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第28話 選帝侯の残響と、翠蓮宮よりの辞令 (第二部一話)
翠蓮様からの呼び出し状は、以前と比べて随分と気安いものになっていた。
金箔の縁取りも、仰々しい前置きもない。見慣れた柔らかな筆跡で、ただ「お時間のある時にでも、お茶でも」とだけ記されている。
(……初めての頃は、もっと折り目正しい文面だった気がするけれど)
薔薇の香りに満ちた、あの脅迫めいた紅玉様の招待状とも、初対面の頃に頂いた慇懃な招待状とも、明らかに温度が違う。この数ヶ月の間に積み重なった何かの結果だとすれば、悪い変化ではないのだろう。
私は文面を一度だけ確かめ、手早く身支度を整えると、翠蓮宮へと向かった。
○
水路の音が近づくにつれ、空気に混じる香りが変わっていく。
翠蓮宮は、今日も変わらず静謐な蓮の香りに満ちていた。
「あら、いらっしゃい柚葉さん。急にごめんなさいね」
出迎えた翠蓮様は、鈴を転がすような声で、いつも通りの優雅な微笑みを浮かべながら、私に席を勧めた。
「いえ。……本日は幸い、お客様の予約が一件だけでしたので」
「そう、良かったわ」
翠蓮様は自ら茶器を傾け、私の月給の何ヶ月分もするであろう茶を注いでくださる。
「紅玉のこと、聞いたわ。顔色もすっかり良くなったそうで……ふふ、貴女のおかげね」
「私は、仕事をしたまでです」
誰かに感謝されるための仕事ではない。ただ、目の前にある状態を、あるべき状態へ戻しただけのことだ。
しばらく、後宮内が落ち着きを取り戻しつつあることについて、当たり障りのない話が続いた。翠蓮様は、いつものように遠回しに、けれど確実に何かへと近づいていくような話の運び方をする。私への礼を述べながら、少しずつ本題へと歩み寄る、いかにもこの方らしい話し方だと思った。
やがて、翠蓮様は扇子でわずかに口元を隠しながら、探るように切り出した。
「そういえば……先日、陛下と一緒にどこかへお呼ばれしたと聞いたのだけれど。何があったのか、聞いてもいいかしら」
(……もう、耳に入っているのか)
この方の情報網の広さとその速さには少しばかり驚かされる。
「……ええ、特に隠すようなことでもありませんので」
私は、いつも通り事実だけを淡々と語ることにした。誇張も脚色も、私の仕事には不要なものだ。
「近衛の燎牙様が、陳という医官の件を報告なさっていました。紅玉様の毒の一件の」
私は淡々と、記憶にある順番のまま続けた。翠蓮様は扇子を口元に当てたまま、相槌一つ挟まずに耳を傾けている。
「それと、見たことのない方が三人。……お一人は白い髪の、随分と冷たい雰囲気の方。もうお一人は、やけに気安い方。最後のお一人は、彫りの深い、異国風の顔立ちの方でした」
思い出すそばから、つい職業柄の品定めが顔を出す。それを翠蓮様に悟られないよう、私は表情を動かさずに続けた。
「陛下は、どなたも紹介してくださいませんでした……、けれどふとよぎったのです」
一拍置いて、私はその確信めいた仮説をそのまま口にした。
「――選帝侯」
翠蓮様の持つ扇子が、ほんの一瞬、動きを止めた。
だが、それだけだった。声にも、表情にも、動揺と呼べるほどのものは表れない。
「……まあ、驚いたわ。まさか、貴方が選帝侯様方に直接お目にかかることになるなんて」
驚きを言葉に乗せながらも、その口調は最初から最後まで一定の優雅さを保っていた。演技なのか本心なのか、私にはやはり判別がつかない。
「ちなみに、どのようなご様子だったのかしら」
私は記憶をもう一度辿りながら、三人の様子を語り直す。
「白い髪の方は、燎牙様が報告を続けるかどうかを、事実上お決めになっていました。陛下の許しを待たず、その方の一言に、燎牙様が先に動きかけていたのです。それも、二度も」
思い返せば、あの光景は今でも据わりが悪い。皇帝の御前で、皇帝の言葉より先に動く臣下など、本来ならばあってはならないはずだ。
「気安い方は、陛下に『眠れてます?』と、臣下にしては軽すぎる口調でお尋ねになっていました。陛下は、斬りもせず、ただ『うるさい』とだけ返しておられました」
私がそこまで語ると、翠蓮様の喉から小さな笑いが漏れた。
「……ふふ」
扇子の陰で目を細め、少し間を置いてから、独り言のように零す。
「……実は、私も一度だけ、お会いしたことがあるの」
「どなたにですか」
私が尋ねると、翠蓮様は扇子で口元を隠したまま、ただ微笑んだ。
