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静かな夜だった。
殺気も血の匂いもない、ただの夜。
窓の外には薄雲のかかった月。
静まり返ったアパートの一室。空調の低い音と、カップに注がれたお茶の湯気だけが、そこに確かに“日常”を灯していた。
──この日、任務の後、栞は“帰宅許可”を出されなかった。
理由は簡単だ。
「お前、ターゲットに顔見られた」
「報復の可能性がある」
「一時的に監視対象」
──そしてその監視役が、当然のように“翠”だった。
「……え、ええと……じゃあ今日からここに……?」
「一泊だけだ。明日には身の安全も確認される。勝手に触るな、騒ぐな、寝言うるさければ叩き起こす」
「えっ、そんなの聞いてないです……!」
翠の部屋は、意外なほど整っていた。
家具は最低限。黒とグレーを基調とした無機質な内装。
生活感はあるが、ぬくもりはない。
「……まさに“殺し屋の巣”って感じですね……」
ぼそっとつぶやくと、
「うるせえ、ガキ。黙って座ってろ」
「ガキって……!」
栞はふくれっ面のまま、テーブルの前に座る。
翠はキッチンでなにやら動いていた。
そして数分後、湯気の立つマグカップが二つ、静かに置かれる。
「……お茶?」
「カフェイン入ってないやつ。寝る前に飲め」
「えっ、意外に優しい……」
「お前が眠れず騒ぐ方が面倒なんだよ」
そう言いながらも、翠は向かいに腰を下ろした。
部屋の空気が少しだけ、ゆるむ。
「……ねえ、翠さん」
「なんだ」
「いつから殺し屋やってるんですか?」
翠は無言だった。
しばらくして、カップを持ち上げ、口元に運んだあと、ぽつりと呟いた。
「物心ついたときには、既に人を殺してた」
栞は思わず、言葉を飲み込んだ。
「嘘じゃない。覚えてる。最初に殺したのは、俺の“父親”だった」
「……」
「クズだったよ。毎日殴ってきて、母親は逃げた。俺だけが置いてかれて、ずっと、ずっと……」
そこで言葉が止まった。
翠の視線は、カップの中の液体に落ちていた。
表情は変わらない。けれどその目の奥に、凍りついたような“痛み”があった。
「それ以来、俺は“殺す”ことでしか、生き方がわからなくなった。だからお前の“恐怖”が、逆にうらやましいよ」
「……私は、あなたのこと、羨ましいと思ってた」
栞が静かに言った。
「強くて、何も動じなくて、なんでもできて……でも、そうじゃないんですね」
「……当たり前だろ。人間なんだからな」
「ふふ……今のでちょっと好きになりました」
「……あ?」
「人間らしい翠さん、です」
そう言って笑う栞に、翠は目を細める。
相変わらずの無表情だけれど、彼の中に、何かほんの少し“柔らかいもの”が生まれている気がした。
***
それから数時間後。
ベッドに寝転がる栞は、目を閉じながら小さく呟いた。
「……翠さん、起きてます?」
「……起きてる。寝ろ」
「なんでそんなに不眠なんですか?」
「……お前みたいな寝言女が隣にいるからだ」
「失礼な……っ。私、寝言なんて言いません……」
「さっき“ぎゃあああ暗いよ助けてー!”って叫んでたぞ」
「それは夢の中で任務してたんです!きっと!」
「……夢の中でもポンコツかよ。バディ失格だな」
「……っうぅ、また言った!」
ふたりの会話は、やがて静寂の中に溶けていく。
この一夜は、きっとすぐに過ぎてしまう。
だけど栞は、初めて思った。
──こんなふうに、少しだけ誰かと息を合わせて眠る夜も、悪くないかもしれない。
どこまでも冷たいと思っていた男の部屋で、
温かいお茶と、優しさに似た静けさに包まれて。
そのまま、眠りに落ちた。
──そして、翠はというと。
ベッドのそば、薄暗い窓際に立ったまま、じっと外を見ていた。
その目には、眠気の気配はなかった。
「……死ぬなよ。俺のバディなんだから」
誰にも聞こえないような声で、夜に溶けるように呟いた。