コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
オイゲンが四人で飲み会をするとの連絡を受け取ったのは、カスパルとリオンが病院で再会したその日の午後-カスパルが出席した学会が終了した直後-だった。
可能ならばすぐにでも飲みに行きたいというカスパルの思いが文面から読みとれる、いつもとは違って内容のみを伝えるメールだった為、仕事の合間を縫って返事をしようと考えつつも出来ずにいた。
四人と聞かされると自然と思い浮かぶのはメールを送ってきたカスパルとウーヴェ、そしてマウリッツの顔だったが、短い文面だからこそ読み取れる浮かれ具合から、四人目はマウリッツではなくウーヴェの恋人と紹介されたリオンだと気付くと、無意識に拳を握りしめてしまう。
ギムナジウムをともに過ごしその後の大学生活でも面白おかしく、時には辛い事を乗り越えながら一緒に医師の道を歩んできたウーヴェに伝えたことは一度もないが、密かに好意を抱いていたオイゲンは、先日皆が集まった時に遅れてやってきたリオンを恋人と紹介された時に何かが弾け、ウーヴェに対する思いを己の中に閉じ込めることに力を必要とするようになっていた。
ギムナジウムでウーヴェと初めて出会ったとき、今ではあまり考えられないが言葉の端々に人と親しくなることを拒絶している雰囲気を隠しもしなかったため、人とのコミュニケーションを取らない陰気な奴だと決めつけて近寄ることは無かったが、同じクラスになり自然と交流を深めていくにつれ、その陰の原因の一端を教えて貰った事から、気が付けば何故かウーヴェを一人にすることに不安を抱くようになっていた。
当初は友人として傍にいたオイゲンだったが、陰気な同級生という印象が親しくなれば多少口が悪くとも友人の事を気遣える優しい男だと分かり、人との間に壁を作るのは過去の事件のトラウマだとも教えられてから心の中で予想が出来なかった反応が起こりだしていた。
知人から友人へ、そしてその先の関係へと進む未来を一人ベッドの中で想像しては寝返りを打って己の想像を打ち消し、それでもなお消すことのできない感情を腹の底に静かに蓄積していったのだ。
ウーヴェに対する思いが少しばかり行き過ぎた友情なのかそれとも恋慕なのかの判断がつかずにいたオイゲンは、同じ教室で同じ授業を受け毎日同じ時を過ごしているだけでただ満足していたのだが、あの時己の心を抉る様に突き詰めて考えることをしなかった感情が何であったのかを、先日リオンを紹介された時に突き付けられてしまったのだ。
心の中の奥深くにひっそりと存在していた彼への思いが、その彼が年下の同性の恋人を紹介した事で音もなく弾けて熱を帯びたのだ。
今まで彼が付き合ってきた女性達に対して表立った嫉妬はしなかったが、得体の知れない底冷えするような目つきを時折見せる年下の男を恋人だと紹介されただけで目の前が真っ赤に染まるような嫉妬を感じたのかと己の中で言葉を転がしてみるが、転がった先で見出した答えは、どうしてあの男なんだという嫉妬の塊のような感情だった。
どうしてあんな得体の知れない男と付き合っている、どうして己ではないのだという、時を遡らない限りはどうすることもできない気持ちを拳の中に閉じ込めたオイゲンの口から流れ出したのは、気に食わないという一言だった。
恋人のウーヴェ-そう考えるだけでも腹立たしい-は当然だろうが、何故かカスパルまであの男のことを気に入っているようで、それも面白くないと鼻息荒くふんと言い放つと、 前回は仕事の呼び出しを口実にその場から離れることが出来たが、さすがに今度はそうもいかないと気付くと、さまざまな感情が入り混じって暗澹とした思いとなって腹の底に蓄積され、次に顔を合わせた時には誰かを激しく傷付けてしまう事も予測できてしまう。
傷付けてしまう相手がカスパルならば後日酒の一杯でも奢って仲直りすることは出来るが、先日の様子とカスパルのメールを読んだ今、己のこの過激な思いが向かう先はただ一人で、その結果としてウーヴェが最も傷付く事になりかねなかった。
