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その日、浮かれた気分を軽い足取りで表現しながら出勤したリオンは、刑事部屋に入った直後に伸びてきた腕にヘッドロックをされてしまい、青い眼を見開いて悲鳴を上げる。
「ぃてててて!」
「なぁにを浮かれてるんだよ、てめぇ!」
その声から誰がヘッドロックをしてきたのかを察し、締め上げられる痛みに顔を顰めながら勢いよく前屈みになると同時に腕と腰を跳ね上げ、半ば乗りかかっていた身体を前方へとはね飛ばす。
「うわっ!」
「朝っぱらから何するんだよ、ジル!」
くそったれ、せっかくのご機嫌な気分が吹っ飛んでしまっただろうと吼え、辛うじて受け身を取った同僚を睨み付ければ、庁内一を自負する男前がにやりとほくそ笑む。
「そうかそうか。そんなにご機嫌だったのか」
「あぁ?」
自他共に認める男前の同僚、ジルベルトが何かとリオンに対して絡んでくる事は今までも良くある事だったし、また絡んできたとしても仕事上ではペアを組んで行動することも多く、仕事を離れても時々飲みに行ったりもする関係でもあった。
だから遠慮することなく顔を顰めて何を言いたいんだと睨めば、浮かれているから沈めてやろうと思ったと返され、瞬きを繰り返した後で冗談じゃねぇと舌を出して中指を突き立てる。
「人が幸せだからってやっかむんじゃねぇよ、男前」
「・・・・・・男前だけは認めよう」
誰も嫉妬してもいないし僻んでもいないと目を細めるジルベルトをリオンが鼻先で笑い飛ばすと、二人の間に見えない火花が散り始める。
「朝っぱらから鬱陶しいぞ、お前ら」
朝一番の最も美味いと思われるコーヒーを不味そうな顔で飲んでいたコニーがぼそぼそと呟き、横で見ていたマクシミリアンもうんざりした顔で二人に溜息を吐きかける。
そんな刑事部屋のいつもの朝の景色だったが、ヒンケルがいつにも増して険しい顔でやって来たかと思うと、見えない火花を散らす二人の間に割って入り、くるりと振り返って腕を組む。
「お前ら、ここは高校でも無ければ幼稚園でも無いんだぞ」
分かっているのかと睨まれ肩を竦めた二人が顔を離した後、互いの脇腹に拳を軽くぶつけ合って和解の合図とすると、それを見届けたヒンケルが溜息を吐き、最近めっきりと薄くなってきた頭髪を惜しむように頭に手を当てて苛立たしそうに舌打ちをする。
「ボス?」
朝からそんなにも不機嫌な顔をされてしまうと笑っていた子どもでさえも泣き出すとリオンが心底心配そうに問い掛けると、ジルベルトが小さく吹き出してしまう。
そんなジルベルトの頭に拳を押しつけたヒンケルが溜息混じりに来客だとリオンに告げるが、その言葉を聞かされた本人はまさか自分に対してのものだとは思わなかったようで、きょろきょろと周囲を見回してお客さんだってーと暢気な声を挙げる。
「お前にだ、リオン」
「は?俺?」
警察に就職して刑事になってから何年か経つが、仕事中に来客だというのはマザー・カタリーナ以外に経験した事はなく、マザーがここに来るような悪事をしただろうかと長年の己の行いの悪さから不安に顔を顰めるが、ヒンケルが己の部屋に来いと顎をしゃくったために更に不安が増してしまう。
「ジルが行けよ」
「お前の客に俺が行ってどうするんだよ」
さっさと行ってこいとジルベルトに尻を叩かれて渋々ヒンケルの後に付いていったリオンだが、執務室には当然誰もおらず、客なんて何処にいるんだよーといつものように丸椅子に陣取ってくるくると回転し始める。
その回転が10回近くを数えた頃、ドアが開く音が聞こえた為にリオンが長い足を使って回転を止めてそちらを見るが、ヒンケルが奇妙な表情を浮かべつつ立ち上がった為に釣られてリオンも立ち上がり、威風堂々という言葉が相応しい足取りで入ってきた体格の良い初老の男を見つめる。
