太陽が顔を出している間はすっかり春めいていたが、やはり日が沈めばまだまだ寒さが厳しくて、ブルゾンの襟を合わせてグリューワインの湯気を顎に受けていたリオンは、待ち合わせている恋人が愛車でやって来た事に気付いて片手を上げて白い息を吐く。
「オーヴェ!」
車から降りたってゆったりと歩いてくる姿に目を細め、今日も一日お疲れさまと声を掛けるが、さすがに自宅では無いためにお返しのキスは無かった。
キスを待ちわびていた頬が寒いと口を尖らせるリオンに少しだけ我慢しろと目を細めたウーヴェは、リオンのグリューワインを一口飲んで身体の内側を温め、それを飲んだらスーツを見に行こうと口元に笑みを浮かべて頬杖を付く。
「あ、そうだ。オーヴェ、会社の記念式典のドレスコードって何だ?」
「記念式典?」
「そう。今度さ、記念式典で護衛をしなきゃならなくなったんだよ」
今日の出来事を思い浮かべつつ問い掛けるリオンだったが、護衛対象がウーヴェの父であるとはこの時はまだ言い出せなかった。
それはコニーが心配したように、不仲である父を護衛する事実を知れば妙な事態にならないかと言う不安からではなく、己を見事なまでに子ども扱いする、またそうするだけの風格を持つ男に簡単にあしらわれた事への反抗心からだったが、脅迫状という名の招待状にはドレスコードなど記載されていなかったと肩を竦めると、さすがにウーヴェも事態の把握が出来ないのかターコイズをまん丸にし、何だそれはと次いで苦笑する。
「うん。脅迫状が届いたから護衛をして欲しいって」
「ふぅん」
彼方此方でテロだの何だのがあるが、物騒だなと呟いてもう一口リオンのグリューワインを飲んだウーヴェは、警察で支給されないのかと問い掛けてリオンの目を丸くさせてしまう。
「自分で買わなければならないのか?」
「経費で落ちるかなぁ」
それを聞くのを忘れていたと悔しがるリオンに苦笑を深め、もしも職場で用意出来るのならばヒンケルや同僚に聞いてドレスコードを確認しろと告げるが、前言を翻すようにこれから買いに行こうと笑みの質を切り替える。
「へ?」
「先生の就任祝いのパーティのドレスコードはブラックタイではなかったが、タキシード着用だぞ」
「マジで!?」
仕事で出席せざるを得ない式典のドレスコードについては明日確認しようと決めるが、自分たちが出席するアイヒェンドルフ教授の就任祝いのパーティではタキシードの着用を知らされて絶句したリオンは、そんなもの持ってねぇと頭を抱え込んで鼻を啜る。
折角ウーヴェが同級生に自分を紹介してくれる絶好の機会なのに、タキシードを持っていない為にパーティで肩身の狭い思いをしなければならないのか。
その考えに深く沈み込んだリオンの頭に優しい何かが触れた為、顔を上げれば頬杖を付いたウーヴェが綺麗な顔で笑みを浮かべていた。
「オーヴェ?」
「これから見に行くんだろう?」
お気に入りのブランドがもしもないのなら自分の顔馴染みの店に行くかと微笑まれ、一も二もなく頷いたリオンだが、自身にとってはとても重要な疑問が不意に浮かび上がる。
「それってさ、オーヴェがいつも着てる服のブランドか?」
「ああ」
お前が去年のクリスマスプレゼントにマフラーを買ってくれたブランドだと頷かれてしまい、脳裏にそのプレゼントを買うためにショップを訪れて酷く不愉快な目に遭った事を思い出して顔が引きつってしまう。
「リオン?」
「・・・・・・俺に似合うスーツあるかなぁ」
