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教室の窓から入る午後の日差しは、紙の上の字を淡く溶かしていた。
綾音はいつものように窓際の席に肘をつき、ペン先を動かすふりをしながら、目の前を行き交う人々を眺めていた。
笑い声が弾ける廊下、遠くから聞こえる音楽、誰かが落としたノートを拾ってあげる仕草。
すべてが柔らかな連なりとなって、彼女の世界を形作っている。
「綾音ー、昼休みカフェ行かない?」
「まどか、また新しい話題持ってきた?」
友達の無邪気な声が耳に届くたび、綾音は自然に笑った。
クラスでの彼女は太陽のようだった。
まどかと並んで歩けば、周囲はいつも和んだ。
誰にでも気さくで、誰からも好かれる。
それが彼女の長所であり、盾だった。
だが、笑顔の裏には大きな亀裂が隠れている。
綾音は自分でも説明できない、突き刺さるほどの恐怖を持っていた。
魔法という言葉が出るだけで、胸の奥が息を詰めるように重くなる。
火や影や、名前のない力の気配が少しでも近づけば、その時の記憶がふいに目の前に押し寄せる
――熱さ、焦げる匂い、暗い顔。綾音はそれを振り払うために笑い、喋り、目を逸らしてきた。
教室の隅、窓から少し離れた場所に、姫歌は座っていた。
彼女は目立たない。
細い体を黒いコートに包み、長い黒髪を片側に垂らしている。
クラスの中でもとりわけ静かで、話しかける者は少ない。
だが姫歌の視線はいつも綾音の方を向いていた。
綾音が笑うたび、彼女の胸は瞬く間に満たされる。
声にならない祈りが、毎日のように心の中で繰り返されていた。
姫歌は魔法使いだった。
闇を操る、暗い属性の魔法使い。
だがそのことは学校の誰にも知られていない。
彼女はその力を、夜の隅、影の間にひそかに隠して生きてきた。
指先から漏れる冷たい霧は、彼女の秘密であり、守るべき誓いの根源でもある。
綾音が幼い頃、ある火事が起きた。
記憶の断片はぼんやりとしていて、彼女自身が封じた記憶の深い層に沈んでいる。
逃げ惑う人々、煙の切れ間、そしてどこからともなく現れた黒い影。
綾音はその影に包まれ、救われた。
けれどもその時の恐怖は、いっしょに救われたはずの優しさを飲み込んでしまった。
だから綾音は、その時の顔を思い出さない。
顔があることさえ忘れてしまったのだ。
救ってくれたはずの少女は、彼女の記憶から消える。
ただ「魔法」という言葉だけが痛みを残した。
姫歌は知っている。
自分がその時の「影」であったことを、彼女の胸は知っている。
けれども口に出すことはできない。
綾音の心の中に残る恐怖を、これ以上刺激してはいけないと思っていた。
だから姫歌は静かに守る。
見えないところで、綾音の行く先に影を渡し、危険が近づけば先に押し留める。
誰にも知られない形で。
昼休み、教室の外で小さな騒ぎが起こった。
廊下で何人かの生徒が集まり、ささやき声が上がっている。
綾音が足を止めると、まどかが近寄ってきた。
「綾音、聞いた?今日、理科室で変な音がしたらしいんだって」
「へえ、なんだろうね」
綾音は肩をすくめた。
小さなことを気にしてはいられない。
だがその「変な音」という言葉に、胸の奥の寒さが微かに広がった。
放課後、綾音は友達と別れて図書室へ向かった。
夕暮れが校舎を茜色に染め、女の子たちの笑い声が遠くで響く。
図書室はいつも静かで、彼女にとって落ち着く場所だった。
棚の間を歩きながら、過去と未来が混ざるような不思議な感覚に襲われる。
綾音は目を閉じた。
すると、ふと、かすかな旋律が耳に触れたような気がした。
それは遠い、誰かが耳元で歌うかのような、暖かくも切ない歌だった。
その夜、綾音は悪夢にうなされた。
炎の中、誰かが笑う。
助けを求める声はどこへも届かず、彼女の足元は崩れ落ちる。
けれども暗闇の中で、黒い布がふわりと広がり、冷たい風が炎を押し込めた。
誰かに抱き上げられる感覚と同時に、見慣れたはずの顔がふっと離れていった。
夢から覚めた綾音は、胸に残る焦げた匂いを嗅ぎ取りながら、深く息を吐いた。
目の前に広がる天井のシミを見つめながら。
彼女は自分が何を見たのかを言葉にすることができなかった。
その翌日から、綾音は理由もなく情緒が不安定になった。
些細なことで涙が溢れ、授業中に思わず手が震えることもあった。友人たちは最初、ただの疲れだと思った。
だが綾音はそれを隠そうともしない。
