リオンの負傷という騒動がもたらしたウーヴェとオイゲンの間に生まれた溝を二人とも当然ながら修復したいと願っていたが、一方は友人の言葉の真意を知りたい反面、己の中で考え得る最悪の言葉を更に投げ掛けられるのではないのかという怖れから連絡が取れず、もう一方は酔いが醒めた後で何故あのようなことを言ってしまったのかという後悔からメールに返信することも電話をする事もできないでいた。
ウーヴェとオイゲンの間に溝を作らせたリオンではあったが、翌日、殊勝な声で病院を勝手に抜け出したことへの反省の弁を述べ、ウーヴェの家に行ってもいいかと恐る恐る問いかけてきた。
その言葉にウーヴェが返したのは、いつでも帰って来いと言っているだろう、もう忘れてしまったのかという、厳しく聞こえていてもその実リオンが最も欲している優しい言葉で、それに素直にうんと頷いたらしいリオンがやってきたのは、職場でヒンケルや他の同僚たちからこってりと油を搾り取られた後だった。
頭の包帯はそのままだった為、カスパルに言われたとおりに消毒を行い包帯を取り換えたのだが、本当ならば逃げ出したい気持ちを抑えながらも大人しく消毒を受けていたのだ。
そんなリオンの怪我もかさぶただけになった頃、オイゲンとの関係を修復するべくウーヴェが意を決して連絡を取ると、やや躊躇っていてもそれでも長年の付き合いから心境が分かる声で先日は悪かったと謝ってきたため、先手を打たれたことに苦笑し、自分も悪かったと謝罪をする。
「…本当ならば真っ先に連絡をするべきだった。悪かった、オイゲン」
『いや……残念は残念だったが…』
リオンとの関係を認めないと言い放った事への謝罪が出てくるかと密かに期待していたウーヴェだったが、オイゲンの口から出てくるのはウーヴェが来られなかった事へ酒の力を借りて八つ当たり気味に怒鳴った事への謝罪と、次こそは絶対に飲みたいから近々予定を組んで欲しいという願いだけだった。
酒の力で抑えていたものが溢れ出したと予測をしていたウーヴェだが、彼から言い出さないのはやはり前言を翻すつもりも謝罪するつもりもないという事だろうと目を伏せ、本当ならば誰よりも理解して認めて欲しいと思う友人のその態度が悲しく残念で、己の交友関係を見回したとき、信じる神の相違や肌の色などで他人を差別するような人は少ないのと同様に同性愛者に対するそれもあまり見聞した事がなかった。
幼馴染みのベルトランの様に当初は驚きつつも、ウーヴェが本気であると分かった瞬間から良き理解者になる友人がいる反面、オイゲンの様にあからさまに拒絶の意思を示す友人も当然いるだろう。
すべての人に受け入れられるとは考えていないものの、それでもやはり最も多感な学生時代を一緒に過ごした友人には受け入れて欲しい思いが強く、諦めきれない気持ちから遠回しにリオンの話題を出してみてもやはり答えはなく、時間が掛かろうが理解してもらうしかないとウーヴェが重苦しい溜息をついたとき、今度アイガーに登ってくるという言葉が聞こえて瞬きをする。
「アイガー?いつ登るんだ?」
『まだ詳しい日程は決めていない。この間ドンと話をした時に決まったんだ』
いつものように登頂の証として石を持って帰ってくると笑って告げられ、リオンについては許せないがそれ以外についてはいつものオイゲンである事を察し、ひとまず胸を撫で下ろしたウーヴェが楽しみにしているが気を付けてくれと、これまたいつもの心配性を発揮してしまう。
『そんなに俺の腕前が信じられないか?』
「…お前の登山技術を疑ってる訳じゃない。ただ…」
心配なんだと、友人が目前にいるかのように目を伏せ苦笑するウーヴェの声に沈黙が返ってくるが、その沈黙を打ち破ったのはオイゲンの力強い声だった。
『安心しろ、ウーヴェ。お前を悲しませるようなことはしない』
「……だったら、良い」
『ああ。ちゃんと石と写真をお前に届けるよ』
過去に何度も繰り返された会話だと気付いた二人が同時に笑い出し、そう言うことならばどんと構えて待っていようとウーヴェが告げ、是非ともそうしてくれとオイゲンも告げるが、その後は何故か言葉が続かなくなってしまう。
