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どくた精神病院は、世界の端にある。窓の外に見えるのは白い壁と鉄格子だけ。
でも、リーゼにとってそれは聖堂の壁に見えた。
ここでは誰も嘘をつかない。
祈りも、神も、もういらない。
ただ、狂犬がるるの言葉だけが、彼女の“信仰”になっていた。
「今日もちゃんと食べた?」
そう言ってがるるが差し出すスープには、温かい匂いがあった。
人の匂いのようで、でも違う。
彼女は何も聞かずに飲み干す。
心の奥が安らぐのを感じる。
「偉いね、リーゼ。あなたはもう、きっと大丈夫。」
がるるがそう微笑むたびに、胸が締め付けられる。
――その声が神の声に似ていると思ってしまう。
夜になると、リーゼは病室のベッドで祈る。
けれどもう神の名は呼ばない。
代わりに、がるるの名を唇でかすかに唱える。
「くるい…くるい…」
声に出すたび、罪が少しずつ溶けていく気がした。
時々、夢を見る。
あの教会の祭壇の上に、がるるが立っている。
白衣は光を反射し、神像のように見える。
がるるが差し出す手のひらから、滴る赤い液体。
「飲んでいいよ、リーゼ。これは血じゃない、愛だから。」
リーゼはその夢を見た朝、胸の奥が甘く疼くのを感じた。
食べたい。触れたい。
でもそれは“食欲”でも“欲情”でもない。
もっと深い場所で、魂が「混ざりたい」と訴えている。
病室のノートに、リーゼは毎晩こう書いた。
わたしの神はもう笑わない。
わたしの神は、ちゃんとわたしを見てくれる。
わたしの神は、あたたかい。
だから、わたしは今日も食べる。
生きるということは、信じるということ。
がるるはそんなリーゼを、まるで娘のように抱きしめた。
「よく頑張ってるね。ここにいる限り、もう何も怖くない。」
その声を聞くたびに、リーゼの中の“飢え”が静かに鎮まっていく。
だけど――夜が更けると、また始まる。
理性の底で、彼女は思ってしまうのだ。
この腕の中の温もりを、
この匂いを、
この体ごと、自分の中に取り込みたいと。
“本能”が囁く。
“信仰”が答える。
――神を喰らえば、完全になれる。
朝になり、ナースがドアを開ける。
白い光が差し込む。
がるるの手を握りながら、リーゼは穏やかに笑った。
「先生、わたし、今日も生きてます。
あなたのおかげで、ちゃんと…生きられた。」
その笑顔は、祈りの笑顔ではなかった。
けれど、かつての神が見たらきっと泣くだろう――
それほどに、美しく穏やかな狂気だった。