彼女の笑顔は時折消え、代わりに不安が顔を覆った。
まどかは何度も彼女の肩に手を乗せ、励まそうとした。
だが綾音の心は高級な美術館の宝石箱の蓋のように固く閉ざされていた。
姫歌はそんな綾音を遠くから見守るしかなかった。
彼女はある夜、図書室の窓越しに綾音の影を見つめた。
綾音の肩が震えている。
姫歌の胸が締め付けられる。
どうして声をかけられないのだろう。
なぜ、自分の本当の姿を明かしてしまってはいけないのだろう。
心の中で葛藤が渦を巻く。
姫歌は自分の手のひらを見つめた。
そこには、冷たい闇の羽がふわりと残っているように感じられた。
翌日は小さな事件が学校で起きた。
理科室の実験器具が突然割れ、薬品の蒸気が充満する中、何人かの生徒が咳き込んだ。
幸い大事には至らなかったが、騒ぎはすぐに広がった。
教師たちが駆けつけ、扉の外に生徒たちを退避させた。
騒然とした中、綾音は息を詰めたまま廊下の壁に寄りかかっていた。
目の前に漂う白い蒸気の影が、炎に見えた。
記憶が押し寄せる。
彼女は走り出したくなった。
だが身体が言うことを聞かない。
そのとき、影が動いた。
黒い布のような影が、理科室の窓の向こうで膨らんだ。
綾音はその動きを見た途端、体が凍りついた。
だが次の瞬間、窓の向こう側で何かが光り、蒸気がふっと消えた。
教室の油断した呼吸が戻る。
人々は騒ぎを収めようとする教師に導かれて戻っていく。
綾音は立ちすくんだまま、何が起きたのかを理解できなかった。
夜、綾音は家の窓辺で手を震わせていた。
どうして自分はあんなにも恐怖を感じるのか、なぜ胸がこんなに痛むのか。
綾音は小さな声で呟いた。
「誰かが、私を救ってくれたの?」
胸の奥の空白に触れるような気持ちが、綾音の意識を埋め尽くした。
だが答えは出ない。
彼女は布団に顔を埋め、眠りにつく。
その夜、姫歌はこっそりと学校の屋上に上がっていた。
校庭は静まり返り、月が冷たく校舎を照らしている。
姫歌は自分の手のひらを見つめ、夜風が髪を揺らすのを感じた。
心は押し潰されそうだった。綾音がまた揺れている。
――そのことが、姫歌を眠らせなかった。
「綾音」
姫歌は小さく呟いた。
彼女の声は月に消えていく。
どれだけ近づいても、どれだけ守っても、綾音の恐怖が消えることはないのだろうか。
姫歌は自分に問いかける。
もし自分が全てを明かしたら、綾音はどうなるだろう。
誰かに嫌悪され、避けられるのだろう。
でも、それでも構わない
――ただ一度でいいから、綾音に安心してほしい。それだけで、姫歌は十分だった。
わからない感情が人生に影響を及ぼしていようと関係ない。
私はもう、あの子がいないとだめなのだ。
ある日の放課後、綾音は図書室で一冊の古い本を見つけた。
表紙は擦り切れていたが、開くと古びた挿絵の中に見覚えのある影が描かれていた。
黒い布が川面に広がり、炎を飲み込む様子。
綾音は胸が締め付けられるのを感じた。
手が震え、本を落としそうになる。
ふいに、背後に足音がした。
振り向くと、姫歌がそこにいた。
二人は視線を交えた瞬間、世界が止まったかのような静けさに包まれる。
「それ、面白い本だよね」
姫歌は無邪気に言った。
だがその声の奥には、深い哀しみが隠れている。
綾音は言葉を探す。
胸の奥の何かがきしむ。
記憶の片鱗が震え、名前のない痛みが蘇る。
綾音は息を吸い、やっとのことで針のように細い声を出した。
「あの…、ありがとう」
言葉が出た時、姫歌の顔に微かな光が差した。
だがその光はすぐに消え、彼女はまた静かに笑った。
しばらくして、綾音は一言だけ尋ねた。
「ねえ、あの時…私を助けてくれたのって、誰だったの?」
姫歌の瞳が一瞬だけ揺れた。
顔に一瞬の影が差し、彼女は少しだけ俯いた。
──そして別人のように平静を取り戻す。
「わからない。でも、誰かがいたのかもしれないね」
姫歌の答えは曖昧で、綾音の求めるものとは遠かった。
だがそのやり取りの中で、綾音は初めて姫歌の温度を感じた。
名前を知らなくても、その存在は確かにそこにあった。
夜遅く、綾音は部屋で窓辺に座り、一枚の古い写真を取り出した。
燃えた木々の間に小さな影が佇んでいる。
綾音は目を閉じる。
写真の角に指の跡が残っている
――それは誰のものだろうか。彼女は記憶の壁に手をつけるようにして、ゆっくりと指を滑らせた。
翌朝、学校へ行く途中、綾音はふと立ち止まった。