リオンは直近の身長測定で190cmまであと少しと涙を飲んだのだが、入ってきた男はそのリオンとさほど身長差がなく、横幅も仕事で鍛えているリオンよりも立派に見える程で、立ち上がったヒンケルなどはその男性の肩ぐらいにしか届かない程だった。
「忙しいところをすまんな、警部」
「いいえ。直接こちらにお越しにならなくともそちらに伺いましたが・・・」
リオンに椅子を出させたヒンケルが彼と同時に腰掛けた為、リオンは二人の間に位置するデスクの脇に立って腰の上で手を組むが、その手の親指をくるくると回転させていた。
威風堂々としか言いようのないその風貌や態度に、自分などまだまだ青いどころか尻に殻を張り付かせてよちよち歩きを始めたばかりの雛にしか過ぎないと自嘲してしまいたくなると同時に、こんな風格を漂わせる人間に未だかつて出会った事のない為に興味を抱き、いつもの癖で指を回転させながら一体どんな来歴の人物であるのかを探り始める。
さっぱりと短く刈られている髪は経年の変化はあるが、恐らくは見事なブロンドだった事を窺わせるが、少しだけ濃い色の口ひげも毎朝手入れをしているのか、丁寧に整えられている。
無精髭を生やしたとしてもきっと似合うと思われる風貌だが、男へと視線を惹き付ける最大のものは、青年のような煌めきを未だに宿している二つの瞳だった。
己が見知っているターコイズの双眸を彷彿とさせる碧の瞳はいつも好奇心に満ちている、そんな雰囲気を漂わせながらも落ち着いた視線をヒンケルに向けているが、視界の端ではリオンの様子を窺っていそうだった。
出された椅子にゆったりと腰掛けて足を組んで肘置きに手を置き頬杖を付く姿は威厳があり、無駄に威張り散らしている訳ではないのに近寄りがたい雰囲気が漂っていたが、この男の喜ぶ顔を見てみたい、そんな想像をさせる雰囲気も同時に持っていた。
もしも己のボスがこの男であれば、仕事で失敗をしてしまえば恐ろしい鉄拳制裁を食らうだろうが、成功すれば最上の喜びだと言うように誉めてくれるのではないのか。
仕事に対するモチベーションを自然と上げさせるような表情を隠し持っている気がすると、彼の家族が聞けば舌を巻くような観察眼を発揮するリオンの前では、リオンに観察されている事を知らない男が整えられた口ひげを撫で付けた後、ヒンケルとはまた違う厳つい顔に太い笑みを浮かべてゆったりと足を組み替える。
「警部の部下を借りるんだ、こちらから出向くべきだろう」
仕立ての良いジャケットをラフに着こなし履いている靴もカジュアルに見えるが、間違いなく名の通ったブランドが出しているものだと予測を付けたリオンは、己の顔に視線が注がれている事に気付いて瞬きをし、ヒンケルと男の顔を交互に見つめる。
「・・・その件ですが、警護となれば適任の者がおります。そちらを紹介しますよ」
「それでは駄目なんだよ、警部」
どうしてもこちらの意向を汲んで貰いたいと、ごく自然な押しの強さで言い放ち、そうだろうと何故か己に同意を求めた男に咄嗟に返事が出来なかったリオンは、見上げてくる視線の強さとその双眸が何処かで見たような錯覚を抱いてしまう。
いつか何処かで見た事のある目と、その目をより印象づける強い視線だと気付き、何処で見たか思い出せと脳裏で叫んだ時、ヒンケルが呼んだ固有名詞に呆然と目を瞠る。
「バルツァー会長」
ヒンケルが珍しく相手の押しの強さに辟易している様を感じ取ったリオンには上司の驚愕よりも聞かされた名前がもたらした衝撃の方がより大きかったのか、ただ呆然と椅子で足を組む男を見下ろしてしまう。
バルツァーという固有名詞はメディアを通じて見聞きした事があるが、それよりも何よりも、毎日のようにその名前に接する機会があった。