何も考えてませんと顔でだけ語って頬杖を突き、似合うスーツがあれば良いなぁと惚けたリオンにウーヴェはそれ以上何も聞かなかったが、そろそろ店に向かうかと告げてリオンの金髪を軽く掻き乱した後撫で付けてやれば、一日に二度も髪を掻き乱されたリオンが不満を訴えるために口を開くが、その時、頭を撫でる掌の感触が今朝己の頭をぐしゃぐしゃと撫でた大きな無骨な掌とそっくりである事に気付き、青い目を思い切り見開いてしまう。
「リオン?」
「・・・・・・っ、何でもねぇ。スーツを見に行ってさ、帰りにゲートルートに行こうぜ、オーヴェ」
「・・・そうしようか」
お前は着飾ることよりも腹を膨らませることの方が重要かと苦笑するウーヴェに当然だと片目を閉じたリオンは、元気なときには沢山食え、病気の時にはもっと食えとマザー・カタリーナやゾフィーに言われて育ったと茶目っ気たっぷりに唇の端を持ち上げると、いつか聞かされた言葉でもあるが一緒にいるときは無意識に実践している教えでもある事に気付いたウーヴェが拳を口元に宛がって小さく吹き出す。
「早く行くぞ」
「うん」
ウーヴェが運転席に乗り込んだ為、助手席に乗り込んだリオンがシートベルトを締めると出発と陽気な声を挙げ、その陽気さに8割ばかりの呆れと2割の愛おしさを込めた溜息を零したウーヴェだったが、時には付き合っても良いだろうと胸の裡で苦笑した後、自らもベルトを締めて愛車のエンジン音に身を委ねるように車を走らせるのだった。
ウーヴェが店の前に車を横付けにすると同時に初老の男性がドアの前に立ったかと思うと、それは丁寧な態度でドアを開け、ウーヴェが普通の客とは違う事をごく自然に教えてくれる。
ウーヴェの後ろでただ呆然とその様を見ていたリオンだったが、いつもの表情でどうしたと振り返る恋人に無言で肩を竦めて毛足の長い絨毯の上を歩いて行く。
リオンがこの絨毯を踏んだのはこれで二度目だが、一度目などはドアを開けて貰う事すら出来ずに追い返されてしまい、どうしてもウーヴェの為にマフラーが欲しかったリオンがオルガに泣きついて一緒に来てもらったのだ。
オルガがいるとさすがに店員もそれなりの扱いをしてくれていたが、その時の女性店員の目つきだけは一生忘れることはないと思い出して悔しさも思い出してしまう。
今朝も実感してしまった、己と恋人との間に横たわる、社会的地位の差違。
大企業の御曹司であり自身も医者という、誰が見ても立派に思える肩書きを持つ彼と、警察官として誇りだけは誰にも負けないと自負するが、己にはただそれだけしかないのだと内なる声が囁き、思わず肩を落としそうになる。
「リオン」
本当にどうしたと苦笑されてブルゾンの袖口を引っ張られ、ごめんと謝罪をしたリオンにソファを勧めたのは初老の紳士で、ウーヴェも当たり前のように革張りのソファに腰掛けて足を組む。
その態度がどれほど気を許しているのかを示している事に気付いたが、やけに居心地の悪さを感じながらウーヴェの横に腰掛けたリオンは、ウーヴェとその紳士が会話を始めたのをぼんやりと聞きながら店内を余り興味深くもない顔で見回していく。
程良くディスプレイされている服やバッグ、マフラーなどの小物類はウーヴェのクローゼットにしまわれているものと雰囲気が同じで、彼がここのものを愛用している事を教えてくれていた。
世界中に名の通ったイタリアやフランスのファッションブランドではなく、ドイツ国内の老舗ブランドを選ぶ辺りは恋人らしいと感心しつつ己の恋人がイタリアの有名ブランドのスーツを身に纏っているのを想像するが全く想像出来ない事に気付き、車にしてもスーツにしても家具にしても、ウーヴェの好みは国産なのだと改めて気付くが、あの広い家のどこにも彼の実家が作っている製品がない事にも気付き、家族との不仲の一端をまざまざと見せつけられてしまう。
今朝彼の父親と初めて顔を合わせたが、彼が不仲になる嫌な感じは受けなかった。