彼を傷付けてしまうことだけは避けたいオイゲンは、思わず自嘲しつつ額に拳を宛がってデスクに肘をつく。
カスパルとウーヴェと一緒に酒を飲んで楽しく笑って過ごせる時間は彼にとって破綻し掛かっている結婚生活の中で一筋の救いのようなものだったが、そこに自分の知らない存在が入り込み、自分以外の友人達がその存在を認めている事にどうしても訳の分からない子供じみた怒りを感じてしまう。
その怒りの根源を見据えれば、腹の底に蓄積している嫉妬と言う名のどろりとした感情と同じ顔をしている事に気付くが、怒りの炎に遮られて本質にまで目を向けることが出来ないでいた彼は、次にリオンと顔を合わせた時に己の感情をコントロール出来るかと自問し、自信はないと自答してしまう。
妻が若い医師と不倫をしている事実を上司に告げられた時でさえも嫉妬に怒り狂う顔など見せなかったが、ウーヴェが年下の男と付き合っていると知ったときの衝撃を思い返すだけで手当たり次第にデスクの上のものをあたり一面に投げつけたくなってくる。
何故、学生の頃から傍でずっと見守り続けてきた自分ではなく、自分たちの知らないどんな人生を歩んできたのかも知らない男とどうして付き合っているとの疑問が浮かび、直接ウーヴェの口からその話を聞いたことがない事も思い出す。
次に四人で飲みに行くのも良いがその前に聞かせて貰おうと、何かの救いをその言葉にだけ込めた様に頷いたオイゲンは、カスパルに近いうちに日程調整をしてくれと返事をし、やや躊躇った後にウーヴェの番号を呼び出して携帯を耳に宛がう。
『ハロ』
聞こえてきた声は耳に優しい穏やかなもので、今日の仕事が終わっている空気も伝えてくれた事に安堵し、オイゲンだと名乗ると携帯の向こうの空気がふっと柔らかさを増す。
『もう仕事は終わったのか?』
「ああ、俺はな。お前は?」
デスクに座って足を揺らしながら壁に掛かっている雄大な山の写真へと目を向けると、今日は少し難しい患者が続いたから疲れたと苦笑混じりの声が聞こえ、お疲れ様だなと心からの同意を示すと返ってくる苦笑が深くなる。
「なあ、ウーヴェ」
『なんだ?』
「カールからメールが届いた。四人だけで飲みに行きたいって?」
『ああ…リオンを随分と気に入ったらしい』
だから今度はゆっくりと話が出来る四人でどうだと誘われたと告げられ、目を伏せながら確かにこのメンバーだとゆっくり話が出来ると笑うが、その笑いをすぐに納めて深呼吸をすると、その前に二人で会えないかと緊張を覚えながらも誘って目を閉じる。
『うん?別に構わないけれど、どうかしたのか?』
オイゲンのその誘い方から何かを感じ取ったらしいウーヴェの口調が僅かに変化した事に気付き、こんな時の為ではないが用意していた最近むしゃくしゃするから飲み明かしたいとの言い訳を若干慌てたように告げると小さな小さな笑い声が耳朶を擽る。
『この金曜なら遅くまで付き合えるな。どうだ?』
ウーヴェの少し悪戯っ気を込めた柔らかな声に誘われるようにもう何年も昔の光景が脳裏に浮かび、あの頃いつもオイゲンの部屋で夜更けまで二人で好きな本や写真を見ながら夢を膨らませてはその世界で生きる実感を得ようとしていたが、その頃と全く変わっていない声が週末の予定を確かめてきた為、振り返ってカレンダーを見ると週末の予定は空白になっていた為、大丈夫だと頷いて片肘に掌を宛がう。
『何処で飲む?いつもの店にするか?』
「店も良いが、この間の写真をプリントしたものを渡したい」
先日カメラのモニターで確認をした写真を現像したことを忘れていたと告げ、いつものように記念として持って帰ってきた石も渡したいから家に来ないかと笑うと、やや躊躇った後に奥さんの都合はどうなんだと問われて沈黙してしまう。
『オイゲン?』
「…妻のことは気にするな」
人の心の機微に関しては仲間内でも最も敏感なウーヴェに悟られないように気をつけつつも声に冷めたものが潜むのを止められなかったオイゲンは、短い沈黙の後にただ一言分かったと答えられて無意識に安堵の溜息を零し、当日仕事が終われば連絡をすると伝えて通話を終える。