それは今日の朝、もう少し落ち着いて食べればどうだと苦笑混じりに告げる、己の恋人の名前でもあった。
会長と呼ばれる言うことは、この大人物の風格を漂わせる男が己の恋人の父であると気付き、ここが何処であるのかを忘れた脳味噌が悲鳴を放ち、堪えきれずに口から絶叫となって流れ出す。
「オーヴェの親父さん!?」
「・・・・・・よろしくと言えば良いかね、リオン・フーベルト・ケーニヒ刑事?」
「っ・・・!!」
もう一度足を組み替えて見上げてくる双眸を真正面から見つめるが、茫然自失から立ち直ると同時に礼をし、失礼しましたと詫びの言葉を告げると、ヒンケルにも失礼しましたと告げて部屋から出て行こうとする。
それが礼を失した事を詫びるフリをしただけの逃走だと気付いたヒンケルが立ち上がってリオンを呼び止めるが、一刻も早くこの場を立ち去りたかったリオンは足を止めることはなかった。
「リオンっ!」
大股で歩き出すリオンに目を吊り上げたヒンケルの前に大きな壁が立ちはだかったかと思うと、リオンの襟首を無造作に掴んで腕を引いた為、リオンが背中から引き倒されて床の上を転がってしまう。
「ぃてぇ!!」
「何処に行くんだね、ケーニヒ刑事?」
「・・・ぃえ・・・その・・・っ」
背中を強かに打ち付けた痛みに顔を顰めたリオンを見下ろした男、レオポルド・ウルリッヒ・バルツァーがにやりと笑って碧の目を細めたかと思うと、今度は腕を掴んで造作なく引き起こす。
ドイツ国内でも有数の大企業の会長のはずだが、一体何をすれば大柄の己を引きずり起こす力が出せるんだと舌を巻きつつ立ち上がり、失礼しましたともう一度礼をすると、鷹揚に頷いた彼が再度椅子に腰掛けた為、リオンも丸椅子に腰掛けて溜息を零す。
「おお、そうだ。きみに会うことがあれば聞きたいことがあったのを思い出した」
奇妙な沈黙が流れる室内の空気にリオンが眉を寄せた頃、レオポルドが拳を掌に打ち付けて尊大な様子で椅子の背もたれにもたれ掛かり、頬杖を付いてリオンを斜めに見つめる。
例え相手が大統領であろうと首相であろうとも尊大さを丸出しにした顔で見られる事に対しては無条件で反抗してしまうリオンがその反抗心を目の中に浮かべ、口元には笑みすら湛えて何ですかと目を細めると、恋人とはまた違うが良く似た碧の目が細められる。
「─────良い面構えだな。うちに欲しいぐらいだ」
「は?」
「お前は今、私の息子を何と呼んだ?」
リオンの表情に目を細めながら口ひげを撫でたレオポルドは、太い腕を組んで足を組み替えた後、つい先程お前が叫んだ名前の事だと顎を上げて先を促せば、何かに気付いたリオンがまるで目の前に恋人がいるかのように情だけを浮かべてオーヴェと呼べば、レオポルドのごつごつとした太い節の目立つ指が突き付けられる。
「私の息子はウーヴェだが、お前はオーヴェと呼んでいるのか?」
「へ?ああ、まあそうですね。そう言う約束ですし」
「約束?」
「ja.付き合って初めての誕生日の時に約束したんですよ。オーヴェって呼ぶって」
それ以来の約束事だが、今ではその名前は二人が過ごしてきた喜怒哀楽の総てが包まれている大切なものだと少しだけ表情を柔らかくするが、伏し目がちだった瞼を上げて恋人の父を見たリオンはにやりと唇の端を持ち上げる。
「この間、アリーセが来た時にも約束をしました」
例え誰の前であってもお前をオーヴェと呼ばせて欲しいと告げると許してくれた事を告白し、だから自分は誰の前であってもそう呼ぶと告げた夜のことを思い出しながら肩を竦めると、レオポルドが無表情に目を細めてリオンを見る。
「・・・会長、こんな風に素直にヤーとは言いいませんが、それでも良いのですか?」
二人のやり取りを沈黙でもって見守っていたヒンケルが口を開いて再考を促すが、その声に首を左右に振った後レオポルドが満足そうな溜息を一つ零す。