それどころか、体格も大きく言動も大人物で畏怖を感じてしまうが、初対面で感じ取った人間性はどちらかと言えば好ましいものだったのだ。
レオポルドを知る人々に好悪の印象を聞けばきっと好印象の方が多い、そんな事すら感じさせる彼とどうして不仲になったのか、いつか話してくれるまで黙っていようと決めた事が不意に浮かび上がり、顎に手を宛がって視線を宙に漂わせると腿を拳で軽く叩かれて痛みに瞬きをする。
「オーヴェ?」
「・・・・・・何を食べようか今から悩んでいるのか?」
「んふー、ばれたか」
ウーヴェの悪戯っ気を込めた問いに同じ色で返したリオンは、初老の紳士が小さく笑ったことに目を細め、今日はどういったものをお探しですかと問われて逆に目を瞠る。
「ああ。彼の、リオンのスーツとタキシードを作って欲しい」
「リオン様のスーツですか?」
そこで初めてリオンを真正面から見つめた紳士の視線に、見つめられた方は何故か呼吸を止めそうになってしまい、その苦しさに視線を彷徨わせる。
「リオン、少しは落ち着け」
「や、そうは言うけどさぁ・・・」
お前と違ってこんな店でスーツを作ったこともないし、こんな雰囲気の店に入ったことすらないのだから落ち着けるはずがないと開き直ると、さすがに驚いたのか眼鏡の下のターコイズが丸められるが、次いで苦笑しつつ頷かれて肩から力が抜けていく。
「採寸をさせて頂けますか、リオン様?」
「へ?あ、ああ、うん、それは・・・・・・」
リオン様などと呼ばれたのは初めてで、思わず尻をもぞもぞとさせるリオンの背中をそっと撫でたウーヴェは、紳士の言葉を聞いて静かに歩み寄ってきた女性が新しく入ったアイヒマンだと説明を受けて頷くが、背中を撫でたリオンの身体が強張った事に気付いて視線を流せば、恋人の青い眼がその女性店員をまるで睨むように見ているのを目にして驚愕に目を瞠る。
それぞれ時間にして数秒という短い時間だったが、リオンのその視線の強さが少し前に見せられた表情と重なり合って一つの答えを導き出した為、ウーヴェがそっと目を伏せる。
「・・・ウーヴェ様、ブルックナーをお呼びしましょうか?」
その短時間の間に目に飛び込んできたそれぞれの表情から何かを察した紳士がウーヴェに笑顔で問いかければ、彼も穏やかな表情で頷いて足を組み替える。
「ああ、そうしてもらえると助かる」
「フラウ・アイヒマン、ブルックナーを呼んで下さい」
「はい」
紳士の言葉に丁寧に頷いた彼女が踵を返して店の奥のドアへと姿を消したのを見届けたリオンの口から溜息が零れ、今から新しいスーツを作るにしてもどんなデザインが良いのか分からないと肩を竦めると、己も信頼しているデザイナーであるブルックナーは外見やその性格は兎も角、似合わないものを勧めないから大丈夫とウーヴェが目を細めれば、紳士も同意を示すように小さく頷く。
「彼に任せましょう」
「スーツ一式、タキシードも一式頼みたい」
「一式を今月末までに・・・・・・」
さすがにそれは日程的に厳しいものがあると苦笑する紳士にリオンがそれならば構わないと口を出そうとするのをウーヴェの手が遮り、やってくれと珍しく居丈高な口調で告げれば、目を細めた紳士が背後から近寄ってきた人物に少しだけ顔を振り向けて何かを囁く。
「・・・どうぞこちらへ」
「ここで待っているから行ってこい、リオン」
「ああ、うん」
先程の女性とは別の店員に店の奥へと案内されるリオンを笑顔で送り出したウーヴェだったが、その姿が見えなくなった途端、眼鏡の下のターコイズに珍しく強い光を浮かべて向かいに腰掛ける紳士を真正面から見つめる。