この時、どちらの脳裏にも浮かんでいたのはリオンの顔で、それがもたらす影響で口を閉ざさせてしまっていたのだが、それを破ったのはまたもやオイゲンの声だった。
『週末の予定はどうなっているんだ?』
「土曜日は予定が入っているが、金曜の夜は大丈夫だな」
『じゃあこの間のリベンジだ。金曜の夜、仕事が終わったら家に来いよ、ウーヴェ』
どうしてもこの間飲めなかった事が悔しいらしく、金曜の夜の予定を開けろと迫られ、仕方が無いとも言えずにただ苦笑一つで同意をしたウーヴェだったが、この時初めてオイゲンの口からあからさまな安堵の溜息がこぼれ落ち、二人同時に笑いあって次の再会を楽しみにしている事を伝えて通話を終える。
携帯をデスクに置いて小さく溜息をついたウーヴェは、二つある内の一つの懸念が解消され、一つはやはり解消されなかった事に気付いて今度は少しだけ重い溜息をついて窓の前に立って広場を行き交う人々の姿を見下ろす。
今こうして己の視界に入ってきては出ていく名も知らぬ人々の中に、数は少なくても確実に同性の恋人を持つ人がいるだろうが、その人達も恋愛関係から友人との間に亀裂が生じた経験を持っているのだろうか。また、そうなった場合、どのようにして関係を改善-もしくは悲しい事だが終わらせたりしたのだろうか。
ポケットに手を突っ込んでぼんやりと二重窓から下界を見ているウーヴェだったが、己が愚にもつかないことを考えている事に気付き、苦笑一つで友人との関係を無意識に終わらせようとしている己を笑い飛ばして顔を上げると、背後のドアから軽快なノックの音が流れてくる。
「どうぞ」
「ハロ、オーヴェ」
そのノックからクリニックの事務全般を任せている彼女だと思っていたが、入ってきた男に笑顔で手を挙げられて軽く目を瞠り、いつもの騒々しいノックはどうしたんだと笑うと軽く口が尖って不満を表す顔になる。
「何だよ、それ」
「いつも騒々しいだろう?」
「そうか?ボスの部屋に入るときも同じノックしてるけど、騒々しいなんて言われねぇって」
それはお前の上司が文句を言うことを最早諦めているからだとは言えずにただ無言で肩を竦めたウーヴェは、拗ねた顔で見つめてくる恋人に目を細めてお疲れ様と言葉に出して労うが、言葉だけでは足りないと青い眼に見つめられて溜息をつく。
「────お疲れ様、リーオ」
「うん」
不機嫌そうにジーンズの尻ポケットに手を突っ込んで立ち尽くすリオンと真正面から向き合い、冬の到来を教えるような冷たい頬を一つ撫でてその手を首筋の後ろへと垂らして輪を作り、頬と同じ冷たさの鼻先と頬、そして唇にキスをすると、ようやく不機嫌さが掻き消えて嬉しそうな顔で頷かれる。
「オーヴェもお疲れ様」
「ああ」
返事のキスを唇で受け止めてコツンと額を触れあわせた二人だったが、ウーヴェの手がリオンの頭に回った事で同時に傷の存在を思い出し、もう痛みも無いとリオンが笑い、その笑顔が本心を伝えている事を読み取ったウーヴェの顔に安堵の笑みが浮かぶ。
「大変だったな」
「あれくらい大丈夫だって。それよりもさ、あの後ボスから30分以上説教を食らった」
「それぐらいで済んでよかったと思え」
それもヒンケルの部下を思う親心だろうと笑うと、そんな親心いらねぇとリオンが拗ねたように口を尖らせるが、何度も入っていた着信履歴からも心配させていたことを今更ながらに思い出し、詫びるつもりでウーヴェの掌にキスをする。
「…土曜日は朝からバザーをするんだったな?」
「へ?ああ、うん。朝早くから準備するってマザーが言ってた」
先程オイゲンに土曜は都合が悪いとウーヴェが告げたのは、リオンが育った孤児院でクリスマスを迎える前に行われるチャリティバザーの手伝いをする為だった。
それを思い出しつつさっき急に決まった予定をリオンに伝えると、この間は俺の入院騒動で流れてしまった飲み会かと問われて微苦笑しつつ頷く。
「んー、じゃあ金曜はホームに戻ろうかな」
ウーヴェの苦笑を受けてリオンが伸びをし、飲みに行くのならば自分は仕事が終わればホームに泊まる、翌朝適当な時間になったら来てくれと告げると、ウーヴェも同意を示すように頷く。