「ああ。全くもって問題はないな─────しばらくの間、私の護衛を頼みたい」
「は?護衛?」
「そうだ。この間物騒なものが会社に届いた」
これがその物騒なものだと笑いながらジャケットから封筒を取りだしてリオンに手渡し、中身を読み進める顔がみるみるうちに真剣なものへと変化を果たした事に満足そうな色を一瞬だけ浮かべると、ヒンケルにも見せてくれと顎で指し示す。
その脅迫状に書かれているのは、来月の金曜の午後に行われる会社の記念式典での襲撃予告とも言える文面だった。
「・・・テロ?」
「会社が統合した祝いのパーティだが、内々のものだから出席者もそれほど多くはない」
だから護衛を頼み、もしもの事態に備えたいと太い笑みを浮かべる恋人の父を見つめ、バルツァーほどの企業ならばシークレットサービスがいるはずだろうと苦笑すれば、そのサービスは社長に張り付いて貰っているとさらりと返されて目を丸くする。
「社長・・・?」
「ああ。私の息子でウーヴェの兄であるギュンター・ノルベルトだ」
すっかり大きくなってしまったが、今でもバルツァーの屋台骨である会社の社長であり、グループ全体の取締役を兼任している事を告げられ、己の想像が及ばない遠い世界の住人を見るように見つめてしまうリオンだったが、己の恋人はその遠い世界に暮らす家族を持っているのだと気付いて複雑な表情を浮かべてしまう。
ウーヴェに家族がいるが不仲である事はそれなりに知っていたが、自分が家族という存在から遠い場所にいるからか、恋人の家族と言われてもピンと来なかったのだ。
だからマスメディアを通じてバルツァーという名前を見聞きしても特に感慨を抱くこともなかったが、政治経済に疎い自分ですら知っているグループ企業の社長が恋人の兄である事を今更ながらに思い知らされてしまい、その感情をどう整理すればいいのかが分からなかったリオンは、手にした脅迫状をヒンケルに差し出してやるせない溜息を零す。
「・・・護衛の期間は?」
「そうだな。パーティの当日を入れて3日間」
是非頼みたいと告げた後に無骨な大きな手を差し出してきた為、パチパチと瞬きを繰り返したリオンが何故か芽生えた負けず嫌いの心からその手をしっかりと握りしめるが、その時、レオポルドの体温が当然掌を通してリオンに伝わり、言葉に出来ない何かも伝わったような気がして軽く驚いてしまうのを何とか堪え、平静さを装って目を細める。
「了解しました」
「当日の朝にまた連絡をしよう。────警部、よろしく頼むよ」
「・・・分かりました」
ヒンケルの間を置いた回答にリオンが少しだけ目を細めるが言葉に出しては何も言わず、いつまで握手をしているつもりだろうかと今度はレオポルドの顔を見つめる。
「プライベートな話だが、構わないか?」
「へ?あ、はい、どうぞ」
一体何事だと首を傾げるリオンの前ではレオポルドがようやく離した己の掌を興味深そうに見つめた後、無骨な指で己の首筋を軽く突く。
「俺の息子以外に誰か付き合っているのならば、今すぐ別れろ」
「へ!?」
なんだそりゃと目を剥くリオンに顎を上げて耳の後ろのキスマークを付けたのは誰だか知らないが、二股を掛けているような奴は許さんと言い放たれて更に絶句したリオンは、それを付けられた状況を思い出してしまって顔がにやけるのを押し止める事が出来なくなってしまい、レオポルドの顔を不愉快に歪めさせてしまう。
「いきなり笑い出すな」
「や、これを付けたのはオーヴェだから、別れるも何も無いなぁって・・・」
だから残念ですが、あんたの息子と別れるつもりは毛頭無いし、別れろと言われたところで無理な話だ。
きっぱりと断言したリオンにヒンケルが目を剥いて腰を浮かせ、宣戦布告をされてしまったレオポルドは暫くの間口ひげを指で撫で付けていたが、面白くもなさそうな顔で立ち上がり、リオンのくすんだ金髪を大きな掌でぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「・・・・・・!!」
