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ハシゴを下りると、そこにはぽっかりと大きな穴が空いていた。ううん。部屋に穴が空いていると言うより、部屋自体が穴だった方が正しい。床がすこんと抜け落ちてしまったみたいだ。大きな穴の上には、吊り橋がかかっている。これ以上にないくらい、頼りげのない吊り橋だ。
恐る恐る穴を覗き込んだ。暗い穴に底は見えない。底、あるのかな。落ちたら、どこまでもどこまでも落ちていきそう。
部屋の両側の壁は、上の階から落ちている水で覆われていていた。水は壁を伝い、音もなく穴へ飲み込まれていく。橋の向こう、正面にドアが見える……。ここは奈落の間。奈落にかけられた吊り橋は、見た目よりしっかりしている。できれば吊り橋じゃなくて、もっとしっかりした橋にしてほしかった……。
扉をくぐると、階段と四角い大きな穴があった。大きな穴を通る。
「リズ……」
ようやく池の東側へ辿りついた。けれどそこに彼女の姿はない。ただ静かな池が微かに水面を揺らめかせ、出迎えた。当たり前か……。ここを出ていく姿を見たもの。ここに来るまでに、少し時間かかっちゃった……。きっとこの近くにいるわ。他の所を捜してみよう。
階段を上ると、一階の部屋には小さなポンプがあった。絶え間なく水が噴き出されている。水は金網の張られた床下に落ちて、更に部屋に巡る溝へ流れ込んだ。そこから階下へ流れ落ちている。この水は、中庭の噴水と違って水が澄んでいる。ここにも、リズはいない。
二階の扉に入る。
「わあ……!」
思わず声を上げた。
その部屋は本で埋め尽くされている。壁に作りつけられた本棚の上は通路になっていて、階段で上り下りできるようになっていた。そして、天井までぎっしりと本で埋め尽くされているのだ。なんてたくさんの本!全部読み終わるのに、どれくらいかかるのかしら!
その光景に圧倒されていると、背後から弱々しい声がした。
「……レナ?」
ハッとして振り返ると、本棚の影からボロボロのリズが姿を現す。
「リズ……!!」
彼女に飛びついた。
「レナ……会いたかった!」
リズは泣いている。泣いているの、初めて見た。私が泣かせた……。そう思ったら急に涙が溢れる。
「私も……!一人にしてごめんね、怖かったよね……」
「会いたくてたまらなかったの……」
涙声でため息の如く呟いた。
「ごめんね……でも無事で良かった」
ぐすと鼻を啜り上げる。
「そうだ……足は?怪我は大丈夫?」
足を見ようと体を離そうとしたら、それを遮りリズは抱きしめた。
「平気、もうちっとも痛くないわ」
「そう……?それならいいんだけど……」
「うん、でも本当に……会えて良かった」
突然彼女が悲鳴を上げて、私を突き飛ばす。
「リズ!?」
顔を押さえて、呻いていた。その側に軽やかな音を立てて、すすけたコインが転がる。
「ど、どうしたの。何……」
声はそこで凍りついた。リズ……舌……?それを確かめる間もなく、小さな背中が私の目の前に飛び降りてきた。
「下がって!」
「フレディ!?」
上の通路にいたのだろうか。私には何が起きたのか、わからない。何が……何が起きて……!状況が理解できない私の前で、彼が銃を構えた。
「!?……だ、だめっ!」
咄嗟に後ろからフレディのコートを強く引っ張る。がくんと体勢が崩れ、同時に発泡音が響いた。ぎゃあああっとリズが吠える。銃弾が彼女の肩を貫いた。その口から伸びるのは長い舌。わからない。わからない!わからない!!