「前はダメだったけどさ、今度はゆっくりして来いよ、オーヴェ」
「ああ。飲むだろうから電車かタクシーで行かないとだめだな」
「何処かの誰かさんは気分が良かったら絶対にワインを飲み過ぎるもんなぁ」
腰を折ってウーヴェの顔を見上げるように笑みを浮かべるリオンをじろりと見下ろし、何処かの誰かさんとは誰の事だろうなと嘯くものの、またまた分かってる癖にと戯けたように返されてしまって軽く口を尖らせたウーヴェは、低い位置にある恋人の鼻をぎゅっと摘んで情けない声を挙げさせて僅かに溜飲を下げるが、心の片隅では友人の頑なな態度に一抹の不安を感じずにはいられないのだった。
金曜の夜、あの日と違って平穏無事に友人宅へと出向いたウーヴェは、当然ながらオイゲンの妻がいるものだと思って彼女の為に今回は小さなケーキと花束を買って持参したのだが、久しぶりに招かれた友人宅に彼女の姿は無かった。
友人の地位と年収を考えれば相応しい大きな家の廊下を進みながら目の前を行く大きくて広い背中に奥さんはどうしたと問いかけるが、肩越しに振り返ったオイゲンが告げたのは、自分たちがここで飲むのだから邪魔をしたくないと言って友人の家に泊まりに行ったという言葉だった。
週末の夜を別々に過ごす事は何処の夫婦にでもあることだろうか、それともこの友人夫婦だけだろうかとオイゲンの言葉に潜む冷めた感情を敏感に察したウーヴェはそれ以上何も問わず、ただ明日彼女が戻ってくれば渡して欲しいとケーキの小箱と花束を差し出した。
通されたリビングはウーヴェの自宅リビングよりも広く、一戸建ての強みか高くて大きな窓からは日中であれば燦々と日差しが降り注ぐような作りになっていた。
その広いリビングの中央にあるソファを指し示されて荷物を置いたウーヴェは、テーブルに並ぶピザやビールを見、学生の頃のようだと自然に笑みを浮かべると、キッチンに何かを取りに行っていたオイゲンが戻りながら首を傾げた為、懐かしいと笑ってコーヒーテーブルを指し示す。
「お前が来るんだ、ピザとビールは必須だろう?」
学生の頃、どちらもあまり金に余裕はなかった為に学生向けのレストランで良くピザとビールを持ち帰って夜通し馬鹿な話で盛り上がっただろうと片目を閉じられてしまい、確かにそうだったと同じ気持ちで頷いたウーヴェは、ソファに座れと合図をされて腰を下ろし、広いリビングに相応しい大型テレビに映し出されている映像に見入ってしまう。
「……アイガーか?」
「ああ。今度登るつもりだからな」
大きな画面に映し出される山の雄姿に心奪われた顔で見つめているウーヴェにオイゲンが苦笑し、山頂の石を必ず持ち帰るから楽しみにしていろと告げてビールの栓を抜くと、その音で我に返ったウーヴェが苦笑しつつ楽しみにしている事を告げてビールを受け取る。
「乾杯」
前回出来なかった分も含めて今日は学生の頃のように飲み明かそうと笑うオイゲンにウーヴェも小さく同意をし、ビンの腹を軽く触れあわせてビールを飲み始めるのだった。
雄大な自然を映し出す画面とコーヒーテーブルに所狭しと並ぶピザやソーセージ、そして欠かすことの出来ないビールとワインのボトルを前に、二人を取り巻く空気はまるで夢へ突き進む日々だった学生の頃のようで、リオンが見れば驚き軽く嫉妬するかも知れない顔でウーヴェも笑ってワインを飲み、その横ではオイゲンがここの所ずっと抱えていた悩みから解放されたような顔でピザを摘んではビールを飲み、テレビに映し出される己が踏破した山々についての解説をしたり、その時に感じた苦労話などを披露し、ウーヴェも興味深く耳を傾けていた。
学生の頃と変わらない空気が満ちている為か、自然とどちらも口が軽くなり、いつの間にか話が山から友人達へと移り変わり、いつもいつも自分たちを騒動に巻き込むカスパルの話になった時、不意にオイゲンの口が動きを止めてしまい、首を傾げたウーヴェが名を呼ぶ寸前に掻き消えた不機嫌そうな表情を素早く読み取ってワイングラスをテーブルに戻す。