マッターホルンで写したものや今までに撮りためてきたビデオなども一緒に見ようと決め、学生の頃のように適当なものを食べて酒を飲んで可能ならば一夜を明かそうとも決めると胸の裡で燻っていたものが何処かに消え去ったようで、久しぶりに胸が空いたような心地良さが溢れてくる。
その気持ちよさが溢れた心のままで帰路に就こうとデスクから立ち上がり、週末が早く来ないかと半ば浮かれながら職場を後にするのだった。
金曜の午後遅く、ウーヴェはいつもと変わらない一日の終わりを迎えていた。
いつもと違う事があるとすれば、お茶の時間になれば高確率で診察室のドアが激しくノックされが無音で、今日は仕事で遅くなるとのメールも電話も受け取っていない事と、友人から自宅でのささやかな飲み会の準備は整った、仕事が終わり次第連絡をして欲しいとメールを受け取ったぐらいだった。
出勤準備で慌ただしい朝の時間、ウーヴェはリオンに仕事の後にオイゲンの家に行くことも伝えていたが、メールの返信よりも話す方が早いと笑ったリオンにその声のままで楽しんで来いと言われたことを思い出し、この時間になっても何の連絡もないことからかなり忙しいのだろうと肩を竦めた後、彼女に後を頼んで少し早めにクリニックを出て行く。
今だとまだ近くのショッピングセンターは開いている時間だった為、友人の家に持って行くワインやチーズ、そして結婚式以来顔を合わせていないオイゲンの妻に渡す花束を買えそうだった。
友人の妻とは結婚式とその後の披露宴以降は滅多に顔を合わせることはなかったが、他の友人達は時々ホームパーティの誘いを受けているようだった。
ギムナジウムの頃からの付き合いであるウーヴェに声が掛からないのはおかしいとカスパルが酔いが回った勢いでオイゲンに詰め寄ったことがあったが、オイゲンが口を開く前にウーヴェがその手のパーティは苦手なんだと苦笑でその話を打ち切らせた事があった。
実際、自分だけが呼ばれていないことに対してウーヴェは腹を立てる訳でも無ければ寂寥感を感じることもなく、オイゲンから今日のようにお誘いの連絡が入れば都合を付けて飲みに行ったり、登山の話をじっくりと聞かせて貰ったりするだけで満足していたのだ。
ただ今夜は少し勝手が違う事を何となく感じ取っていたため、ウーヴェは彼の妻への手土産に花束とお菓子を持参しようと考えていた。
ショッピングセンターで店員のアドバイスを受けて購入した小ぶりの花束と菓子と、これは自分たち用のワインボトルを両手に店からほど近い駅へと少しだけ足早に歩いていたウーヴェの耳に着信音が流れ込み、コートのポケットから携帯を取り出す。
「ハロ」
『ああ、ドクか?今話をしていても大丈夫か?』
聞こえてきた声は今では聞きなれたヒンケルのものだったが、何やら慌てているような気配を感じ、足を止めて地下鉄のホームへと降りていく階段の壁に背中を預けてどうしましたと問い返す。
『…リオンが入院した』
「…どこの病院ですか?」
ヒンケルの慌てている声の理由を知り、一瞬で胃のあたりが冷えた気がしたウーヴェは、どこに入院している、そもそも入院の理由は何だと平静さを装いながら問いかけると、ヒンケルも極力手短に落ち着いた様子で話そうとしているのがわかる口調で事のいきさつを教えてくれる。
ヒンケルからウーヴェが聞いたのは、午後に通報があり出動したが、犯人を取り押さえる為に背中を向けたリオンが、犯人の彼女と思しき女から頭を殴られ、その場に昏倒してしまったという事実だった。
犯人とリオンを殴った女を制服警官に任せたもののリオンの意識は戻らず、救急搬送させたことも教えられ、震える息を吐く。
刑事という職業柄大小様々な負傷は日常茶飯事であり、リオンもウーヴェもそれを良く理解していたが、頭部の負傷で入院したと聞かされればやはり心配が大きく先立ち、コートの前をぎゅっと握りしめたウーヴェは、その病院にこれから向かっても大丈夫かと問いかけ、出来れば行ってほしいと懇願するような声に目を見開く。