リズはのたうち回って、背後のドアから飛び出していく。
「くそ……!」
追おうとした彼に、私はしがみついた。
「うわ!何っ……放せ!」
でも私は手を緩めない。フレディにしがみついたまま叫んだ。
「何で撃ったりしたの!?私の友達なのに!」
「姉ちゃん、あれは」
「ひどい!撃つなんてひどい!!」
「あのね、彼女は」
「やっと会えたのに!リズ、怪我してるのに!」
「ちょっと俺の話、聞いて……」
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい!!」
ぱちん。突然頬に痛みが走る。ほっぺに手を当てて、呆然と彼を見返していた。……叩かれた?痛みは大したことなかったけど、その音と叩かれた事実にびっくり。誰かに叩かれたのなんて、初めてだ。
「姉ちゃん、いい子だからちょっと俺の話聞いてね」
フレディは銃をベルトに戻しながら、ゆっくりと言った。相変わらず頬を押さえたまま、ぽかんと見る。
「彼女は入蝕されている」
「ニュウショク?」
言っていることが分からなくて、一生懸命頭の中でそれを繰り返した。ニュウショク?
「ニュウショクって……何?」
「人間に似てるけど、似てない奴。見てるでしょ?」
「舌の……長い……?」
さっきのリズの舌は……。
「そう。それを俺たちは、『冥使』って呼んでる」
「メイシ?」
また知らない単語。
「ヴァンパイアって言った方が通りがいいかな」
「ヴァンパイア!?」
それは知っている。お話の中によく出てくる……牙を持って血を吸う怪物。でもあれは、本の中の!
「吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になる。吸血鬼伝承では基本でしょ。まあ本当は血を吸われたからってわけじゃなくて、その時冥使の血が体内に入ることが多いからなんだけど……とにかくそうやって冥使の血に侵されることを入蝕って言うんだ」
彼はまっすぐ見据えた。銀色に見えるグレーの瞳。懐かしい気持ちにさせる、不思議な色。
「姉ちゃんの友達は入蝕されてた。もう人間じゃない」
「リズ……が……」
声が掠れる。
「吸血鬼だっていうの……!?」
「そうだ」
「そんな……そんなはずはない!!だってリズだった!私、お話したもの!ちゃんとリズだった!!」
フレディは首を振った。
「まだ起き上がって間もないんだ。かろうじて自我を残している。でもそれは……ごく薄いヒトの膜を被っているにすぎない」
薄いヒトの膜。何だかその表現がとてもとても怖くて、背筋が震える。リズを纏った何か?
「フレディ……あなたは、どういう人なの……」
「俺は『祓い手』の一人」
そう宣言した小さな男の子は、私より随分大きく見えた。
「祓い手……?」
もう知らない単語ばっかり。思わず眉を顰める。フレディは嫌な顔をしなかった。
「冥使と戦うことをお仕事としている人をそう呼ぶの。退魔師とかヴァンパイア・ハンターとか呼ぶ人もいるけど。俺もその一人」
冥使?祓い手?入蝕?ヴァンパイア?……ダメ、頭がついていけない。力なく頭を振った。
「頭痛い……何でこんなことに……私、何の関係もないのに……」
不意にベッドに逃げ込みたくなる。
ふかふかの私のベッド。私の小さなお城。あそこは私を守ってくれる場所。起きたら全部夢なんだわ。だから、今までのことは全部無かったことになる……。けれどそんな私のぬるい夢を、彼はあっさりと打ち砕いた。
「何言ってんの。関係ないわけないじゃん。むしろド真ん中」
どまんなか?
「どういうこと?」
私が関係しているっていうの?私には何一つ、分からないのに?フレディは本棚を見上げながら、振り向かずに答える。
「ん……もう少し待ってね。何だか目的がはっきりしなくてさ。俺にもまだ分からないことが多くて……ああーっ!!」
「な、なに!?」
今度は何!?また悪いこと!!
「すごい!これ、かなり貴重な本!!」
興奮しながら叫ぶと、一冊の本を棚から引き抜いた。
「…………」
……本?
「禁書の一つ!!うわー、本物かな!?初めて見たー!」
かくんと力が抜ける。拍子抜けしちゃう。コドモなのかオトナなのか、よくわかんないな……。