カスパルの名前から何事かを連想したのだろうが、その連想はオイゲンにとって不機嫌になってしまう事象のようで、それに思い当たる節のあるウーヴェが問いかけるべきか止めておくべきかを思案していると、己の中で何かを諦めたのかそれとも決意をしたのか、オイゲンが重苦しい溜息を一つ吐いてウーヴェへと身体ごと向き直る。
「なあ、ウーヴェ」
「うん?」
友の真摯な顔に眼鏡の下で目を瞬かせ、一体どうしたんだと驚きの顔でオイゲンを見つめたものの、直感的に思い浮かんだのは先日電話口で告げられた言葉だった。
その言葉を今度は面と向かって言われる恐怖に腰が引けそうになるが、ここで自分が逃げてしまえばリオンという己にとって奇跡のような存在を自ら否定することになる思いからグッと腹に力を込めるが、不思議な程の穏やかさでオイゲンの顔を覗き込む。
「どうした?」
「……何故なんだ?」
「何の事だ?」
自ら解答を提示するのではなく友人の口から直接教えて貰おうと先を促し、何が疑問なんだと目を細めると、何故リオンと付き合っているんだと呟かれて小さく吐息を零す。
「じゃあ逆に聞くが、俺がリオンと付き合っているのはそんなにおかしなことなのか?」
この間電話でお前が捲し立ててしまうほど許せないことなのだろうかと、いつになく冷静な声で問いを発したウーヴェは、お前が同性愛者を差別する男だと思わない、何か理由があるはずだからそれを教えてくれと苦笑する。
「別にゲイやレズを差別するつもりはない」
職場の中にも同性の恋人やパートナーを持つ人は幾人もいるし、その人達と公私に渡る付き合いも何ら問題なく出来ると自嘲し、短く刈った髪に手を宛がうオイゲンの顔から視線を逸らすことなく見つめ続けたウーヴェは、友人が苛立たしそうに舌打ちをし髪を掻きむしった後でソファを一つ殴り、どうしてなんだと呟く横顔に目を細める。
「今まで俺が付き合ってきた人達にそんな態度を取ったことは無かったのに、どうして今回は許せないなどと思うんだ?」
確かに今まで付き合ってきたのは女性ばかりで男と付き合うのはリオンが初めてだが、同性相手であっても友人であるお前は理解を示してくれるだろう思いを素直に告げると、オイゲンが額に手を宛がって唇を嫌な角度に持ち上げる。
「同性だから嫌悪するんじゃないし許せないと思った訳じゃない」
「なら……リオン自身が気に入らないと言うことか?」
同性の恋人への嫌悪でなければリオン自身への嫌悪でしかないと、さすがに語気を強めて身を乗り出すように問えば、あいつはお前に相応しくないと、出来れば友人の口からは聞きたくなかった言葉が流れ出す。
「俺に相応しくない…?」
「ああ。お前にはもっと相応しい相手がいる。何故あんな男なんだ?」
刑事だと言っていたが、あの手の男は刑事になる前にどこで何をしてきたのか分かったものではないと吐き捨てられ、さすがにその言葉に唇を噛み締めたウーヴェだったが、お前にあいつの何が分かるんだと掠れた声で告げ、それでもオイゲンの灰色の目を真っ直ぐに見据える。
そのウーヴェの強い視線を受け、逃れるように目を泳がせるオイゲンは、お前に何が分かるんだともう一度、先程とは違う声で告げられてウーヴェへと視線を向け、そこに悲しみに沈んでいる友の顔を見いだして口を閉ざす。
「あの夜初めて会ったリオンの、一体何が分かると言うんだ…?」
共通の友人であるカスパルもリオンは一見するだけではどんな性格なのかが分からないとウーヴェに告げたが、その彼にしても二度ほど会ったぐらいではリオンの上辺すら理解出来ず、己でさえもまだまだ知らない事が多いほどなのだ。
だが、付き合いだして様々な出来事を二人で乗り越え、その都度互いの裡を知る努力をしてきた自分たちだからこそ、どんなことが起きようとも互いを信じて繋いだ手を離さないで来たのだ。
今まで自分たちが歩んできた道を、その相手を、相応しくないと否定されてしまうことはウーヴェにとって到底受け入れられることではなく、何も知らないお前がどうしてそんなことを言えるんだと重ねて問いかけ、無意識のうちに左足の指を曲げて薬指に定住するリングの冷たさを確かめる。