「フラウ・アイヒマンがご気分を害するような言動をいたしましたことをお詫びします、ウーヴェ様」
紳士-ハウプトマンの言葉にウーヴェが目を細めて組んだ足の上に手をのせて指先を軽くタップさせつつどういうことだと周囲を凍り付かせるような声で問いかければ、おそらくはリオン様に対してご不快に感じる事をしたのでしょうと返されて軽く顎を上げる。
その、一見すれば尊大な態度にハウプトマンが軽く頭を下げて失礼いたしましたともう一度詫びた為、ウーヴェが眼鏡のフレームを押し上げて唇の端を持ち上げる。
「去年のクリスマスシーズン前にこちらにやってきたのです」
「・・・店員に対する教育が出来ていなかった、そう認めるのか?」
ハウプトマンの言葉に底冷えのする声で返したウーヴェの脳裏に浮かんでいたのは、ここに来る前に待ち合わせていたカフェでのリオンの引きつった表情と、つい先程見てしまった女性を睨むような横顔だった。
己の恋人が日頃は子供のような表情を浮かべる明るい青年である事を誰よりも知っているが、その反面、心のボタンを一つ掛け違えるだけでとんでもない程頑固に気分を損ねる事もよく知っていた。
そのリオンが見せた嫌悪に近い表情からウーヴェが導き出した回答は、いつかは分からないが、この店を訪れた際に先程の店員に不愉快な扱いをされたと言う予測だった。
その予測はほぼ正鵠を射ていてのだが、確認するつもりでこの店で長年の付き合いのあるハウプトマンに問いかけようとした矢先に謝罪をされてしまった為、己の予測が間違っていない事を確信し、底冷えのする声と表情で彼を見つめてしまう。
己の家族、特に父と兄とは不仲になっているが、そんな彼らに対してウーヴェがたった一つ感謝する事があった。
それは、人を出身や職業で差別するような人になるなという教えを、それこそウーヴェが物心つく前からその身に叩き込んだ事だった。
幼い頃、事情も全く分からないウーヴェがテレビに映し出される社会的弱者と呼ばれる人たちを見て笑った事があったのだが、それを見た兄が静かに立ち上がったかと思うと、雪の降り積もるバルコニーにウーヴェを放り出して閉め出した事があった。
両親と年の離れた兄と姉に暖かく見守られながら育っていたウーヴェだったが、家から外に追い出されるなど今まで経験した事はなく、涙と鼻水が凍り付きそうな寒さの中、大きな掃き出し窓を小さな拳で叩きながらごめんなさいと謝り続けた。
その後兄ではなく父が窓を開けて冷え切ったウーヴェを家に入れてくれたのだが、無言で見下ろしてくる大きな父の前で謝罪をしながら蹲り、そんな小さな彼の顔を上げさせた父は、しっかりと視線を合わせるように床に座り込んだ後、寒さと恐怖から震えるウーヴェを腿に座らせて抱きしめながら何故兄が怒ったのかを言い聞かせたのだ。
その原体験があるからか、ウーヴェは他人が己の目の前で明らかに人を差別するような態度を取った時、腹の底から怒りを感じてしまうのだ。
それが、今回誰よりも何よりも大切なリオンに向けられたと気付けば心穏やかでいられるはずもなく、彼の気性の激しさの一端を顔に浮かべつつ上体を乗り出してハウプトマンを上目遣いに睨むように見つめてしまう。
「申し訳ありませんでした、ウーヴェ様」
「・・・私は別にあなたに対して怒っている訳でもなければ、私が彼女から不愉快な言動を受けた訳ではない。間違ってはいないか?」
本来謝罪するべきは彼女であり、その対象は今採寸に行っている彼だと冷たく笑えば、それもそうだと受け止めたハウプトマンが彼女を呼び寄せて何事かを囁くと、彼女の顔が一瞬にして青ざめるだけではなく、細くて長い足がカタカタと震え始める。
