綾音の夢は、夜ごと少しずつ色を濃くしていった。
眠りに落ちるたびに、彼女はあの炎の中へ還される。
だが以前とは違う。
炎の中心にはいつもあの黒い影がいて、影は綾音を包むようにして守り、そしていつも、静かに歌っている。
歌は言葉にならないメロディで、綾音の胸にしみ込むと同時に、焼け跡の匂いを呼び起こした。
目覚めると綾音は汗で髪を濡らし、布団を握りしめたまましばらく動けない。
朝日がカーテンを透かして差し込み、世界は日常を装っている。
だけど綾音の内側では、夢の旋律がくすぶり続けている。
教室ではいつものように笑い、友達と冗談を言い合う。
けれどふとした瞬間に、目の奥がざわつき、言葉がつまる。
綾音は自分の変化に戸惑っていた。
夢の記憶は鮮明だが、現実の彼女はその理由も、誰に話すべきかもわからない。
まどかは綾音の変調に気づき、放っておけなかった。
「綾音、最近よく寝てないでしょ? 大丈夫?」
と、昼休みに二人で買ったカフェアメを分けながら問いかける。
綾音は一瞬迷ってから、うつむいて
「ちょっと変な夢を見て…」
とだけ答えた。
まどかは優しく笑って
「疲れてるんだよ、きっと。今度一緒に映画でも見に行こう」
と言ったが、その提案に綾音は即答できなかった。
心のどこかで、夢の中の影が誰かに触れられることを恐れていた。
姫歌は、綾音の変化を静かに見守っていた。
彼女は学校の片隅で、自分の掌に残る夜の冷たさを確かめるたびに胸を締め付けられた。
綾音の夢の中で流れる歌は、姫歌の知らないところで彼女の心をかき乱している。
姫歌はその歌の一節を思い出したことがあったが、それは囁きのように掬い取れるだけで、全体は霧に包まれている。
姫歌は自分の感情が理性を上回る瞬間を恐れつつも、綾音のためにできることを考え続けていた。
そんなある夜、姫歌はふとしたきっかけで図書室の古い棚の裏に隠された一枚の紙きれを見つける。
紙には古い歌詞の断片が走り書きされていたのだった。
そこには、
「闇より深く、光より静かに」
という一節があった。
姫歌はその言葉に胸を刺された。
彼女は自分が綾音のために歌ってきた詩の断片を思い出し、知らず知らずのうちに指先でその紙の文字をなぞった。
指先が震え、紙の端が掠れた。
姫歌は自分が夢の源に近づいているのだと感じたが、同時に不安も募った。
夢の核心に触れれば、綾音の恐怖はどう変わるのだろうか。
真実は守るもののために残しておくべきか、あるいは明かすべきか。
綾音の夢は、ある晩を境に鮮明さを増した。
夢の中、彼女は火の廊下を歩き、逃げ惑う人々の叫びが周囲を覆う。
だが今回は、黒い影はただ守るだけではなかった。
影は綾音の手を取って引き寄せ、ふたりは火の中で向かい合う。
影の中の姫歌は、目を伏せたまま綾音に何も言わず、ただ額を綾音の額に寄せる。
暖かさが伝わり、綾音は初めてその抱擁に安心を覚えた。
しかし同時に、意識の奥底で何かが砕ける音がして、夢の終わりに綾音は必ず涙を流すようになった。
朝のホームルームで、綾音の目は赤く腫れていた。
教師は早退を勧めたが、綾音は「大丈夫」とだけ言い、無理に笑顔を作ってクラスに残った。
女子たちは根掘り葉掘り聞くわけではないが、まどかは綾音の様子に気づいており、放課後に一緒に帰ろうと提案する。
綾音は頷く。
だが帰り道、綾音は足を止め、空を見上げた。
風間凛が通りかかり、気づいたように「何か見える?」と訊ねる。
綾音は首を振ったが、心は答えを求めていた。
綾音が夢のことを誰かに話す日を選んだのは、風間凛がいない放課後の図書室だった。
まどかは買い物で遅れると言い、綾音は一人で古書棚の前に座る。
彼女は心臓が跳ねるのを感じながら、紙の端に書かれた文字や写真を見つめた。
綾音はついに口を開く。
「私…ずっと忘れている何かがある気がする。火事のこと。誰かが私を助けてくれたことは覚えてる。でも、その人の顔が見えない。夢の中では見えるんだけど…」
声が震えた。
図書室の扉が静かに開き、姫歌が入ってきた。
縁の窓から差す夕暮れの光が、彼女の輪郭を柔らかく照らす。
姫歌は黙って綾音の隣に座り、封じられたはずの記憶の断片を薄く辿るように綾音の顔を見た。
綾音は少し勇気を振り絞って訊ねる。
「ねえ、もし私の夢に出てくる子が、現実にもいるなら…私はどうすればいい?」
姫歌は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「その子があなたを守ってくれたなら…まずは、その人の存在を受け止めてほしい」とだけ言った。
綾音はその言葉を聞いて、胸の中に生まれた複雑な感情を抑えきれなくなった。
「でも、魔法が怖いの。あの炎の匂いがするだけで、体が震える。私がその人を思い出したら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない」
涙がぽろりとこぼれた。
姫歌はそっと手を差し出したが、綾音はすぐには取らなかった。