「どうしてなんだ…?」
先程から何故、どうしてという言葉しか出てこず、己の思考回路が麻痺しつつあることを察したウーヴェは、どんな言葉も返さなくなったオイゲンから思いを引き出そうと更に身を寄せてソファに押しつけられている拳に手を重ねて彼の名を呼ぶが、ゆっくりと肩を揺らして笑い出したオイゲンの様子に眉を顰め、甲高い笑い声がリビングに響いた瞬間、視界が陰ったことに気付いて目を見張る。
「!?」
一体何があったのかを理解するのに時間を要してしまい、己の身体がオイゲンによってソファに押し倒されただけではなく、そのまま押さえつけられているのを理解したのは、初めて見るような顔で肩を揺らしながら笑うオイゲンに見下ろされているのを認識したからだった。
突然ソファに押し倒される理由が分からず、また押さえつけられた肩と腿が痛みを訴えている為に顔を顰めて掠れた声でオイゲンを呼ぶが、押さえつける力は一向に弛むどころか徐々に強くなっていきウーヴェの身体から力が抜け始めてしまう。
「知りたいか?」
「オイゲ…ン、止めてくれ…っ」
話を聞いて欲しいのなら大人しく聞く、だから降りてくれと痛みに掠れる声で頼んでみるとほんの少しだけ肩に掛かっていた力が弛み、ホッと息を吐いた直後に乱暴な手付きでアスコットタイを引き抜かれ、シャツのボタンをいくつかちぎるような強さで胸元をはだけられると同時に首筋に生暖かな何かが触れ、見えない場所でのその感触に耳の奥底、何があっても決して消えることのない複数の男女の声が突如響き渡る。
それは、二十数年もの昔、自分たちの遊ぶ金欲しさの為に幼かったウーヴェを誘拐し、まるで家畜か映画の世界で描かれる奴隷のような扱いをした男女の声で、過去からの声の筈なのに今まさに耳元であの時毎日投げ掛けられていた言葉を聞かされたように鮮明に響き、オイゲンの肩越しに天井を見上げながら目を瞠る。
思い出せと、お前は生まれてきてはいけない子どもだったことを思い出せと囁かれ、その声に囚われてしまったウーヴェの喉が掠れて震えるか細い声を流し始める。
「…………ァ……っ…」
ウーヴェの変調に気付かず、ただ抑えきれない本能の赴くままにウーヴェの首筋に顔を埋め、学生時代から常に心の何処かで思い続け、頭の片隅で夢見続けていたウーヴェの身体を組み敷いている暗い現実に目眩すら覚えそうなオイゲンだったが、顔を寄せている喉元から響いてくるか細い吐息に混ざる声に気付くが、それに混ざる名前を耳にした瞬間、視界が真っ赤に染まって何も考えることが出来なくなってしまう。
過去の声に囚われて身体を硬直させたウーヴェだったが、抗いがたい過去に唯一対抗できるものを無意識に探し、それを思い出した脳味噌が思い浮かぶ笑顔と名前を呼ぶことでこれ以上引き戻されない為の行動は、総ての思いが凝縮されたリオンという一言になって現れる。
恋人の名を呼ぶことで過去に囚われつつある心をしっかりと呼び戻そうと、閉じ込めていた遺物が姿を見せるのを遮ろうと神経を集中していたウーヴェだったが、過去への扉でもある首筋に掛かる荒い息や濡れた感触や恋人とは全く違う温もりに撫でられてしまうと、本当は今生きている世界は狂ってしまった脳味噌が見せている幻影なのではないかという疑問がむくむくと沸き起こり、同時に恋人の名前がもたらしてくれる強さや勇気が一瞬にして掻き消えてしまう。
感情を喪ったあの日々、嘲笑と憎悪の声が責めていたように、己は本当は生まれてきてはいけなかったのだ。生まれてくるべきではない子どもなのだから、生まれてしまった今は何をされたとしても文句など言えないし言う資格などなく、こうして今、友人-疑うことなく長い間そうだと思っていた-に押さえつけられ、身体を撫で回されていることも受け入れなければならないのだ。
生まれてきたことを許してもらうためには、己の身に降りかかるすべてのものを何も考えずにただ受け入れ、逆らってはいけないのだ。
