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霧が濃い。
クレアニール…もとい、クレアン・ニールヴァルトは、送迎車の窓越しに外を眺めながら、そう思った。
山道はどこまでも続き、視界は白く煙っている。時折木々の影が薄く浮かび上がるが、すぐにまた霧の中へ消えていく。まるで、現実と非現実の境界を越えていくような感覚だった。
運転手は無言だった。クレアも特に話しかけようとは思わなかった。
彼女の膝の上には、一枚の辞令書が置かれている。
『異質物取扱所 第三区画 職員採用通知』
異質物取扱所――世界にとって”異質”な存在を管理・保管する施設。災害、呪い、概念、物語。通常の物理法則では扱えない危険な存在たちを、安全に封じ込め、尚且つその力を振るう可能性を抑制するための場所。特殊な器に異質を閉じ込め、人と変わりない姿へと変える技術を作ったとも。
クレアはその存在を知っていた。知識としては。
だが、実際にそこへ赴任することになるとは思っていなかった。
「……着きましたよ」
運転手の声に、クレアははっと顔を上げた。
霧の向こうに、巨大な影が見える。
それは、研究施設と廃墟と教会が奇妙に混ざり合ったような建物だった。灰色の石造りの壁、尖った尖塔、ところどころ錆びた鉄格子。窓には明かりが灯っているが、その光はどこか冷たく、生気を感じさせない。
クレアは車を降りた。
足元には砂利が敷かれており、靴音が静かに響く。
空気が冷たい。肌に触れる霧は湿っていて、どこか生き物のような気配がある。
クレアは深呼吸をした。
そして、正面の重い扉へと歩き出した。
扉に手をかけようとしたとき、それは内側から開いた。
「お、新入り〜?」
明るい声。
そこに立っていたのは、派手な髪色をした小柄な少女だった。へらへらとした笑顔で、まるで友達を迎えるような気軽さでクレアを見ている。
クレアは一瞬、言葉に詰まった。
もっと……こう、厳粛で、緊張感のある場所を想像していたのだ。
「あ、えっと……はい。クレアン・ニールヴァルトと申します」
「おっけー!あたしはダンテ・スタシス。スタシスのほうで呼んでね。よろしく〜」
スタシスは軽く手を振ると、クレアの肩をぽんと叩いた。
「緊張してる?大丈夫大丈夫、ここ見た目怖いけど意外と普通だから」
「……そう、なんですか?」
「うん。まあ、“普通”の定義が人によって違うけどね」
スタシスはにやりと笑うと、クレアの腕を軽く引っ張った。
「とりあえず中入ろ。案内するから」
施設の内部は、外観以上に複雑だった。
長い廊下が幾重にも続き、階段は上にも下にも伸びている。壁には古びた絵画や、意味不明な記号が刻まれたプレートが並んでいる。
「ここが職員の生活区画ね。食堂とか休憩室とかはこっち。で、異質たちの収容区画は別棟」
スタシスは軽快に歩きながら説明する。
「異質ってさ、本体は危険だから厳重に保管してるんだけど、依代――つまり人形を使って生活してるの。だから、普通に会話できるし、感情もあるし、意外と人間っぽいよ」
「……人間っぽい、ですか」
「うん。まあ、それぞれ癖は強いけど」
スタシスはくすくすと笑った。
廊下の奥に、ガラス張りの部屋が見える。
その中で、黒髪の青年が何かの書類を整理していた。
「あ、アンティだ」
スタシスが手を振ると、青年――アンティ・ストーは顔を上げ、軽く会釈を返した。
そのとき。
彼の背後に、ふっと人影が現れた。
全身を覆う未来的な服を着た女性。顔は見えない。
「うわっ!」
アンティが驚いて飛びのいた。
「やめてくれ……心臓に悪い」
「すまない。つい、新しい子の顔が気になってしまって」
女性の声は柔らかく、どこか申し訳なさそうだった。
「……ヘイストか」
スタシスが小声でクレアに囁く。
「あれは『敗残兵』名前はヘイスト。テレポートできるから、よく突然現れる。 アンティはいつもびっくりしてる」
クレアは目を丸くした。
異質。
それが、今目の前にいる。
でも、彼女の様子は……どこか人間らしかった。
さらに奥へ進むと、廊下の雰囲気が変わった。
ランプが規則的に並んでいるが、点いたり消えたりを繰り返している。
「……これって、故障ですか?」
「ううん、多分違う。ここ、勝手に動くものけっこうあるから」
スタシスはあっけらかんと言った。
実際、クレアが視線を巡らせると、床に落ちていた紙がふわりと宙に浮かび、棚の上に戻っていった。
「……」
「慣れるよ」