『病院嫌いのあいつだ、医者の目を盗んで抜け出すかもしれない』
出来ればドクにはそれを見張っていてほしいと、少しだけいつものような口調に笑いを混ぜたヒンケルの言葉にウーヴェもつられて小さく笑い、確かに脱走しそうだと息を吐く。
「運ばれた病院は友人が勤務している病院です。これから向かいます」
『ああ、悪いが頼む』
ヒンケルはヒンケルなりに、問題児と称され本人も自認しているリオンを心配している事に気付いたウーヴェがいいえと首を左右に振って病院に向かうことを再度伝えると、安心したような吐息が聞こえてくる。
通話を終えた携帯をポケットに戻し、ふうともう一度息を吐いたウーヴェが顔を上げたとき、両手に持った花束や菓子を入れた紙袋の意味を失念してしまうほどリオンの容体が脳裏を占めていて、リオンの病院に向かうために家に行けなくなったと友人に電話をする余裕すら無くなっているのだった。
友人、カスパルが勤務している病院に日をおかずに訪れることになったウーヴェは、先日とは違って受付で警察から連絡を受けたこと、今日の午後に緊急搬送されてきた患者の病室を教えてくれと口早に告げるが、患者との関係はと問われて口籠ってしまう。
受付の胡乱な者を見る目に耐えられず、恋人ですと口にしようとしたその時、今ばかりは救いの神だと祈りたくなるタイミングで声を掛けられる。
「ウーヴェ‼」
ちょうど良かったと、こちらも何故か慌てているような声で名を呼びつつ駆け寄ってきたのはカスパルで、友人の顔にウーヴェも自然と顔に安堵をにじませる。
「カール、リオンの部屋はどこだ?」
受付の訝る視線をカスパルが手を挙げて遮った後こちらだと顎で行き先を指し示し、ウーヴェもそれに従って歩き出す。
「意識がない状態で搬送されたのか?」
「ああ。頭部を何か固いもので殴られたようだな」
取り敢えず頭部を負傷した時の検査を一通り行ったが少しだけ脳波に乱れがあったから入院させたと教えられ、本当に搬送先がここでよかったと胸を撫で下ろす。
「まあ、今夜一晩入院していれば問題ないと思うがな」
「…そう、だな」
外科医として数多の患者を診察してきたカスパルの言葉に嘘はないだろうと己を安心させるように呟いたウーヴェは、病棟へと進むカスパルの横で言葉少なに歩いているが、前方から病院内ではめったに聞くことのない慌ただしい足音が響いてきたことに気づいて顔を見合わせる。
「どうした?」
廊下の角を曲がった先から看護師が蒼白な顔で駆け寄ってきた事に気付いたカスパルが声をかけると、ああ、良かったと心底安心したような顔で看護師がカスパルに事情を説明し始める。
「…なに?患者がいなくなった?」
看護師が何とか伝えたのは入院予定だった患者の姿が病室から消えていたということで、今慌てて探している、連絡先を控えているのでそちらに連絡しようと思っていたとも教えられ、カスパルがブルネットに髪に手を当ててやれやれと息を吐く。
「どの患者だ?」
「あ、はい…頭部の負傷で脳波のチェックをしたいから入院措置になった…」
「リオン!?」
カスパルの問いに看護師が何とか落ち着こうと報告をするが、それを聞いた二人が顔を見合わせて叫んだのはリオンの名前で、看護師の頭が何度も上下するのを見ずにリオンが入院していたはずの病室へとカスパルが駆け出し、ウーヴェもその背中を追いかける。
ドアが開け放たれている病室はもぬけの殻で、脳波を図っていた機器から延びるコードがベッドから垂れていて、そのベッドにはさっきまで誰かが寝ていたことが一目でわかるようにシーツが乱雑に捲られて足元でくしゃくしゃに丸まっていた。
「あいつ…‼」
カスパルが医師の顔でやってくれたと舌打ちをする横でウーヴェが一瞬で血の気を失ったような顔になり、ヒンケルが危惧していた事が起きたと拳を握る。