あの事件の最中に暴力と嘲笑とでもって作り上げ植え付けられた思考回路が、事件後長い時間を掛けて復旧したものに取って代わると同時にウーヴェの全身から力が抜け、それを伝えるようにターコイズ色の虹彩から表情が徐々に消えてしまうが、ウーヴェが抵抗をしなくなった事には気付いてもその心が壊れる寸前である事には気付かないオイゲンが、どうしてリオンを許せないのか教えてやると囁き、動かなくなったウーヴェの首に熱の籠もった息を吹き掛けるのだった。
天気予報では雨が降るとは言っていなかったが、窓の外はいつの間にか音が響くほどの雨が降っていて、バザーの打ち合わせに出かけていたゾフィーとブラザー・アーベルが戻ってきた時にはずぶ濡れになるほどだった。
絞れるほど雨を吸い込んだ服を脱いで寒さに身体を震わせるゾフィーとブラザー・アーベルにバスタオルを投げ渡したのは、今夜はウーヴェが友人と飲みに行っている為に仕事が終わって直接孤児院に帰ってきていたリオンだった。
「早く拭けよ、二人とも」
風邪を引いても知らないぞと笑ってタオルを手渡し、マザーに頼んで温かい飲み物を用意してもらうとも告げると、冬の始まりを告げる冷たい雨に濡れた二人が生き返った人間のように顔を安堵に染める。
「バザーの打ち合わせは終わったか?」
「もちろんよ。いつもいい顔をしなかったビルギッタも今回は文句はないって」
隣の部屋で着替えながらリオンの問いに答えたゾフィーは、明日のバザーが成功すれば今年のクリスマスに子ども達へ沢山のプレゼントを買える期待に満ちた声で更に返し、今年のクリスマスはどうするのと逆にリオンに問い掛ける。
「あー?多分オーヴェと家でだらだらしてるんじゃねぇの?」
どちらも誕生日がクリスマスイブだが、ウーヴェの事情-もはやそれは信条にすらなっている-からクリスマスや誕生日は祝わないのだ。
だから今年も多分家でゲームでもしている事を肩を竦めながら返したリオンは、ブラザー・アーベルが苦笑しつつ誘ってくれる言葉にも無言で肩を竦め、オーヴェが嫌だと言うのを無理強い出来ないと返し、マザー・カタリーナが用意してくれている温かな飲み物が何であるのかを確かめるためにキッチンへと向かうと、室内には心を和ませてくれる甘い匂いが漂っていた。
「ココア?」
「あなたも飲みますか?」
「もちろん!!」
マザー・カタリーナが振り返りながら笑顔で問い掛ければその背中に飛びつく勢いでリオンが駆け寄り、小さな彼女の身体を覆うようにハグする。
「リオン、危ないですよ」
「美味そう…!」
子どもの頃から全く変わることのない様子に彼女もやや呆れた顔をしていたが、ゾフィーとブラザー・アーベルがキッチンに来る頃にはいつもの穏やかな笑みを湛えた顔でリオンにマグカップを人数分出させていた。
「マザー、ビルギッタが今回はすんなり賛成してくれたわ」
「それは良かった。二人とも、ご苦労様でした」
テーブルに並べたカップに均等にココアを注いだ彼女は、ミルクパンをコンロに戻して椅子を引くと、他の三人がほぼ同時に同じように椅子に腰を下ろす。
その時、キッチンの小窓の外が白昼のように明るくなり、驚いて一斉に窓の外を見た直後、孤児院の壁や床まで小刻みに震える程の雷鳴が響き渡る。
「近くに落ちたのかしら?」
「すげー近くだったな……子ども達は大丈夫か?」
ゾフィーがさすがに驚いた顔で呟きながらもう一度窓の外を見れば、孤児院で寝る支度をしている子ども達は平気かとリオンが問いかけ、それに答えるように彼女が立ち上がる。
「ゾフィー、お願いしますね」
「はい。リオン、私のココア残しておきなさいよ!飲んだら許さないわよ!」
「飲まねぇから早く行けよ」
「あんたに言われなくても行くわよ」
子どもの頃から毎日いつ何時でも繰り広げられていた姉弟の口論を今も繰り広げ、それを見守り続けてきたマザー・カタリーナやブラザー・アーベルが仕方がないと言いたげな顔で溜息を吐き、拗ねたように顔を背けながらもココアのカップを手放さないリオンにどちらからともなく顔を見合わせて苦笑する。
「すげー雨も降ってる。オーヴェ帰り大丈夫かな」
「今日はお友達と会ってると言ってましたね」
「うん。ギムナジウムの頃からのツレで、市内にあるでっかい私立病院の経営者の娘婿だって」
