揃え直し、颯爽と椅子から立ち上がった小日向本部長は、上司と俺を交互に眺めた。蔑むような視線を直に受けて、ふたり揃って顔を歪ませる。
「赤坂さんは厳重注意を含めて、ボーナスのカットや給料減給を覚悟していてね」
やけに優しい口調で処分を告げたことが、上司の緊張をほぐしたのだろう。隣で安堵するように返事をする。
「承知致しました」
慌てて椅子から腰をあげ、深々と頭を下げた上司を見てるのに、俺は同じことをする気になれなかった。だって、俺の行く末は決まっている。頭を下げたところで、それが撤回されるわけがない。
「津久野部長」
「はい……」
「赤坂さんの処分を考えたら、ご自分がどうすればいいのか。言わなくてもわかるでしょう?」
さりげなく自己都合退職を促し、自身の仕事を減らそうとしていることに、心底辟易する。いっそのこと、懲戒解雇してくれたほうが清々するのに。
「……なんでこんな男に、斎藤さんは夢中になったんだろ」
「えっ?」
俺に背中を向けた状態での呟きだったが、耳に届いてしまった。自分よりも大柄な彼は、向きを変えずに俺に訊ねる。
「どんな手を使って、優秀な彼女を落としたんだ?」
「あの……小日向本部長は、華代をご存じなんですか?」
「裏切られたというのに、未練たらしく下の名前で呼ぶんだ?」
「あ、失礼しました。つい習慣で」
そう言った瞬間、振り向きざまに舌打ちがなされる。ものすごい不機嫌を表すその音に、びくっと体を大きく震わせた。
「彼女を採用するときに、俺が現場にいただけ。人事として彼女の優秀さを知っているのは、当然のことだろう?」
「そうでしたか……」
「津久野部長、アナタだって最初は、真面目に仕事をしていたハズだ。じゃなきゃ部長職には就けない」
扉に向きを変え、ノブを回しながら告げられた言葉に、項垂れながら下を向く。
「優秀な人材をふたりも失うことになって、俺としては残念に思うよ」
目頭が熱くなった刹那、俺は慌てて椅子から腰をあげ、小日向本部長に深く頭を下げた。こんな俺でも優秀だと言ってくれる人間がいた――そのことに感謝しながら、小日向本部長を見送ったのだった。
小日向本部長が出て行ったあと、上司に改めて謝罪し、頭を下げる。その後一緒に職場に戻り、部下に仕事の引継ぎをした。普段から仕事を彼らに割り振っていたこともあり、たいした引継ぎをせずに済んでしまった。
まるでこの未来を予知して、部下に仕事を押しつけていたんじゃないかと思うくらいに、あっけなく終わり、自分の荷物を段ボールに詰め込み、宅急便で送るように処理してから、会社をあとにした。
そして昼食の時報の前に役場に赴き、離婚届を無事に提出。自分の仕事同様に、あっけない幕切れに、なんの感情も湧かないまま自宅に帰る。
帰ったらなにをしようかと思案している俺の前に、見慣れた女性が表れた。
(――おかしい。なぜこのタイミングで現れたんだ? だってコイツは、隣町の支店にいるハズじゃ……)
「私、全部見ちゃったんだぁ。部長が名もない森で木に縛りつけられて、四つ足歩行した男の人に怯えてるのを見て、お腹を抱えて笑っちゃった!」
「なん? え? 四つ足歩行した男?」
あのときの状況を、支店で働いている若い愛人が見ていたとは、思いもしなかった。そのことに言葉を失っていると、俺に近づいた愛人が頬に触れる。
「あ、そっか。部長ってば、目隠しされてたもんね。わからなくて当然だった」
「俺は騙されていたのか……」
目隠しされた状態でいたため、現場の状況が音のみでしかわからなかったゆえに、うまいこと騙されていたことを知る。優しく頬を撫で擦る愛人が、クスクス笑いながら説明を続けた。
「あのときあの場にいたのは、えっと部長の奥さんと、本店で付き合ってた女と知らない男と女の四人だったよ」
「妻がいたのか⁉」
妻と華代がそろって会社に赴き、告発した時点でグルだったのはわかったものの、森での一件も一緒にいたことに、背筋がゾッとした。本妻と愛人が結託して、愛する俺を思う存分にいたぶった。
「信じられない……。この俺が平等に愛してやったというのに、あんな酷いことをしやがるなんて」
「部長、さっき役場から出てきたでしょ? 奥さんと離婚したの?」
頬を撫でていた手を取り、遠くに押しやった。
「そんなことよりも美紀、なんでおまえは妻たちに、あんな嘘をついた? 襲われたのは俺だっていうのに」
通行人が行き交う路上での口論だったが、訊ねずにはいられない。
「だって愛する部長を、どうしても手に入れたかったんだもん。花森さんとのお付き合いをすぐに解消できて、やっと部長を独り占めできると持った矢先に、転勤しちゃうんだもんなぁ」
「どういうことだ?」
愛人が告げる不穏な言葉のオンパレードに、開いた口が塞がらない。もしかして支店で不倫していた杏奈が、俺から逃げるように離れたのは、美紀の仕業だったのか⁉
「言ったでしょ、私は部長を独り占めしたかったの。部長が本店に行っちゃったから、ちょっとした計画を立てたんだよね。一緒に暮らすための家を建ててやろうって」
嬉しげに微笑みを湛えたピンク色の唇の端が、喜びを表すように持ち上がる。
「家を建てるなんてそんな大金、どこから捻出するんだ?」
当たり前のことを訊ねた俺に、美紀は親指と人差し指で丸を作る。
「私のお父様はお金持ちなの。私が欲しいと言ったものは、ぜーんぶ買ってくれるし、部下も使いたい放題。私の言うことを忠実に聞いてくれるんだよ」
弾んだ声で言い切った美紀が手拍子をしたら、どこからともなく男たちが現れた。男たちの目つきの鋭さや漂わせる雰囲気で、一般人じゃないのを悟る。
「お嬢、これからどうするんですか? コイツ、例の場所にお連れすればいいでしょうか?」
すると美紀は、俺が向かおうとしている場所に指を差し、男たちに命令する。
「その前に、部長が住んでるマンションを引き払わないと。一緒に行きましょう♡」
なにがなんだかわからないうちに、美紀と男たちを連れて、自宅マンションに戻ることになってしまったのだった。
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