「私はあなたを非難するつもりもなければ、あなたから謝罪をされる必要もない」
ただ、私の大切な彼がどう思うかは別の問題だと冷たく告げて前髪を掻き上げた後、人を外見のみで判断すると大変な目に遭う事を学んだのならば、次からはこんな事が無いようにしてくれればいいとも告げ、店の奥へと通じるドアが開いた事に気付いて表情を切り替えて彼女を意識外へと追いやる。
「オーヴェ、このデザインはどうだって聞かれたけど、どう思う?」
ドアの奥から出てきたリオンは、黒に近いグレーのスーツに良く映えるネクタイを締めた姿だった為、よく似合っていると笑みを浮かべて頷き、リオンの背後で自信と不安を滲ませた表情でウーヴェの言葉を待っている見た目は厳めしいが可愛げのある目をした青年に素っ気なく頷く。
「さすがはマルセルだな」
「・・・っ!!」
ウーヴェのその言葉が余程嬉しかったのかどうなのか、リオンの背後でマルセルと呼ばれた青年が手を組んで顔を輝かせて今にも飛び上がりそうな程の歓喜を表す。
「ウーヴェに誉められたわ!!」
「!?」
己の後ろで突如沸き起こった歓声にリオンが飛び退いて振り返り、今の黄色い-と言うよりは茶色い悲鳴を上げたのは誰だと周囲を見回し、自分とそう変わらない体格の男が手を組んで奇妙なステップを踏んでいる事に気付き、一目散にウーヴェが腰掛けているソファの背後へと回り込む。
「オーヴェ、オーヴェ!あれっ!!」
「・・・・・・落ち着きなさい、ブルックナー」
ハウプトマンの咳払いと共に掛けられた声に我に返ったマルセル・ブルックナーがまるで少女のように頬を赤らめて失礼しましたと一礼をし、仕上げに必要な採寸をするのでもう一度フィッティングルームに来てくれとリオンを見るが、見られた方は真っ青な顔でソファの背もたれにしがみついていた。
「ヤダ、行きたくねぇ!」
「採寸をして貰わないと困るだろう?」
「だってさ、だってさ・・・!」
「・・・失礼しちゃうわね。私にも好みってものがあるのよ」
「は!?」
どう考えてもリオンよりゴツイ手を組み合わせて頬を膨らませるブルックナーの発言にリオンが青い目を思い切り瞠り、ウーヴェがただ無言で苦笑すると早く行ってこいとくすんだ金髪を宥めるように撫でる。
「あなたには最高のものを着て貰うんだから、さっさとしてちょうだい!」
「オーヴェっ、オーヴェぇ!!」
「行ってこい」
ブルックナーの手が伸びてリオンの襟首を掴んだかと思うと、見た目通りの腕力を発揮して引きずって行き、リオンが助けてくれと涙を浮かべながらウーヴェに手を伸ばすが、その手を無表情で振り払った彼は、苦笑しながら彼らを見守るハウプトマンとアイヒマンに気付いて咳払いをし、彼も相変わらずだと肩を竦める。
「あの・・・バルツァー様」
「・・・・・・あなたが彼に謝罪をしたいのならばすればいい」
真っ青な顔でウーヴェの傍に立つ彼女に冷たく言い放った彼は、それでも今回のことを教訓にしてくれるのならば今後一切気にすることはないと、初めて彼女に対して笑顔を向ける。
「あなたがいるからこの店に来ない、そんなことは言わないつもりだ」
「・・・ありがとうございます」
己の過去の態度が招いた今回の事態に深く頭を下げた彼女は、ハウプトマンの合図にそっと頷き、失礼致しますと踵を返す。
「ハウプトマン」
「はい」
「彼女がこの店からいなくなれば私にも考えがある。そのつもりで」
「分かっております」
ウーヴェと長い付き合いがあるために良く知っている彼の言葉に頷き、フィッティングルームが俄に騒がしくなった事に気付いて溜息を零す。
「リオン様のスーツはブルックナーが張り切るので間に合います。ウーヴェ様はご入り用はございませんか?」