「やはり、ヘル・バルツァーの周りには医者が多いのかい、リオン?」
「んー、俺が知ってる友人の大半は医者かな。でもデザイナーもいたり料理人もいたりするから、まあ学生の頃からの付き合いって事じゃないのか?」
もっとも、自分のようにロクでもないと称されかねない友人の影など見た事がないと肩を竦めてもう一度窓の外へと視線を向けたリオンは、自宅に着いたら連絡をくれるだろうかと、まるで恋人と付き合いだした頃のようなドキドキした気持ちになってしまい、それを苦笑混じりに伝えるとマザー・カタリーナの柔和な目元に更に温かみが増す。
「彼ならば必ずくれるでしょう」
「そうだな。明日のバザーも手伝ってくれるって言ってたし。明日は一日一緒にいられるな」
久しぶりのデートだデートと不気味に目を細めるリオンの横顔に今回はさすがに何とも言えなかった彼女は、同じ気持ちになっているらしいブラザー・アーベルに目で合図を送り、本当に仕方がないと幼い子供のいたずらを発見した母の顔で頷くと、その横顔が小窓から入り込む稲光に白く照らし出される。
「嵐みてぇだな」
「そうですね……アーベル、ゾフィー一人だと心配なので、見てきて下さいますか?」
「はい。ああ、リオン、明日のバザーだけれど、ゼンメルとカリーヴルスト売りだとどちらが良い?」
「げー。目の前に好物があるのに食えねぇなんて拷問だ!どっちもイヤだ!!」
「そうか…じゃあヘル・バルツァーにお願いするか」
「オーヴェに売らせるなら俺がする!!」
ブラザー・アーベルの言葉にテーブルに手をついて立ち上がったリオンは、ウーヴェにゼンメルを売る係をお願いしようと言われて咄嗟に自分がすると宣言し、マザー・カタリーナがくすくす笑いながらお願いしますと告げた為、ブラザー・アーベルの策略に引っ掛かってしまった事に気付いて悔しそうに舌打ちをする。
「早く行けよ、アーベル!」
「明日は頼んだよ」
ひらひらと手を降る彼に中指を突き立てて見送ったリオンは、マザー・カタリーナの咳払いで己の言動を振り返り、肩を落として椅子に座り込む。
「────ウーヴェがお友達の家から帰る頃に雨が止んでいれば良いですね」
「うん」
こんなに冷たい雨に降られて濡れそぼつウーヴェを想像するだけで胸が痛み、連絡があれば迎えに行こうかと暢気な声を挙げるものの、自分には車ではなく自転車しか無い事を思い出して額をテーブルにぶつける。
今夜はオイゲンの家で学生の頃のように飲み明かすかも知れないと教えられ、一も二もなく賛成と手を挙げたリオンだったが、ウーヴェの声が飲み明かす楽しさよりも何か悩みを抱えている躊躇いの方が強く出ていて、楽しみにしている筈なのに何かあったのだろうかと思案するが、当然ながらリオンにはウーヴェがその時悩んでいた事など分かるはずもなく、仕事で難しい事でもあったのだろうと結論づける。
「どうしたのですか?」
「うん……何か引っ掛かるんだよなぁ…」
「リオン?」
己が携帯を通して耳にした声から感じ取った違和感が、まるで喉の奥に引っ掛かってしまったパン屑のような気持ち悪さを伝えてきて、明日ウーヴェが来た時に詳しく聞き出そうと決めてココアのカップを顔の傍に引き寄せる。
「ま、ギムナジウムからのダチなんだ、楽しく飲んでるだろうな」
「そうですね」
「マザー、明日は何時に起きれば良い?」
「時間になればゾフィーに起こして貰いますよ」
「げー。マザーが良いっ」
ゾフィーに起こされたら文字通りたたき起こされるからイヤだと眉尻を下げたリオンに苦笑し、分かっていますと頷いたマザー・カタリーナは、雷に驚いて泣き出した子ども達を何とか宥めて落ち着かせてきたゾフィーと、その彼女の手伝いの為に出ていたブラザー・アーベルが戻ってきたため、心からの労いの言葉とマグカップのココアを温め直して二人に差し出すのだった。
窓の外では先程の言葉通り、嵐のように雨が降り時折激しい雷鳴が轟いているのだった。
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