まるで子供にするように頭を撫でられてしまい、止めてくれと悲鳴を上げるリオンにレオポルドがお前以外の刑事が来れば即刻追い返すと告げると、入ってきた時同様威風堂々という言葉が相応しい態度で出て行くのだった。
部屋を出て行った広い背中を見送ったリオンは、ヒンケルが深々と溜息を吐いて椅子を軋ませた事に気付き、先程まで座って回っていた丸椅子に腰を下ろして乱された髪を手櫛で整え、一体何だったんだと呟きながら手を組んで親指を回転させはじめる。
「ボス、本当に俺があの人の護衛をするんですか?」
「・・・お前以外が来れば追い返すと言っていただろうが」
「俺よりもマックスやコニーの方が得意なのになぁ」
自分で認めるのも癪だが、要人警護などの神経を使う仕事は几帳面なマクシミリアンやコニーらの方が自分よりも向いている事を伝えたリオンにヒンケルがその通りだと断言するが、何しろ先方があの態度なのだから仕方がないと肩を竦め、こうなれば腹を括ってお前に出向いて貰うと言いつつデスクの引き出しを開ける。
「あ、またチョコを食おうとしてる」
独り占めするのならば奥さんに言いつけてやるし、お裾分けをくれたとしてもメールでたれ込んでやると睨むリオンをヒンケルが睨み返し、お前のせいで胃薬の世話になっているんだと憎まれ口を叩くと同時に脅迫状の入った封筒をデスクの上を滑らせる。
「自作自演と言う事はないだろうが・・・」
「テロの狂言をして何の得になるんです、ボス」
欧州圏だけではなく最近ではアジア圏にも進出し始めているドイツ国内でも有数の超優良企業が何故今この時期を狙ってそんな狂言を仕組むんだと肩を竦めて封筒を矯めつ眇めつしつつ立ち上がり、同僚達が興味深げに見守っている刑事部屋に戻る為にドアを開ける。
「リオン」
「何っすか?」
「・・・パーティだぞ、分かっているな」
「へ?」
「・・・お前、ドレスコードを分かっているのか?」
リオンの手の中の封筒を見つめながら溜息を零すヒンケルに小首を傾げたリオンだったが、ドレスコードと聞かされて一瞬だけ驚愕に目を瞠るが、次いでにたりと不気味な笑みを浮かべて同じく不気味な笑い声も流し出す。
「ふっふっふ。今日仕事が終わったらオーヴェにスーツを選んで貰う予定だから、問題ない!」
「は?」
「オーヴェと一緒に来月にパーティーに出る事になったんです」
楽しみだなぁと、己の仕事に関わるパーティーよりも恋人と一緒に出席するそれに気を取られている顔で中空を見つめて不気味に笑う己の部下にヒンケルは何も声を掛けることが出来ず、さっさと仕事に戻れと手を振って追い払ってしまうのだった。
その日は見事なほど平和に一日が終わり、帰宅前のロッカールームでコニーやマクシミリアンとベンチで喋っていたリオンは、今朝の来客が有名企業の会長であり、己の恋人の父親である事を見抜いていた二人に何の話だったと詰め寄られてしまう。
「会社の記念パーティがあるから、その時にボディガードをしてくれってさ」
国内有数の大企業の会長が狙われたのだ、たかが一地方警察署の刑事に依頼するのではなく、いっそのことGSGにでも依頼しろと苦く笑ったリオンに同僚二名が顔を見合わせてそれもそうだとしきりに頷く。
「裏がありそうだな」
リオンがぶつぶつと呟きながら天井を仰いだ時、遅れてやってきたジルベルトがリオンの額をぺちっと叩きながら己の考えを披露すると、またまた二名が大仰に頷いて腕を組む。
「裏?」
「ああ。この間は姉で今回は親父さんなんじゃねえのか?」
ジルベルトの言葉にコニーが掌に拳を打ち付け、マクシミリアンも納得したように頷くと、リオンが盛大に顔を顰めて止めてくれと手を振る。
