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#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
「柔太朗さん、ちょっとだけ付き合ってくれへん? 城壁の上、行ってみたくて」
機材を片付けながら、舜太がいつも通りの軽い調子で誘う。
朝のことには、一言も触れなかった。柔太朗も、何でもない顔で頷いた。
石造りの階段を上りきると、旧市街の全景が、目の前に広がった。
夕陽が傾き始め、砂色の建物が、オレンジに染まっていく。
入り組んだ路地の一本一本に、長い影が斜めに差し込んでいた。
乾いた風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
「──綺麗やな、こうして見ると」
舜太が、誰に言うでもなく呟く。
柔太朗は小さく頷いて、その景色に目を細めた。
しばらく、取り留めのない話を交わしながら、二人は並んで欄干に腕を預けていた。
今日の撮影のこと、明日のスケジュールのこと、日本に帰ってからの他愛もない予定のこと。
会話の内容自体に、特別な意味はなかった。
会話が途切れたのは、夕陽が建物の縁にかかった頃だった。
「……あのさ」
「ん?」
柔太朗は、ポケットから小さな紙の包みを取り出した。
朝からずっと、そこにあったものだった。
「撮影じゃ、つけられなかったけど」
掌の上で、青い雫が夕陽を受けて光った。
柔太朗は髪を耳にかけ、それをつけようとした。
鏡はない。耳元を探る指先が、何度か空を切る。
舜太は手を貸したくて仕方なかったが、その手が耳に触れてしまえば、何かを越えてしまう気がして、ただ黙って見ていた。
やがて、小さな留め具の音がした。
「……舜太の前でなら、つけられるから」
顔を上げないまま、柔太朗は言った。
「これつけてる俺、撮ってよ」
──今だけは、俺だけ撮って。
そこまでは、言葉にならなかった。代わりに、耳元の青いガラスが、風の中で小さく揺れていた。
「……ええの?」
「いいって言ってる」
「普通にしとって。ポーズとか、要らんから」
柔太朗が、視線を街へ戻す。
夕陽を受けた横顔に、淡い陰影が落ちる。
風が吹いて、髪がわずかに揺れた。少し遅れて、青いガラスがゆらりと揺れた。
その一瞬を、舜太は切り取った。
液晶を確認した瞬間、手が少しの間だけ止まった。
作られた表情でも、計算された構図でもなくて、ただ画面の中に収まっている。
──これは、提出できへんな。
心のどこかで、はっきりとそう思った。
クライアントに渡すための素材としてではなく、自分だけのものとして、この一枚を取っておきたい。
そう思う気持ちは、仕事の判断というより、もっと個人的で、もっと譲れない感情に近かった。
「──何、百面相して」
「いや。……これ、めっちゃ良い写真撮れたと思って」
舜太は、少し躊躇いながらも、カメラの画面を柔太朗の方へ向けた。
夕陽の中で目を細める、自分自身の姿が、そこに映っている。
柔太朗は画面を覗き込み、耳元の小さな青を、指先でそっとさした。
「似合ってるじゃん」
「そうやろ、そう思って買った」
「ありがとう」
柔太朗は、小さく笑った。朝の曖昧な笑顔とは違う、ちゃんと目まで届く笑い方だった。
「これ、仕事には出さんとこうと思って」
「……そう」
「これは、誰にも渡したくないなって」
柔太朗は、しばらく黙って舜太の横顔を見つめた。
「──そっか」
短くそう返すと、柔太朗は視線を、再び街並みへと戻した。
何も言わない代わりに、少しだけ、舜太との距離を詰めるように、肩が触れる位置まで寄った。
夕陽は、ゆっくりと沈んでいく。
迷路のような旧市街が、茜色から藍色へと、その表情を変えていった。
コメント
1件
うわあ……夕陽のシーン、めちゃくちゃ刺さったわ。「舜太の前でならつけられる」って言葉、朝のモヤモヤを全部持ってった感じがするね。ピアスが風で揺れる描写も綺麗で、写真に収めたい気持ちすっごい分かる。「これは誰にも渡したくない」って仕事と自分を分けるとこ、プロのカメラマンとしての覚悟とプライベートな感情が重なってグッときた。肩が触れる距離、良かったです👍