テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
48
夜の街に、静かな雨が降っていた。
高校二年の春、僕はなぜか何もかもがうまくいかない気がしていた。友達との距離、将来への不安、自分の中にある言葉にできない焦り。全部がぐちゃぐちゃに混ざって、ただ音楽だけが救いだった。
その日も、いつものようにイヤホンを耳に差し込んだ。
流れてきたのは、Mrs. GREEN APPLEの曲だった。
軽やかなメロディなのに、どこか胸の奥をえぐるような歌詞。気づけば、僕は駅を通り過ぎて、知らない路地に入り込んでいた。
「……ここ、どこだ?」
雨は少し強くなっていた。ふと前を見ると、小さなライブハウスがあった。看板も古びていて、普段なら絶対に入らないような場所。でも、その日はなぜか引き寄せられるように扉を開けた。
中は思ったよりも明るくて、数人の観客と、ステージには機材が並んでいた。
「いらっしゃい」
声をかけられて振り向くと、そこにいたのは見覚えのある顔だった。
——え?
一瞬、頭が真っ白になった。
「えっと……君、びしょ濡れだね。タオル使う?」
柔らかい笑顔でそう言ったのは、大森元貴その人だった。
「え、なんで……?」
思わず口に出る。
すると彼は少しだけ笑って、こう言った。
「たまにはこういう場所で演るのもいいかなって。君、音楽好きでしょ?」
図星だった。何も言えずに頷くと、彼はステージの方を指さした。
「ちょうどこれから始まるんだ。よかったら、聴いていきなよ」
気づけば、僕は最前列に立っていた。
やがてメンバーが揃い、音が鳴り始める。
最初の一音で、空気が変わった。
狭いはずのライブハウスが、一瞬で別の世界になる。音が体に直接入り込んでくるような感覚。歌詞が、今の自分に向けて書かれているみたいに響く。
気づけば、涙がこぼれていた。
何に悩んでいたのか、何が怖かったのか、全部がどうでもよくなるくらい、ただ音楽がそこにあった。
曲が終わると、会場は静まり返った。
拍手も忘れるほどの余韻。
その中で、大森はマイクを持って、ゆっくりと話し始めた。
「うまくいかない日って、あるよね。でもさ、それでもいいんだと思う。全部が完璧じゃなくても、生きてるだけで意味があるって、俺は思うよ」
その言葉は、まっすぐに僕の胸に刺さった。
ライブが終わり、外に出ると、雨は止んでいた。
さっきまでの重たい気持ちが、少しだけ軽くなっているのを感じた。
振り返ると、さっきのライブハウスはもうなかった。
まるで最初から存在しなかったみたいに、ただの暗い路地が続いているだけだった。
「……夢?」
でも、イヤホンから流れてきたのは、さっき聴いたばかりの曲だった。
僕は小さく笑って、歩き出した。
明日が少しだけ、楽しみになっていた。
しかし、気づくと僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
夢だったのかもしれない。そう思うのが普通だ。でも、胸の奥に残っているあの音の余韻と、確かに交わした言葉の温度が、それを否定していた。
歩き出そうとしたとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には、見慣れない通知。
――「新着音源:未公開デモ」
そんな表示、見たことがない。恐る恐るタップすると、再生ボタンが一つだけ現れた。
指が少し震えながらも、僕はそれを押した。
流れてきたのは、さっきライブハウスで聴いたあの曲だった。
でも、どこか違う。
もっと未完成で、でもその分だけ、生々しくて、まるで“今”この瞬間に生まれているみたいな音。
曲の最後に、小さな声が入っていた。
「——届いた?」
一瞬、息が止まる。
間違いない。さっきの声だ。
「……どういうことだよ」
思わず呟くと、背後から足音がした。
振り返ると、そこには同じ制服を着た女の子が立っていた。
見たことのない顔。でも、なぜか懐かしい感じがする。
「それ、聴いたんだね」
彼女は僕のスマホを指さして、少し笑った。
「……君、誰?」
警戒しながら聞くと、彼女は少しだけ考えてから答えた。
「うーん、説明は難しいけど……“音に迷った人を、元の世界に戻す係”かな」
「は?」
意味がわからない。
でも彼女は気にせず続けた。
「君、さっきちょっとズレてたんだよ。この世界と、“音の向こう側”の間で」
その言葉に、さっきのライブハウスが頭をよぎる。
「……あれ、やっぱり普通じゃなかったのか」
「うん。普通じゃない。でも、嘘でもない」
彼女は空を見上げた。雲の隙間から、月が少し顔を出している。
「Mrs. GREEN APPLEってさ、ただのバンドじゃないんだよ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「どういう意味?」
「人の感情とか、迷いとか、そういう“形にならないもの”に触れられる音を持ってるの。だから、ときどき繋がっちゃうんだよ。こういう場所に」
僕は言葉を失った。
確かに、あの音は普通じゃなかった。ただ“いい曲”ってだけじゃ説明できない何かがあった。
「じゃあ……俺は、たまたま?」
「たまたま。でも、必要だったんだと思うよ」
彼女はそう言って、僕の目をまっすぐ見た。
「君、ずっと苦しかったでしょ」
否定できなかった。
言葉にしなくても、全部見透かされている気がした。
「でもね、さっき少し変わった」
彼女は優しく笑う。