ヒンケルが案じていたようにリオンは病院や医者が嫌いで、毎日のように喧嘩に明け暮れた学生時代でも孤児院にある救急箱や薬局で購入した消毒薬だけで手当てをしたり、時には水で洗い流すだけで手当てすらしないことがあったと聞かされていたが、その病院嫌いがまさかここでも発揮されるとは思わず、無意識に奥歯を噛みしめてしまう。
脳波に異常がある為に入院したのにその結果が出る前に脱走するなどいい歳をした大人がとる態度ではなかった。
その苛立ちよりも脳波の異常という言葉が想像させる事態のほうが恐ろしく、一つ背筋を震わせたウーヴェに気付いたのかカスパルがやれやれと再度溜息を吐き、脳神経外科のドクターから話を聞いてくるからここで待っていろと告げると、まだリオンの温もりが残っているようなシーツを一つ撫でたウーヴェが力なく腰を下ろす。
「ウーヴェ…」
「…悪い、カール。話を聞いてきてくれ」
俺はここで待っていると力なく笑うウーヴェにカスパルがどんな言葉をかけようか思案顔になるが、行ってくるとだけ残して病室を出ていく。
急に静まり返った病室で本当にどうしようもないと息を吐いたウーヴェだったが、脱走できるということは心配するような最悪の事態は避けられたのではないかと思案し、そうかもしれないと己を安心させるように呟くが、カスパルが戻ってくるまでは安心できないと白とも銀ともつかない髪を左右に揺らし、友人が吉報を持って戻ってくることを信じるように手を握り締めるのだった。
冬の寒さが厳しくなる夜、疲労困憊の体で自宅に帰ったウーヴェは、足を引きずりながらリビングに向かい、コートを脱ぎ捨てるとカウチソファに身を投げ出す。
あの後、脳神経外科のドクターと一緒に戻ってきたカスパルから説明を受け、レントゲン写真を見ながら脳波の異常についても説明を受けたウーヴェは、己が無意識に予想してしまう最悪の事態には至らない事を二人のドクターから請け負われて安堵に胸を撫で下ろしたのだ。
その後、行方が分からなくなった事をヒンケルに伝えると、あのバカという愛情の裏返しの罵詈雑言が一頻り流れ出すが、本当にその通りだと思わず頷いたウーヴェに、こちらも思い当たる場所に連絡をすること、もし家に来れば本人から連絡させますと約束をし、ヒンケルと会話を終えたのだが、部屋にはいつしかカスパルだけが残っていて、悪いと疲れた顔で謝罪をした。
そんなウーヴェに、本当にどうしてあいつと付き合っているんだと、先日も問われた疑問を投げかけられ、お前もしつこいぞと言い返そうと友人を見ると、ウーヴェが想像しているよりも遥かに深刻な顔で顎に手を当てている様子から、ウーヴェに対する疑問というよりは己の中で何某かの回答を出そうとしているのだと気付き、カスパルの名を呼んで視線を重ねさせる。
『…あいつと付き合っている本当の理由は俺も知りたい。でも、これだけは言える』
あいつの過去を多少知っているが、憐憫でも同情でもない、傍にいて辛いときは互いに支えあい、楽しい時は一緒に笑っていたい、ただそれだけなんだと、何を気負うでもない穏やかな顔で笑みすら浮かべて告白すると、カスパルが髪を搔きむしった後、にやりと笑みを浮かべた。
『まさかお前がそんな顔をするなんてなぁ』
『うるさい』
いつかも交わされた言葉を繰り返した二人だったが、どちらからともなく小さく噴き出すと、とにかくお前に連絡を取る可能性が最も高い、リオンが帰ってくれば少しだけ説教をして後は傷口の消毒だけをしろと告げて大きく伸びをする。
『それよりも、お前、今日何か約束でもあったんじゃないのか?』
その紙袋や花束は誰かに渡すものではないのかと問われ、ようやく己が両手に持っていた荷物とそれを持っている理由を思い出したウーヴェは、カスパルも余り目にしたことがない様な顔で舌打ちをし、すっかり忘れていたと額を押さえて呟いて気遣うような目で見つめられる。
『…オイゲンの家で飲もうと約束していたんだ』
『…お前が約束をすっぽかすなんて珍しいな』
もっとも、それだけリオンの入院という不測の事態にいっぱいいっぱいだったのだろうと肩を竦めるカスパルに微苦笑し、今からあいつの家で飲む気持ちになれない、花束と菓子をさっきの看護師にお前から渡してくれとカスパルに強引に押し付けたのだ。