スタシスは笑った。
「異質がいる場所だからね。ちょっとくらい不思議なこと起きても、もうみんな気にしない」
クレアは小さく息をついた。
ここは、確かに普通の場所ではない。
でも……それでも、人が生活している。
そう思うと、少しだけ安心した。
廊下の角を曲がったとき、クレアは足を止めた。
向こうから、誰かが歩いてくる。
ラフな服を着た少女。柔らかく微笑んでいるが、その瞳には深い色が宿っている。
「あら……新入りさん?」
少女が立ち止まり、クレアを見た。
「はい。クレアニールです。」
クレアは丁寧に頭を下げた。
少女は数秒、じっと見つめていた。
そして――
「……クレア…ニール。……そう、そうなのね」
その声は、わずかに震えていた。
「おお、珍しい。アスが固まってる」
スタシスが面白そうに言った。
「アス?」
「うん。『色欲の禁書』アスモデウス。通称アス」
スタシスは楽しそうににやりと笑った。
アスモデウスも、ふっと笑みを浮かべた。
「ふふ、ごめんなさい。少し、驚いてしまって」
「……?」
クレアは首を傾げた。
アスモデウスは一歩近づいてきた。
その距離が、妙に近い。
「クレア。素敵な名前ね」
「あ、ありがとうございます」
「これから、よろしくね」
そう言って、アスモデウスは指先でクレアの髪を軽く触れた。
それから、ゆっくりと立ち去っていった。
「……なんか、アスの様子おかしかったな…?」
スタシスが小声で呟いた。
「おかしい、ですか?」
「うん。あんな風に固まるの、初めて見たかも」
クレアは振り返ったが、もうアスモデウスの姿は見えなかった。
さらに進むと、小さな足音が聞こえた。
「ん……!」
クレアの服の裾が、後ろから引っ張られた。
振り返ると、そこには小さな子どもがいた。
口を布で塞がれた、中性的な顔立ちの子。
「あっ、ロビン!」
スタシスが嬉しそうに声を上げた。
「クレアに興味ある?」
ロビンはこくこくと頷いた。
そして、クレアの手をぎゅっと握った。
「……ピ」
小さく、喉を鳴らす音。
クレアは思わず笑みを浮かべた。
「可愛い……」
でも、すぐに思い出す。
これは『とりのしらせ』名をロビン。鳴き声がサイレンと化し、災害を引き起こす異質。
「……撫でても、大丈夫ですか?」
「うん、全然。ロビンは喉鳴らすだけなら平気だから」
クレアは恐る恐る、ロビンの頭に手を置いた。
ロビンは嬉しそうに目を細めた。
「……ん……!」
「ふふ、懐いてるね」
スタシスがにこにこしている。
クレアは少しだけ、心が和らいだ。
「お、君がクレアニールか」
低い声が響いた。
振り返ると、黒髪短髪の男性が立っていた。
「早速人気だな」
男性は笑みを浮かべた。
「あ、所長!」
スタシスが敬礼のような仕草をした。
「所長……?」
「ジェイドだ。ここの管理責任者をしている」
ジェイドはクレアに職員証を手渡した。
「君の資料、見せてもらった。適性が高い。特に”心を無にする”能力は、ここでは重要だ」
「……はい」
クレアは職員証を受け取った。
「不安なことがあれば、いつでも言ってくれ。ここは確かに特殊な場所だが、悪い奴はいない」
ジェイドはそう言って、肩を軽く叩いた。
「君ならうまくやれる。心配しなくていい」
「……ありがとうございます」
クレアは深く頭を下げた。
スタシスに案内されて、クレアは自分の部屋へ辿り着いた。
伝統的な和室に近い、落ち着いた空間。
窓の外には、遠くの収容区画の明かりがちらちらと光っている。
「じゃ、あたしはこの辺で。困ったことあったら呼んでね」
「はい。ありがとうございました」
スタシスが去り、クレアは一人になった。
荷物を置き、ベッドに腰掛ける。
深く息をついた。
「……ここで、やっていくんだ」
そう呟いて、クレアは拳を握った。
もう外は真っ暗で、すっかり夜。
少し急いで荷解きをしていると、扉の向こうからノックが聞こえた。
「はい」
クレアが応えると、静かな声が響いた。
「クレア。……今夜は、寒くなるらしいの。ちゃんと、暖かくして寝てね」
アスモデウスの声だった。
「はい、ありがとうございます」
クレアは微笑んだ。
「……また明日ね」
足音が遠ざかっていく。
クレアは扉をじっと見つめた。
そして、小さく首を傾げた。
「……声、震えてた……?」
でも、その理由はわからなかった。
クレアは窓の外を見た。
霧の向こうに、施設の明かりが揺れている。
ここが、私の新しい居場所。
そう思いながら、クレアはゆっくりと目を閉じた。