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「……八名木さん、更級さん」
たっぷりと時間をかけて美作が言葉を発する。彼が漂わせている緊迫した空気に当てられ、思わず背筋が伸びてしまう。
「おふたりも昼食はまだですよね。私共も予定が変更になってしまいましたので、こちらの店で一緒に食べていかれませんか? ご馳走しますので……」
「はい?」
この返しは予想していなかったのだろう、小夜子は気の抜けた声をあげる。美作の口から出たのはなんと食事の誘いだったのだ。
「河合様もよろしいでしょうか? 希望を聞いておいて申し訳ありませんが、ご主人様が来られなくなってしまいましたので、それは夕食時に持ち越して頂くということで……」
「俺は全然構いませんけど……」
「ありがとうございます。それでは、話がまとまったようですので食事に致しましょう」
美作はテーブルの上に置かれていたメニュー表を俺に手渡してきた。うっかりそれを受け取ってしまったため、流れで内容を確認してしまう。パスタとかサンドウィッチとか軽食がメインか……カフェだからそんなにがっつりした物はないな。でも、このシーフードピザ美味そう。
「美作さん、俺このピザ食べたいんだけどいい?」
「もちろんです。私も河合様と同じにしましょうかね……更級さんはどうしますか?」
「えーっと……私は何にしようかな。透の選んだピザも美味しそうだけど、パスタもいいなぁ。あっ、小夜子ちゃんの好きなたらこのパスタもあるよ」
「百瀬、お前もこの後昼食の時間が取れるかわからないんだから食べておきなさい」
「はい。ご馳走になります」
「って……ちょっ、ちょっと待ってよ!!!! 何もまとまってない!! まだ私の質問に答えて貰ってないんですけど!!」
和気あいあいとメニュー表を眺めていた俺たちに小夜子の強烈な突っ込みが炸裂した。しまった……良い感じに腹が空いていたのもあって、完全に美作のペースに飲まれていた。
「小夜子ちゃん、落ち着いて」
真昼が小夜子を宥めているが、彼女の反応はもっともだった。自分のした質問に答えて貰えないどころか、まるで無かった事かのように扱われてしまったのだから。
小夜子の問い掛けは美作にとってそこまで都合が悪いものだったのだろうか。こんなわざとらしく流してしまいたくなるほどに。
小夜子が聞いたのは俺の推薦人について……つまり東野のこと。彼女たちが事前に聞かされていた情報と俺の話が噛み合っていないらしい。小夜子はこれに対しての説明を求めているのだけど……どうにも美作は真面目に対応する気がないようだ。
「真昼……あんたも何普通にご飯食べる流れになってるのよ」
「だってお腹空いてたし……せっかく美作さんがご馳走してくれるって仰るから、つい……」
真昼の緊張感のない返しに、小夜子は呆れたように顔を手で覆った。小夜子は俺に対しては言及しなかったけど、俺も真昼をとやかく言える状態ではなかったので少々気まずくなってしまう。
「河合、もうアンタの方に直接聞くわ。推薦してくれたっていう東野さんだっけ。その人のこと、私たちに教えてくれない?」
美作から答えを聞くのは無理だと判断したのか、矛先が俺に向かってきた。東野のことは俺だってよく分かってないんだけどなぁ……
「男の人だよ。背が高くて、ちょっと変わってるけど親切で……あっ、コスプレが趣味?」
「はぁ? 河合、あんたふざけてるの? こっちは真面目に聞いてるっていうのに」
「いや、ふざけてないって。俺と会う時は常にそんな感じだったんだよ」
ヤバい。俺マジで東野のこと全然知らないじゃん。恩人ともいえる相手にこれはよくない。でもさ、言い訳になるけど、ちゃんと話をするまでの東野はどう見ても変質者としか思えなかった。顔だってずっと隠したままだったし、それに……あまり自分の身の上については聞いて欲しくなさそうに感じたのだ。
「同じ人の話をしているはずなのになぁ……まさか、私たちが思っている人と、透の推薦人って別人なのかな? そんなはずないんだけど……うーん……」
「そもそも名前からして違う。榛名先生から聞いたから間違いないはずなのに……どういうことですか?」
真昼は首を傾げなら唸っていた。小夜子はもう一度美作に問い掛ける。そんなふたりを百瀬がそわそわと落ち着かない様子で見つめていた。
「八名木さん、そして更級さん。あの方についてのお話は今は控えて頂きたいです。河合様も一度に色々聞かされては困惑なさいますから……」
「……やっとまともに会話する気になったみたいですね。河合の推薦人……『東野』という者は、私たちが想像している人物で間違いないんですか? そこだけはっきりさせて欲しいんですけど」
「はい……河合様の推薦人は、私どもの主で間違いありません。ですが、河合様にはまだ詳しくお話しできていない事もあるのです。おふたりにおかれましては、どうかこちらの事情を汲んで頂けたらと……」
小夜子も真昼も俺の推薦人が誰なのか知っていた。それなのに俺との会話が微妙にズレていた理由。それは、俺が推薦人のことを『東野』と呼んでいたからだった。
薄々気づいていたけど、やはり『東野』は偽名だったようだ。小夜子と真昼は東野の本名を知っている。だから、聞き慣れない名前で呼んでいる俺に混乱したのだ。
「……河合様、道中でもお話ししましたように、ご主人様については、ご本人の口から直接聞いて頂きたいのです。不安にさせてしまってすみませんが、今しばらくお待ち下さいませ」
美作はまた深く頭を下げた。
本来なら今ごろ……東野と一緒に食事をしているはずだった。小夜子と真昼が来たのも彼にとって想定外のことだろう。あまり顔には出ていないから平気そうに見えるが、美作をこれ以上困らせたくはない。
「美作さん、俺はほんとに大丈夫だから、気にしないで」
「……小夜子ちゃん、私たちも仕切り直しましょう。透も日雷に着いたばかりで疲れてるだろうしね。ちゃんとお話しをするのはまた別の日でいいじゃない」
「……分かった」
小夜子は真昼の説得に応じた。頭を下げる美作を見て、バツが悪くなったのかもしれない。
俺たちが座っているテーブルにようやく平穏が訪れた。席に着いた癖になかなか注文をしない俺たちを、離れた場所から店員が様子を窺っていたのだ。彼らも安堵することだろう。
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