「冗談じゃねぇ。アリーセの時でも大騒ぎだったんだぜ?」
姉が不意打ちのようにやってきただけでも二人にとっては大騒動になったのに、それが今度は父親だとすればと考えただけでもぞっとすると肩を竦め、いくら何でもそんな公私混同はしないだろうとも呟くと、他の三名がそれもそうかと納得をしてくれるが、ふと気になったことを声に出すと、マクシミリアンが首を傾げて疑問に答えてくれる。
「バルツァーの屋台骨って何だ?」
「屋台骨・・・?」
「親父さんがそう言ってたんだけどな、まさかいきなり大企業になった訳じゃねぇよな?中心の会社って何か知ってるか?」
「確か鉄鋼か重機関係の小さな企業だったと思うが、会長が若い頃に親から受け継いだ小さな会社を大きくしたそうだ」
「へぇ・・・教科書に載ってもおかしくない人間って事か?」
文字通りの立身出世を果たした人物かと冷笑し、勉強に熱心に取り組んだ訳ではないリオンの言葉に苦笑したマクシミリアンが拳を口元に宛がい、その通りだろうと頷いて確か世界的な大企業500社の中にも入っていたはずだとも告げると、己のロッカーを開けて着替えを済ませる。
「グループ全体で様々な業種に手を伸ばしているが、バルツァーの根幹は会長が受け継いだ家族経営の会社である事は間違いないだろうな」
だから中核となる会社の株はその大半を会長の家族がそれぞれ保有しているはずだとマクシミリアンの言葉を受け継いだコニーが説明をし、確かに日常生活に不可欠なものから知る人ぞ知る部品にまでバルツァーの名前は刻まれている事を思い出したリオンは、今朝己の前に現れたレオポルドを脳裏に思い浮かべ、あの会長だからこそ一代で大企業に成長させる事が出来たのだろうと苦笑する。
たった一代で小さな小さな家族経営の会社を巨大なグループ企業へと成長させた稀代の実業家が己の恋人の実父である現実を突きつけられてしまい、彼の姉がやってきた時に考えないようにしようとした決意が崩れ去ってしまいそうになる。
いくら家族が不仲だとはいえ、もしも彼が父や兄が働くバルツァーの本社に顔を出せば、間違いなく重役クラスが仕事を放り出してでも出迎えるような身分なのだ。
ああ、やはり遠い世界の住人なんだとぼんやりと考えたその時、恋人の寂しさと悔しさが入り交じったような声が脳裏に蘇る。
俺の後ろを見ないでくれ、あの夜その言葉を告げて唇を噛み締めたウーヴェの横顔を思い出したリオンは、その言葉の意味をようやく実感してやるせない溜息を零すが、後ろを見ないと決めた事も思い出して顔を上げる。
「・・・オーヴェってホントに御曹司だったんだなぁ」
「今更何を言ってるんだ、お前は」
「疎いのにも程があるぞ、リオン」
「・・・お前の頭にはサッカーしか詰まってねぇのかよ」
三人三様の言葉に対し項垂れた後知らないものは知らないんだと開き直り、その後それだけではなく美味いビールとインビスも入っていると胸を張ったリオンだが、ジルベルトに諦め混じりの溜息を吐きかけられて口を尖らせ、仕方がないと肩を竦めてジルベルトの腹に拳を押し当てる。
「ま、親父さんが何を考えているのかは知らないけど、仕事だしな」
「そうだな・・・ただドクは会長や社長と不仲なんだろう?大丈夫なのか?」
自分が嫌っている家族の護衛をお前がすることに対して口を挟んでこないのかと、いつもならばする事のない方法で心配をするコニーに目を瞠ったリオンは、オーヴェはそんなガキじゃないだろうと肩を竦め、とにかく今夜会うから話をするとも告げて立ち上がり、今朝の浮かれ気分を彷彿とさせる足取りでロッカールームを出て行くのだった。
そんなリオンの背中を見送った同僚達は、それぞれ互いの顔に似たり寄ったりの不安を見いだすが口に出すことはせずに職場を出る準備をするのだった。