鼓動が、耳の奥でうるさいほどに響いていた。
「栞、聞こえるか。左側──死角にひとりいる。3秒後、動け」
インカム越しに聞こえた翠の低い声。
視線を走らせると、古びた工場の鉄骨の隙間、確かに人影が一つ潜んでいた。
「……3、2、1──今だ」
反射的に飛び出した。
弾が空を裂く。逃げる男。追う栞。
足元の鉄屑を蹴散らしながら、何度も転びそうになる。
(撃たなきゃ──!)
肩越しに銃を構えた。けれど、引き金が重い。
手が、また震えていた。
その瞬間、銃声が響いた。
バン、と乾いた音。
それは栞のものではなかった。
男が倒れる。額に一発──致命的な弾。
「……っ、また……私……!」
栞の声が震える。
膝がガクッと折れ、廃鉄材に座り込んだ。
彼女の隣に、音もなく翠が降り立った。
「撃てなかったか」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
銃を握る手は汗で濡れ、指の先は冷たい。
けれど、涙は流れなかった。ただ、口の中が苦くて、喉が焼けつきそうだった。
「栞、お前は……怖いか?」
翠の問いかけに、彼女は小さく頷いた。
「怖いよ……撃つのも、撃たれるのも、失敗するのも……全部」
「……それでいい」
「……え?」
「怖がれ。恐れろ。お前が恐怖を忘れたら、そこで“終わり”だ」
翠は淡々と、しかし静かに言葉を紡ぐ。
「殺し屋にとって、冷静さは必要だ。だけど、冷たくなる必要はねぇ。“生きてる人間”として、恐れを抱えたまま、俺の背中を見ていろ」
その言葉が、なぜか胸の奥にすっと入ってきた。
「……翠さんは、怖くないんですか?」
「怖いぞ。毎回。だから確実に殺す」
当たり前のように言われて、栞はぽかんとした。
そして、くすっと笑った。
「……そんなの、ズルい」
「バカ、何が」
「私は……撃てなかったのに、翠さんが隣にいると、安心しちゃうんです」
「頼るな。お前の命はお前で守れ」
「……でも、翠さんはきっとまた助けてくれるでしょ?」
「さあな」
ふっと、翠の口元が緩む。
微笑ともつかない表情は、いつもの無愛想を少しだけ裏切っていた。
***
夜の帰路。
栞はずっと、手の中の銃を見ていた。
殺せなかったこと。守ってもらったこと。
それでも、次こそはと心に誓ったこと。
(……きっと、次は引ける)
恐怖を捨てるのではなく、抱えたままでも前に進める。
それが“殺し屋”になるということなら、自分にもできる気がした。
それは、ただの錯覚かもしれない。
けれど今は──
「……翠さん」
「なんだ」
「ありがとうございます。今日、死なずに済んだの、あなたのおかげです」
「さっきも言ったろ。俺の成績に響くからだって」
「それでも。……嬉しかったです」
栞はそう言って笑った。
それを見て、翠はそっぽを向く。
「……勝手にしろ」
その声は少しだけ低く、どこか照れくさそうに聞こえた。
――撃てなかった引き金の代わりに、鼓動が確かに鳴っていた。
銃声よりも強く、自分が“まだ人間”であることを教えてくれるように。
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