「音をちゃんと受け取った人は、少しだけ前に進めるから」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……また、行けるのかな」
気づけば、そんなことを聞いていた。
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「行けるよ。でも、次は“迷ったとき”じゃなくて、“選んだとき”にね」
「選んだとき……?」
「自分で前に進もうって思ったとき。そのときは、きっとまた音が導いてくれる」
風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
次の瞬間、彼女の姿はふっと消えていた。
まるで最初からいなかったみたいに。
静かな夜だけが残る。
僕はもう一度スマホを見た。
さっきの音源は消えていて、いつものプレイリストに戻っていた。
でも、もう迷いはなかった。
イヤホンをつけて、再生ボタンを押す。
流れてきた音楽は、前と同じはずなのに、少し違って聴こえた。
僕は歩き出す。
今度は、ちゃんと自分の意思で。
それから数週間、僕は不思議なくらい穏やかに過ごしていた。
何かが劇的に変わったわけじゃない。テストもあるし、友達関係だって相変わらず少しぎこちない。でも、前みたいに全部に押しつぶされる感じはなかった。
「まあ、いっか」
そう思える瞬間が増えた。
あの夜の出来事を、誰にも話していない。でも、イヤホンをつけるたびに、あの場所と繋がっている気がした。
そして、ある日。
学校の帰り道、駅の掲示板に一枚のポスターを見つけた。
“本日限定・シークレットライブ”
場所は書かれていない。ただ、時間と、小さくロゴが載っているだけ。
——Mrs. GREEN APPLE
心臓が強く鳴った。
(これ……絶対、あれだ)
理由はない。でも確信があった。
僕はその時間まで、駅の近くで待った。
夕方から夜へ、街の色がゆっくり変わっていく。
そして、ポスターに書かれていた時間になった瞬間。
——音がした。
どこからともなく、あのときと同じ感覚。
僕は迷わず走り出した。
人混みを抜けて、細い路地に入って、さらに奥へ。
すると、あった。
あのライブハウスが。
今度は、はっきりと存在していた。
扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
(“選んだとき”に——)
あの言葉が頭をよぎる。
僕は深く息を吸って、ドアを開けた。
中には、前よりも少しだけ多くの人がいた。でも、みんな静かで、どこか同じ空気をまとっている。
迷って、でも進もうとしている人たち。
ステージには、もうメンバーが立っていた。
そして、目が合う。
大森元貴が、こっちを見て、少しだけ笑った気がした。
それだけで、十分だった。
音が鳴る。
一曲目から、前よりもずっと強く響いた。
歌詞が、メロディが、全部が「今の自分」に重なる。
逃げたい日もある。立ち止まりたい日もある。でも、それでもいいんだと、音が教えてくる。
途中のMCで、大森はこう言った。
「ここに来たってことはさ、何かを選んだってことだよね」
会場が静かになる。
「正しいとか間違いとかじゃなくて、“自分で決めた”ってことが大事なんだと思う」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
僕は確かに、ここに来ることを選んだ。
逃げるんじゃなくて、進むほうを。
ライブの終盤。
新しい曲が始まった。
聴いたことのないメロディ。でも、不思議とどこか懐かしい。
サビに入る直前、大森がマイクを少し離して、客席を見渡した。
そして、まっすぐ僕の方を見て、歌った。
その瞬間、世界が少しだけ歪んだ気がした。
音が光になって、空気に溶けていく。
気づけば、僕は一人、真っ白な場所に立っていた。
でも、不思議と怖くなかった。
目の前に、あの女の子がいた。
「来たね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「……ここは?」
「“音の向こう側”の、もう少し深いところ」
周りには、形にならない光のようなものが漂っている。
それは全部、誰かの感情みたいだった。
喜び、悲しみ、迷い、決意。
「ここに来れるのはね、ちゃんと“選び続けた人”だけ」
彼女はゆっくりと言った。
「君は、逃げなかった」
僕は少し考えて、首を振った。
「逃げたくなかったわけじゃない。ただ……もう一回、ちゃんと聴きたかったんだ」
すると彼女は、少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「それで十分だよ」
遠くから、音が聞こえてくる。
さっきのライブの続きだ。
「そろそろ戻る時間」
彼女がそう言う。
「でも、覚えておいて。この場所は特別じゃない」
「え?」
「君が何かを選ぶたびに、少しずつ近づいてる場所だから」
その言葉が、すっと胸に落ちた。
次の瞬間、視界が戻る。
気づけば、ライブハウスの中だった。
曲はちょうど終わったところで、拍手が広がる。
僕も遅れて手を叩いた。
でも、もう前とは違う。
“特別な体験をした”っていう感覚じゃない。
これはきっと、これからも続いていくものなんだ。
外に出ると、夜風が気持ちよかった。
スマホを見ると、知らない音源はもうなかった。
でもいい。
今は、自分の中にちゃんと残っているから。
僕は空を見上げて、小さく笑った。
そして、歩き出す。
音に導かれるんじゃなくて、
自分で音を選びながら。
——いつかまた、あの向こう側で会うために。