「さあ、それは……また、機会があれば」
やんわりと、けれどきっぱりとはぐらかされる。深追いする空気ではなさそうだったので、私もそれ以上は聞かなかった。
翠蓮様は、しばらく私を興味深そうに見つめていたが、やがて小さく首を傾げた。
「それより、貴女、随分と落ち着いているのね。……普通なら、もっと畏れ多くて、声も出ないと思うのだけれど」
「別に、殺されかけたわけでもありませんし」
私は、正直な感想を述べた。
「それに、あの方々は誰も、私を抱き枕にして眠ろうとはなさいませんでしたので。……陛下と比べれば、よほど平和な時間でした」
「……ふふっ、貴女らしい」
翠蓮様は思わず小さく吹き出し、それから扇子を閉じた。
パチン、と軽い音。空気が、わずかに変わる。
「……なら、これもそういうことなのかしら」
○
「本題に入りましょうか」
居住まいを正した翠蓮様の声には、先ほどまでの柔らかさとは違う、どこか事務的な響きがあった。
「柚葉さん。貴女を、私の専属の化粧係として迎えたいの」
「……専属、ですか」
私は、意図を測りかねて聞き返した。
(なぜ、今その話に)
「今回の一件……陳とかいう医官を捕らえて、それで終わりだと思っている?」
翠蓮様は、私の返事を待たずに続けた。
「誰の指図であったのか。何のために陛下のお体を探っていたのか。まだ、何一つ明らかになっていないでしょう」
「……そうですね」
それは、私も薄々感じていたことだった。末端の医官一人を始末したところで、根が絶たれたわけではない。
「父に言われたの。『これ以上、後宮の醜聞のままで済ませるな。真相を明らかにしろ』と」
扇子を持つ指先に、わずかに力がこもるのが見えた。宰相家の娘としての重圧を、その仕草だけが物語っている。
「貴女の目と、手が要るの。毒も、傷も、人の嘘も、貴女ほど正確に見抜ける者を、私は他に知らないもの」
なるほど、と思う。宰相家の思惑と、私の職業的な技能。それが、今この場で結びついたということらしい。
だが、私にとって、それは容易く頷ける話ではなかった。
「……申し訳ございませんが、お断りいたします」
少し間を置いてから、私は丁重に答えた。
「私は、死化粧師です。地下でお待ちのお客様を、これ以上お待たせするわけには参りません」
本業を疎かにする理由には、なり得ない。そう言い切ってから、私はもう一つ理由を付け足すことにした。
「それに、政治向きのお話に深入りする趣味も、時間も、私にはございませんので」
翠蓮様は、私の返答を受けても、少しも動じなかった。
むしろ、待っていたかのように、静かに口を開く。
「貴方の大切な仕事道具を奪い辱めた犯人に、思うところが無いわけではないでしょう?」
私は、答えなかった。
かわりに、脳裏には昏い記憶が音もなく蘇っていた。
(……地下の道具箱。神聖な刃と、防腐液)
死者のためだけに研ぎ澄ませてきた、大切な仕事道具だ。
(それを盗み出し、あろうことか、生者への安っぽい嫌がらせの飾りに使った、あの時の)
思い出すたび、腹の底が冷たく凝る。
(冷たく、重く、黒い怒り)
あの一件は、まだ何一つ片が付いていない。誰の仕業であったのか、私自身、明確な答えを得られてはいなかった。
いつもならば、間髪入れずに言葉を返す。だが今は、喉の奥に何かが小さく閊えたように、言葉が出てこなかった。
翠蓮様は、答えを急かすでもなく、ただ静かに私を見つめている。
しばしの沈黙。
やがて、私はようやく口を開いた。
「……期間限定で、よろしければ」
一息置いて、私はもう一つの条件も付け加えることにした。
「本業に支障が出ない範囲、という条件で」
完全な白旗ではない。せめてもの一線を、私は引いておくことにした。
翠蓮様は目を細め、満足げに頷いた。
「ええ、それで構わないわ」
そう言うと、扇子の陰でくすりと喉を鳴らす。
「ふふ……貴女は、本当に、面白い人ね」
その微笑みの奥に何があるのか、私には分からなかった。
ただ、また一つ、厄介事を抱え込んだことだけは確かなようだった。
コメント
1件
第28話、読み終わりました!翠蓮様のお茶の誘いと専属の化粧係の話、一見穏やかな場面だけど、その奥に宰相家の思惑とか政治の匂いがひそんでいて、そこがすごく面白かったです。柚葉さんが「期間限定」って条件を出したところ、すごく彼女らしいなと。道具を奪われた怒りが腹の底で冷たく燃えてる感じ、ちゃんと伝わってきました。次の展開が気になります。