テラーノベル
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それから少しずつ、
本当に少しずつ。
涼ちゃんは
「普通」に戻ろうとしていた。
いきなり笑えるようになったわけでも、
全部話せるようになったわけでもない。
ただ――
閉じきっていた扉を、
毎日ほんの数センチずつ
開け直しているような感じだった。
スタジオでは、
鍵盤に向かう時間が短くなった。
代わりに、
元貴のどうでもいい話に
小さく息を吐くような笑いを返したり、
若井が持ってきたコーヒーに
「ありがとう」と言えたり。
それだけのことなのに、
二人は気づいていた。
(戻ろうとしてる)
だから、
元貴も若井も
言葉にしない約束をした。
――1人にしない。
露骨に張り付くことはしない。
でも、
気づけば視界に入る距離にいる。
元貴は、
何でもないタイミングで声をかけた。
「腹減ってない?」
「今日の音、良かったよ」
「帰り、同じ方向だろ」
励ましすぎない。
重くならないように。
若井は、
もっとさりげなかった。
涼ちゃんが無言で座っていれば、
近くで同じように座る。
話したくなさそうなら、
無理に聞かない。
でも、
立ち上がる時は必ず言う。
「俺、そこいるから」
その一言だけ。
涼ちゃんは、
何度も救われた。
(見張られてるわけじゃない)
(でも、
放り出されてもいない)
それが、
何よりありがたかった。
ある日。
スタジオでの休憩中、
涼ちゃんはふと顔を上げて言った。
「……今日さ」
元貴と若井が、
同時に見る。
「帰り、
一人で帰ってもいい?」
一瞬、
空気が止まる。
元貴は反射的に
何か言いそうになったが、
若井が小さく手で制した。
若井は、
静かに聞き返す。
「大丈夫?」
涼ちゃんは、
少し考えてから頷いた。
「……大丈夫、だと思う」
その言葉は、
前みたいな空虚な「大丈夫」じゃなかった。
若井は、
短く笑って言う。
「じゃあ、
着いたら一言だけ送って」
「それでいい」
元貴も、
少し遅れて頷いた。
「無理だったら、
途中で呼べよ」
涼ちゃんは、
ほんの少し照れたように笑った。
「……うん」
その背中を見送りながら、
元貴はぽつりと言う。
「戻ってきてるな」
若井は、
視線を外さず答える。
「戻るっていうか」
「ちゃんと、
自分の足で立ち直ろうとしてる」
二人は、
追いかけなかった。
でも、
手の届く距離から
目を離さなかった。
涼ちゃんはまだ、
完全じゃない。
また沈む日も来るかもしれない。
それでも――
今度は違う。
閉じる前に、
手を伸ばせる場所があることを、
涼ちゃん自身が
もう知っているから。
――――――
閉じたドアの向こうでーー終
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