「そうだな・・・アスコットタイとネクタイを新調しようかな」
タキシード着用のドレスコードだったが、ブラックタイとは書かれていない為にタキシードとそれに合わせたアスコットタイが、リオンにはクロスタイが良いだろうと告げると、ハウプトマンが立ち上がってカタログを片手に戻ってくる。
フィッティングルームから時折響く悲鳴に二人同時に溜息を零しつつ、カタログを見ながら恩師の門出を祝うパーティに相応しいものを探すのだった。
ステアリングを握りつつ助手席から響く怨嗟の声に溜息を零したウーヴェは、長い足を抱え込んでシートの上で小さくなる恋人の頭を撫でてそんなに落ち込むなと苦笑するが、膝頭に押しつけられていた顔が勢いよく上げられ、うっすらと目元を赤くしたリオンが盛大に捲し立てる。
「オーヴェはそう言うけどなぁ、あーんな大きなヤツに丸裸にされて身体を触りまくられたんだぞ!怖いじゃねぇか!!」
あの時、フィッティングルームで上がった悲鳴はそれだったのかと納得し、いつパンツを脱がされるか不安でパンツのゴムが伸びるほど引っ張っていたと顔を青ざめさせるリオンを呆れたように横目で見つめる。
「・・・採寸なんだから仕方がないだろう?それに、マルセルもパンツまでは脱がさないだろう?」
「怖かった!!」
「・・・・・・はいはい」
がるるるると手負いの獣よろしく吼える恋人に呆れた様な溜息を零し、ゲートルートの前に車を横付けにしたウーヴェは、美味しいものを食べて気分を直せと目を細めるとリオンの前髪を掻き上げて姿が見えた額にキスをする。
「リーオ」
「・・・・・・チーズオムレツ食いたい」
「明日の朝で良いか?」
「今も食う!」
車内で機嫌伺いをしたウーヴェにリオンがむすっとしたまま呟き、今すぐ食いたいと文字通り子どもじみた我が儘を言えば、仕方がないと言いたげな溜息がこぼれ落ちるが、ベルトランに美味いガレットも付けて貰おうかと聞かされてリオンの顔にようやく笑みが浮かび上がる。
「オーヴェも食うだろ?」
「ああ」
笑顔を浮かべて車から降り立ち、同じくドアを閉めたウーヴェに近寄ったリオンは、ウーヴェの顎を背後から伸ばした手で掴んだかと思うとそのままそっとキスをする。
外でのその行為にいつもならば文句の10や20も出てくるウーヴェの口だが、この時ばかりはただ黙ってそれを受け入れ、気が済んだリオンが離れると苦笑を落としてリオンの腰を拳で一つ叩き、店先で何を騒いでいるんだと呆れ顔で出迎えた幼馴染みに肩を竦め、リオンがチーズオムレツを食べたいんだと告げながらいつもの窓際の席に腰を下ろす。
勝手知ったる友の店だからか、ウーヴェが透かし彫りの施されたパーテーションの向こうから水を注いだピッチャーとグラスを持ってテーブルに戻った時、リオンが頬杖を突きながらぽつりと呟いた為、何のことだと首を傾げれば、にやりと笑みを浮かべたリオンが人差し指でウーヴェの胸元を指し示す。
「ブルックナーが言ってたんだけどさ、オーヴェの横には相応しい人が立って欲しいって」
「相応しい人?」
「自分が惚れた相手だからこそいつも輝いていて欲しい。その為に自分の腕が役に立つことは最高の喜びだってさ」
初めて人を好きになったティーンみたいな顔で笑ってたと片目を閉じるリオンに苦笑し、相応しい人も相応しくない人も無いだろうと告げると、リオンの顔から笑みが消える。
「な、オーヴェ」
「どうした?」
「俺は・・・・・・お前の横にいても良いのかな」
ブルックナーの言うとおり、俺はお前の横に立つに相応しい男だろうか。