そして半ば肩を落としたウーヴェが自宅に帰り着いたのだが、その間、リオンが行きそうな場所を思い浮かべ、連絡を取っては来ていないとの言葉を返されて徒労感を強めながらもヒンケルに連絡をし、今日は家に帰るが病院への支払いに関しては警察署に送ってもらうように伝えてある事、リオンから連絡があればすぐに電話をしろと伝えてほしいと伝言を残したのだ。
当然ながら何度もリオンに連絡を取る為に電話を掛けるが、聞こえてくるのは電源を切っているとのメッセージで、まったくと息を吐いて天井を見上げる。
病院を抜け出してどこに向かったのかは不明だが、病院で見せられたレントゲンや脳波の様子などを極力冷静に考えれば、カスパルの言葉通り、傷口の消毒さえ済ませれば問題ないと言える程度の負傷だろう。
それにリオンも子供ではないのだ。自宅に帰っているかも知れないし、ウーヴェが知らない友人の家に転がり込んでいるかも知れなかった。
だが、そんな思いとは別に、一人になることを極端に恐れ嫌っているリオンの顔が見え隠れし、その顔を思い出すだけで胸が痛みを訴えてしまうのだ。
カスパルに問われた、何故付き合っているのかとの言葉を思い出し、あの顔を見てしまえばと返したことも思い出すが、ひとりで膝を抱えて嫌だと無表情に泣いている子供時代を彷彿とさせる背中を見てしまえば、周囲から案じられるように過保護になってしまうのも無理はなかった。
二人で一緒にいるのだからもうそんな顔をしなくていい、お前は一人ではないと他の誰でもないリオンがウーヴェにそれを教えたのだ、ならば同じ言葉を同じだけの感情で返したかった。
憐れみや同情などではない、家のことや過去を気にすることなく、ただのウーヴェでいられる存在であるリオンは、ウーヴェが思う以上にその存在が大きく、不在である事が想像できないほどになっていた。
「…どこにいるんだ」
腕で目元を覆い隠しながらぽつりと呟いたウーヴェだったが、携帯の着信音が小さく鳴り、のろのろと起き上がって床に脱ぎ捨てたコートから取り出してディスプレイを見ることなく通話ボタンを押すと同時に立ち上がり、暖炉の前に歩いて行く。
『ウーヴェか?今話をしていて大丈夫なのか?』
こちらの様子を窺う声が聞こえ、溜息混じりに大丈夫だと答えたウーヴェは、視線を暖炉の上に並んだ石や写真に向けつつ前髪を掻き上げ、今夜そちらに行けなくなってしまって悪いと謝罪をする。
『何かあったのか?今までこんな風に約束を破ったことはないだろう?』
友人、オイゲンの声に僅かに非難の色が滲んだことを感じ取り、もう一度溜息を零して悪かったと謝罪をするが、その言葉はもう聞いたから理由を話せと語気を荒くされてしまい、ぎゅっと肘を掴んで息を吸う。
「そちらに向かおうと思っていた時、リオンが入院したと連絡が入った」
『リオンが入院?』
「ああ…仕事中に頭部を負傷して緊急搬送されたようだ」
何時間か前のやり取りを思い出し、重苦しい溜息を吐きながらも事情を説明したウーヴェだったが、リオンがカスパルの病院に搬送されたことを聞き、電話の向こうに沈黙が広がる。
「病院に行ったら…もう自己判断で退院したようでいなかった」
だから入院と退院の手続きを代わりに行ってきたこと、カスパルにも迷惑をかけたことを伝えると、自己判断で退院したのかと問われて苦笑交じりに頷く。
「ああ」
病院嫌いとは知っていたが、まさか脳波に異常があると診断されたのに勝手に退院するなんてと、呆れとほんの少しのリオンらしさに小さな笑みを浮かべたウーヴェだったが、次いで聞こえてきた言葉に一瞬耳を疑い、次いで目を瞠って額に手を宛う。
『カールの病院に入院したのなら任せておけば良かったんじゃないか?』
「……オイゲン…?」
それはどういう意味だと無意識に声を潜めるウーヴェにそのままの意味だと少し上擦ったような声が返され、驚きに言葉を無くしてしまったウーヴェに信じられないような言葉が更に投げかけられて唇を噛み締める。