手が触れ合うことが、恐怖の一歩になると感じたからだ。
姫歌は静かに手を引っ込め、その代わりに遠くから綾音を見つめた。
彼女の目には悲しみと、諦めない強さが混じっていた。
それから数日、綾音の夢はさらに深刻化する。
昼間のちょっとした物音や、教室での実験のにおいが、瞬間的に彼女を過去へ引き戻す。
授業中に突然涙が出ることもあり、生徒たちの噂は徐々に広がる。
まどかは綾音を守ろうとし、周囲の友人たちもできる限り彼女に寄り添うが、綾音自身は次第に孤独感を深めていく。
彼女は誰にも本当のことを言えなかった。
言えば姫歌を遠ざけてしまうかもしれない。
言わなければ。自分は壊れていく。
一方、姫歌の内側では別の葛藤が燃え上がっていた。
姫歌は自分の力を抑えて綾音に近づくことを繰り返すが、その度に自分の手から零れる闇の気配が綾音の夢を濃くしてしまっているのではないかと自責する。
彼女は綾音を守るために生まれたはずが、知らぬ間に綾音の痛みを増幅させているのではないかと、夜ごと自問自答した。姫歌の胸は張り裂けそうになり、ただ静かに綾音の笑顔を取り戻す方法を探していた。
ある夕暮れ、校庭のベンチで綾音とまどかが話していると、翼が現れた。翼は物静かに近づき、遠慮がちに声をかける。
「綾音、大丈夫か?」
綾音は一瞬戸惑ったが、翼の誠実そうな顔を見て少し微笑む。
「ありがとう、でも大丈夫」
翼はその笑顔の裏にある影を見抜いているようにも見えたが、深くは詮索しなかった。
彼はただ手に持った古い救急箱のバンドエイドを差し出した。
「念のため」
と言って立ち去った。
綾音はその優しさに胸が温かくなるのを感じ、同時に申し訳なさを抱いた。
自分が誰かの優しさを受け取ることで、姫歌の負担になるのではないかという思いが斜めに絡みついた。
ある夜、綾音はついに姫歌に向き合う決心をする。
学校の帰り道、校舎の影が長く伸びる頃、綾音は姫歌の姿を見つけた。
姫歌はいつもの場所に立っていて、月灯りに黒髪が揺れている。
綾音は足を止め、震える声で言った。
「教えて、あなたは…あの時の子? 私を助けてくれた子は、あなた?」
姫歌は一瞬胸の内で揺れを見せたが、すぐに静かに首を振った。
「わからない、綾音。私が答えを出すことで、あなたがもっと傷つくなら、私はそれを選べない」
綾音はその言葉に打ちのめされ、足がふらつく。
「どうして…どうして黙るの?」
姫歌は目を伏せ、
「黙るのは、あなたを守るため。あなたが安心するなら、私のすべてを投げ打つ覚悟がある」
と答えた。
綾音は涙を堪えられず、膝をついた。
姫歌はそっと座り、距離を縮めようとしたが、綾音は首を振って手を伸ばさせない。
二人の間に分厚い壁があることを互いに知りながらも、その壁をどう崩すべきかは見えない。
綾音は叫びにも似た声で
「お願い、どうしたらいいの?」
と言った。
姫歌は黙って、ただ綾音の横顔を見つめた。
彼女の瞳には痛みが満ちていたが、同時に揺るがぬ決意も宿っている。
その夜、綾音は一人、自室の鏡の前で自分の顔を見つめた。
涙や疲労の跡が残る顔は、毎日少しずつ変わっているように思えた。
胸の奥にあるのは、恐怖と同じくらいの愛おしさだった。
誰かに守られていたことを思い出すたび、綾音は自分を守ってくれた存在に申し訳なさを感じる一方で、救われた自分を肯定したい気持ちも芽生えている。
綾音は鏡に向かって囁いた。
「あなたは、どこにいるの?」
返事はない。
だけど、窓の外の風がかすかに歌のように聞こえた気がして、綾音は耳を澄ませた。
翌朝、綾音はいつものように学校に向かったが、心の中の決意は少し変わっていた。
彼女は逃げるより、向き合うことを選びたいという気持ちが芽生え始めていた。
だがその決意は、同時に恐れと背中合わせだった。
教室の扉を開けると、まどかがすぐに寄ってきて
「なんか今日、綾音ちょっと違うね!」
と元気づける。
綾音は小さく笑ったが、その笑顔の奥には覚悟が光っていた。
姫歌は遠くからその様子を見つめ、胸が締めつけられた。
綾音の中に生まれた小さな強さを感じながらも、姫歌は次に何をすべきかを考えていた。
心の中で彼女は一度だけ弱音を漏らす。
「もし、私が正体を明かしたら、綾音は…」
答えはわからない。だが一つ確かなことがある。
それは、姫歌がどれほど壊れても、綾音を守る意志を曲げることはないということだった。
綾音の夢はまだ消えていない。
だがその夢の縁取りには、少しずつ色が付け加えられている。
黒い影の中に見える小さな明星、冷たい闇の中に差し込む一条の光。
綾音はまだ恐怖と向き合いながらも、いつかその恐怖をやわらげる誰かの存在を求めている。
そして姫歌は、その誰かであることを、ただ静かに、だが確実に心に誓っている。
次第に二人の距離は近づき、揺れる心の行方は、やがて大きな転機を迎えることになる。
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