頬杖を付いて達観したような顔でぽつりぽつりと問い掛けられ、咄嗟に返事が出来なかったウーヴェは、胸の奥で芽生えた名付けようのない冷たい感覚に目を閉じるが、その冷たさを上回る思いが溢れ出した事にも気付き、半ば目を伏せたままゆっくりと首を振ってその言葉を否定する。
「前にも言ったな、リオン。お前は誰と誰を比べているんだ?」
「・・・うん。ごめん」
「リーオ」
ウーヴェの言葉にリオンが舌打ちをして己の前言を詫びると、テーブルの上で組まれている手に手を重ねて目を閉じるが、優しさだけが溢れる声に名を呼ばれてそっと顔を上げると、目の前にはリオンが愛してやまない穏やかな笑みを浮かべた恋人がいた。
「お前はどうしたいんだ?」
誰かの意見を聞いてそれに揺れてしまうのも分かるが、自分はどうしたいんだと問い掛けて返事を待つウーヴェに届いたのは、ごめん、やっぱりお前が良いと言う短い決意の言葉だった。
「・・・なら、それで良い」
「うん」
社会的地位も生まれ育ちも関係なくただこうして手を繋いでいたいと、ひっそりと本音を告げたリオンにウーヴェが目を閉じ、自分もそうだと囁いてこの話はもう終わりだとにこりと笑みを浮かべるのだった。
その後、ベルトランが運んできたチーズオムレツを子どものような顔で嬉しそうに食べるリオンの食欲に圧されてしまったウーヴェは、お気に入りの白ワインを飲みながらその時にふと疑問に感じたことを問い掛けるが、いつもならばあっさりと返ってくる言葉はなく、どうしたんだと眼鏡の下で目を細めればくすんだ金髪をがりがりとリオンが掻きむしる。
「・・・ごめん、オーヴェ、今はまだ言えねぇ」
「そうか。気にするな」
そもそもの発端である今回の護衛の対象は一体誰なんだと問い掛けたのだが、仕事上のことでまだ言えないと返されて納得している事を示すように頷くが、次に聞かされた言葉に軽く目を瞠る。
「オーヴェのパーティは何時だったっけ」
「うん?7時からだな」
「んー・・・・・・何もなかったら間に合うと思う。うん」
「どうした?」
「記念式典もパーティと同じ日にあるんだよ」
多分間に合うと思うから、最悪の場合、タキシードを会場に持っていってくれないかと頼まれて瞬きをしたウーヴェは、そんな事情ならば早く言えば良かったのにとつい苦言を呈してしまう。
「だってさ、お前と一緒に初めてパーティに行けるんだぜ?なるべく行きたいだろ」
例え少し遅れたとしても必ず行くから、今日誂えたタキシード等一式を持って会場で待っていてくれと告げるリオンに小さな息を吐いて頷くと、あからさまに安堵の表情を浮かべた彼が苦笑する。
「今日のスーツは出来上がれば連絡が入る」
「そっか。受け取りに行って貰っても良いか?」
リオンの申し訳なさそうな声の奥に潜む嫌悪感にウーヴェは気付いていたが、気付かなかったふりをして頷き、腹一杯食べたと満足げに笑うリオンの頭を軽く突く。
「今日のスーツの領収書、後でちょうだい、オーヴェ」
仕事でパーティに列席する事になるが、その為のスーツが経費で買えないかも知れない危惧を抱いた時からウーヴェはこのスーツは自分が買ってリオンに贈るつもりだった。
だがそれを今口に出すことは何故か憚られた為に小さく頷いた後、念を押すように告げる。
「・・・経費で落ちなければすぐに言うんだぞ?」
「ん、りょーかい」
立ち上がった二人を見てチーフが笑顔で駆け寄り、素早く会計をしてくれた為に支払いを済ませたウーヴェは、リオンの手に愛車のキーを預け、厨房で忙しなく働く幼馴染みに片手を上げて合図とし、また来いよの声に素っ気ない態度ながらもしっかりと頷いて店を出るのだった。
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