『カールの病院だったら電話をすれば様子を教えてくれるし、勝手に退院したのなら負傷もたかが知れているだろう?後で電話をして容体を聞けば済む話じゃないか』
どうして今夜の約束をすっぽかしたんだと、今度は強い口調で間違えることなく非難されてしまい、咄嗟にどんな言葉も返せなかったウーヴェは、前髪を掻き上げながら呆然と目を瞠り、リオンが心配だった、気疲れもあるから楽しめるような気持ちになれなかったとだけようやく返すと、とんだ邪魔が入ったとウーヴェではなく別の誰かを非難する口振りで吐き捨てられてきつく目を閉じる。
自分にとって掛け替えのない存在のリオンが負傷して入院した事実はウーヴェの中では他の何をも忘れ去っても仕方がないほどの重大な出来事で、己が流した血の中に突っ伏しているリオンの姿が脳裏にちらついてしまい、そんな気持ちのまま友人の家で酒を飲む事など到底できなかった。
それを電話越しに伝えようと口を開いたウーヴェだったが、零れ出すのは言葉にならない音だけで、喉元と胸元に芽生えた痛みに拳を押しつける。
大学からの付き合いのカスパルがリオンとの付き合いを理解してくれたように、それよりも古くからの付き合いであるオイゲンならば分かってくれる、そう高を括っていた自分が悪いのだろうか。
こんな風に友人を怒らせてしまった事など未だかつて無いウーヴェは、とにかく悪かったと途切れながらも謝罪をするが、長い長い沈黙の後、膝が震えるような言葉を投げ掛けられてしまう。
『…どうしてあんなヤツと付き合ってるんだ?』
「どういう意味、だ…?」
『お前にはもっと相応しい女も男もいくらでもいるのに、どうしてあんな得体の知れないガキと付き合ってるんだ?』
友人の言葉に一瞬して血の気を無くしたウーヴェは、暖炉に手を付いて何とか身体を支えながらリオンは得体の知れないガキじゃないと返すものの、嘲笑が返ってきて無意識に拳を握る。
『カールや皆は気に入ったのかもしれないが、俺にとっては気に食わないガキだね』
「…っ!!」
友人達の中で優劣を付けるわけではないが、それでも最も付き合いの長いオイゲンの口から一番聞きたくない類の言葉を聞かされ、ただ悔しさから拳を額に押し当てる。
リオンの人となりは一見するだけでは絶対に理解されないものを持っていて、親交を深めていくにつれその本心が理解できるようになるとカスパルにも説明をしたが、初めて顔を合わせた時に言葉もまともに交わさなかったオイゲンにリオンを否定されるような言葉を言われて黙っていられるはずもなかった。
だから震える声で何故だと問い掛けると、お前があいつと付き合うなんて絶対に認めないと強い口調で返されて眉を寄せる。
「……どうして、そんなことを…言うんだ…?」
カールやルッツよりも誰よりもお前ならば理解してくれると思っていたのにと、心の底から振り絞ったような声で問い掛けたウーヴェは、重く長い沈黙の後にもう一度同じ言葉を繰り返されてしまい、握った拳を暖炉に叩き付ける。
『…俺は認めない。絶対に認めないぞ!』
「イェニー!!」
ウーヴェが悲鳴じみた声で友の名を呼んでも返事はなく、携帯からは通話が切れた無機質な音だけが流れていて、のろのろと携帯のボタンを押して暖炉の上に置いたウーヴェは、友人が吐き捨てた言葉を脳内で反芻しながらキッチンへと向かい、冷蔵庫のドアを開けてビールを取り出すと勢いよくドアを閉める。
オイゲンとリオンが初めて顔を合わせた時にウーヴェが密かに感じ取っていた不安が現実のものとなってしまったのだと気付き、まさかこんなにも激しく拒絶されてしまうとはと自嘲してしまう。
友人の反応が予想外すぎて混乱したのか、取り出したビールの栓を抜くこともせずにリビングのソファに戻ると力無く腰を落とし、オイゲンがどんな思いで今夜の再会を楽しみにしていたのか、それを破り自ら連絡もしなかったウーヴェにどれだけ腹を立てていたのかに思いを巡らせるが、それ以上にやはりリオンに対する憎悪とも取れる言葉が棘のように突き刺さり、握った拳を額に当てて上体を折り曲げる。