通学路の角、風が止まる場所で、彼女は誰かの気配を感じた。
振り返ると、遠くに黒い髪と黒いコートが映った。
姫歌はいつものように静かに、それでいて確かにそこに立っていた。
綾音は胸が高鳴るのを感じた。
恐怖と期待が混ざり合い、彼女は足を早めた。
教室に入ると、まどかがすぐに駆け寄ってきた。
「綾音、昨夜は大丈夫だった?」
優しい声に綾音は微笑みを返す。
「うん、大丈夫。ありがとう」
その言葉は自分に言い聞かせるためのものだった。
綾音は窓の外に目を向ける。
校庭の影が伸び、昼が近づいている。
誰かが見守ってくれているという思いが、不思議と心を温める。
その日の放課後、再び理科室で小さな騒ぎが起きた。
定期試験の準備で化学薬品を扱っていたグループが不注意で薬品をこぼし、煙が上がった。
生徒たちは慌てて外へ避難し、教師たちが消火器を取り出す。
綾音は遠巻きに見ていたが、心臓は早鐘のように打っていた。
もしまた何かが起きたら、あの黒い影は来てくれるだろうか。
頼ることが許されるのかどうかすら分からない。
騒ぎは教師たちの手際で治まりそうだったが、薬品の蒸気が予期せぬ反応を起こし、窓ガラスがひび割れる。
鋭い音が鳴り、ガラスの破片が廊下に散る。
その瞬間、綾音は視界が歪むのを感じた。
熱さが迫り、焦げた匂いが鼻を突いた。
彼女の体は勝手に動いた。走り出すつもりだった。
──なのに、足がもつれ、床に膝をついてしまう。
その時、廊下の向こうから影が走った。
黒いコートが宙を舞い、空気が一瞬で引き締まる。
姫歌の姿だった。彼女は理科室の窓辺に立ち、両手を広げた。
指先から冷たい霧が溢れ出し、火の手を押し込めるように広がっていく。
熱は急速に薄れ、破片の輝きが静まっていった。
教師たちは何が起きたのか理解できずに立ち尽くす。
生徒たちは拍手も忘れ、ただその場に固まったままだった。
綾音は膝の上で震えていた。
目の前の景色がゆっくりと戻り、まるで世界が呼吸を取り戻すかのようだった。
遠くから誰かが、
「救急車を呼べ」
と叫んだが、誰もが姫歌の方を見た。
彼女はゆっくりと振り返り、綾音と目が合った。
二人だけの時間が一瞬にして流れる。
綾音の胸は言葉にできない感情で満たされ、口を開けたまま息を詰めた。
姫歌の瞳は、いつもより少しだけ亮いて見えた。
そこには決意が宿っていた。
綾音は足がすくんで動けない。
心の中で何かが叫ぶ。
あのときの黒い影は、確かにここにいる。
――そしてその影は、今、私を守っている。
綾音はゆっくりと手を伸ばした。
指先が触れたのはほんの僅かだったが、姫歌の掌は意外なほど温かく、そして冷たかった。
姫歌は小さく微笑んだ。
「大丈夫、もう怖くないよ」
その言葉は綾音の耳に刺さり、同時に柔らかく溶けていった。
だが綾音の心は揺れ動いた。
恐怖は完全には消えない。
記憶の底にはまだ焦げた匂いが残っている。
綾音はその場から離れ、まどかやほかの友達の輪に戻った。
だが目線は何度も姫歌へと戻る。
彼女の中で、何かが確かに変わり始めていた。
夜。綾音は一人でベランダに出て、かすかな風に当たっていた。
胸の奥で揺れる気持ちを言葉にすることはできない。
不安と期待が同居する。
姫歌が自分を救ってくれたことを知りながらも、その正体を理解することが恐ろしい。
綾音は小さな声で呟いた。
「あの子は誰なんだろう」
答えは見つからないけれど、確実に一つの真実が心に宿っていた。
誰かが、ずっと私を見ていてくれた。
忘れられた記憶の影が、少しだけ揺らいだ。
空には満天の星が瞬き、街の灯りが静かに息をしている。
綾音はその光を見つめながら、どこかでまたあの歌を聞いた気がした。
耳の奥でかすかに流れる旋律。
それは姫歌の祈りなのか。
あるいは綾音自身の心が呼び戻したものなのか。
答えはまだ遠い。
けれども物語は少しずつ動き始めていた。
綾音の記憶の影は、暗闇の端で微かに震え、姫歌の想いは夜風に溶けて広がっていく。
教室の窓ガラスに映る二人の姿は、まだはっきりとは結ばれていない。
だが確かに、その距離は縮まりつつあった。
そして姫歌の心には、綾音を守るという黒い誓いが深く刻まれている
理由のわからない、「守りたい」その感情は誰にも、もう誰にもわからなかった。
――たとえ嫌われ、たとえ拒絶されても、彼女は綾音を守り続けると。次第にその誓いは、やがて来る嵐の前触れのように強さを帯びていった。