あの夜、オイゲン以外の友人たちはリオンと打ち解けたように話をし、カスパルなどは別の機会に少人数で飲みに行こうとまで言ってくれるようになっていたのだ。なのに、真っ先に席を外したオイゲンから強い拒絶の言葉を聞かされるとは思ってもおらず、オイゲンに拒絶されてしまった事への衝撃から肩を揺らしたウーヴェは、反動を付けて身体を起こすともたれ掛かってくるテディベアの毛並みを確かめるように抱き寄せる。
今夜の約束を破るようなことをした上に連絡すらしなかったのは完全にウーヴェの落ち度ではあったが、オイゲンが何故認めないと言い放ったのかの本当の意味を理解することは今のウーヴェには出来ない事だった。
だから約束をすっぽかしたことだけはもう一度謝罪をしようと、抱えたテディベアをそっと手放して暖炉の上の携帯を手に取り、返事がないことを覚悟の上で謝罪の言葉と今度ゆっくり話がしたいという内容のメールを送り、やるせない溜息を零すのだった。
叩き付けるように携帯をソファに置いたオイゲンは、語気も荒く言い放った言葉が脳裏で木霊するのを忌々しげに舌打ちすると、テーブルに並んだささやかながらも二人で食べるには十分の料理を一瞥し、開けた赤ワインのボトルに直接口を付けて残りを飲み干す。
ウーヴェの仕事が終わりそうな時間になっても一向に連絡が入らず、こちらから電話をしようかと悩んだオイゲンだったが、患者の診察が長引いているのかも知れないと思い直し、彼が来た時の為に見る写真やビデオのチェックを済ませていた。
妻は今夜は同級生と言う名の不倫相手と一緒に一泊するらしかったが、久しぶりにウーヴェと二人、自宅で酒を飲んで夜を明かせる期待に比べれば、妻の不倫旅行など何ら痛痒を感じる事でもなかった。
仮面夫婦を続けている事は予想外の疲労感を彼にもたらしていたが、間もなくやってくるウーヴェがその疲労感も仲の良い夫婦を装う必要性も吹き飛ばしてくれる。
そう思ってウーヴェからの連絡を待っていたのだが、いくら待っていても連絡が無かった為、ワインを一杯飲んでからウーヴェに連絡をしようとしたのだが、そんな時に限って妻からの電話が入り、声だけは優しいものを出して今のオイゲンにとっては限りなく労力の無駄と思える妻との会話を終えたのは、結局ウーヴェに電話をしようと決めてからかなりの時間が経過した頃だった。
妻の長電話癖に舌打ちをし、苛立ちを納める為にワインをグラスに注いで一気に飲み干してようやく友人に電話をかけることが出来たのだが、その頃にはすでに約束の時間を2時間近く過ぎていた。
電話に出たウーヴェの様子から良くない何かがあったことを察するものの、その出来事はウーヴェ自身にではなく、彼の恋人の身の上に降りかかったのだと知った瞬間、アルコールが回っていた脳味噌が思考を停止し、次いで瞬間的に浮かんだ顔に毒突こうとした時、負傷した医者の判断を待たずに自分勝手に退院してしまったと聞かされた刹那、抑えきれない本音がこぼれ落ちたのだ。
その言葉を告げることでウーヴェがどれほど傷付くのかを予測出来た筈なのに、この時のオイゲンは己の心ながら制御できない感情に支配されてしまい、また一度溢れた本音は押し止める事も出来なかった。
電話の向こうで傷付いているウーヴェの顔を想像するだけで心が痛みを覚えるが、それ以上にリオンに対する言い表せない感情が強く出てしまい、他の誰もが認めたとしても自分は認めないと怒鳴ってしまう。
冷静になれば、友人よりも恋人を優先するなど良くあることで、自分も過去にウーヴェに対して同じ行動をとった事もあるのに、今夜のオイゲンにはそれを許せる余裕が全く無く、この所ずっと感じていたもやもやの総てを脳裏に存在するリオンにぶつけるように舌打ちをした時、携帯にメールが届く。
見なくても送ってきた相手が誰であるのかを察するものの、今すぐ返事をする気持ちになれずにテーブルの上はそのままに自室に戻ると、登山の相棒でもあり幼い頃から何かと面倒を見てくれている叔父に今から行くと短くメールを送って家を出て行くのだった。