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早く八尾首市に帰って明日からのイベントの準備をしたかったのに、紫雨からいろんな雑用を頼まれ、結局戻ってきたのは夕方だった。
「篠崎さん、怒ってるかな……」
長靴に履き替えてから車を出ると、いつの間にか雪がちらついていた。
今夜はまた積もるかもしれない。
由樹は白い息を吐きつつ、事務所へ向かった。
と、管理棟の裏で牧村と篠崎が一緒にいるのが見えた。
牧村が何かを篠崎に渡している。
(……なんだろう……)
篠崎が牧村を呼び止める。
牧村が笑顔を向けている。
篠崎が呆れたように笑う。
――いつからこんなに親しくなったのだろう。
(……あんなの、恋人の浮気相手にする態度じゃないよな……)
いよいよ予感が確信に変わり、由樹は暗い気持ちで項垂れた。
と、そのとき胸ポケットに入れた携帯電話が震え出した。
【天賀谷展示場】
「はい、新谷です」
『あ、新谷君、今日はお疲れねー』
力の抜けた秋山の声だった。
「お疲れさまでした。すごく勉強になりました。ありがとうございました」
言うと、
『いやいや、勉強になったのは向こうも同じですよー』
また間延びした声が帰ってきた。
『それでさ、新谷君。さっきの柴田部長がさ……』
「え、あの方、部長だったんですか?」
『そうだよー』
新谷は柴田の顔を思い出した。
どう見てもまだ30代か40歳そこそこで、若くてはつらつとしている様子だったが。彼がセゾンエスペースの未来を背負って立っている開発部の部長だったとは―――。
『その柴田部長からの直々の推薦なんだけど……』
「はい?」
『新谷君、開発部に興味ある?』
「……え?」
由樹はその場に立ちつくしたまま、秋山の話を聞いた。
そのうちに後ろから篠崎の足音が近づいてきた。
「おかえり」
肩を叩かれる。
「あ、ただいまです」
通話口を抑えて小さな声で返すと、彼はフッと笑って事務所の方へ歩いていった。
『どう?引き受けてみる気はない?開発部では、現場経験も知識もある君みたいな人材を求めてるんだけど』
全て話し終えてから秋山は言った。
―――やっぱりお前はすごいよ。新谷に任せておけば、うちの太陽光パネルも安泰だな。
先日、篠崎が褒めてくれた言葉を思い出す。
―――セゾンを背負って立つ男だ!お前は!
「…………」
この話を受けたら、篠崎も喜んでくれるだろうか。
『僕もサポートするから。前向きに考えてくれると嬉しいんだけどな…』
秋山が言う。
由樹は一つ頷くと、聳え立つ八尾首展示場を見上げながら言った。
「わかりました。私でよければ。よろしくお願いします……!」
「ちょ!!大事件大事件!」
管理棟にジュースを買いに行っていた渡辺が騒ぎながら帰ってきた。
「新谷君、金子、細越!大至急集合!」
「え、何ですか……あっ!」
隣に座っていた新谷が瞬く間に渡辺に引きずられていく。
「どうした」
言うと、渡辺は振り返った。
「配役変更です!」
「変更?」
篠崎が眉間に皺を寄せると、渡辺は説明する間も惜しいらしく、金子と細越も引っ張る。
「篠崎さんは明日を楽しみにしててください!あ!あと効果音とBGMもお忘れなく!」
同時に引っ張られた3人は狭い出入り口でお互いの頭をぶつけた。
「何してんの!!早く!」
渡辺が叫び、頭を抱えた3人が事務所からよろけながら出ていく。
窓を開けて外を見ると、管理棟の前で牧村が3人を出迎えていた。
後ろにはファミリーシェルターの後輩とみられる、男たちが2人並んでいる。
「急げ急げ―」
牧村が笑っている。
その笑顔を見ながら、篠崎はため息をついた。
さきほどあんなことがありながら笑っていられるなど大したものだ。
それどころかあんな針の筵のような会社で、四面楚歌の展示場で、よくやってきたと思う。
あんなにわかりやすく身体を鍛えているのも頷けた。
彼は自分で自分を守らないと今までやってこれなかったのだ。
そしてきっとそれは――これからも続く。
彼を想う。
がむしゃらに勉強し、知識を吸収して、築き上げた営業スタイル。
それをフルに活用し、目の前の客を次々に口説き落とすセンス。
周りの展示場は敵だらけ。
自社の展示場にだって味方はいない。
そんな過酷な環境の中で、出会った新谷の存在。
にこにこと屈託なく自分に懐く新谷は、きっと彼にとって砂漠に咲いた一輪の花のように、キラキラと輝いて見えただろう。
それは新谷を天賀谷まで追いかけたくなるほどに。
強引に飲みに誘いたくなるほどに。
それでも彼は、新谷に手を出したりしなかった。
牧村が新谷に手を出した理由は――――。
(……俺が新谷を裏切ったと思ったからだ)
鈴原夏希と並んで歩き、彼女の娘である葵を背負って連れているのを彼が見たからだ。
新谷のことを考えて、
新谷のことを想って、
だから彼は篠崎に言った。
「俺に言うことはないのか」と。
篠崎に応戦するつもりで。
いやもっと言えば、篠崎から新谷をぶんどるつもりで言ったのだ。
「……あいつでも、いいんだよな……」
篠崎は謎の言葉を呟くと、一服つけようと、胸ポケットを探った。
「あ」
何かが指先に当たった。牧村から預かったUSBだ。
「……いやいや、劇の練習するなら効果音も合わせないとダメだろ…」
言いながらそれをパソコンにつなぎ、ファイルを開く。
「ん?」
篠崎はそのファイルを見つめた。
間違いなく音源ファイルだ。
しかし――。
【11月28日】
【11月29日】
『事務所じゃなくて、お家で、聞いてくださいね……?』』
牧村の言葉が蘇る。
「…………」
篠崎は灯りのついた管理棟を睨むと、黙ってUSBをパソコンから抜いた。
◇◇◇◇◇
篠崎は、部屋のライトもつけずにパソコンを起動した。
自動で点灯する玄関ホールの昼白色の光だけが、真っ暗なリビングを照らしている。
キンと高い音がしてデスクトップが光る。
篠崎は上着も脱がずにその前の椅子に座り、USBを入れた。
ググググと小さな音がして、ファイルがパソコンに読み込まれていく。
【11月28日】
その文字と音符のアイコンを睨む。
その日付だけは忘れるはずがない。
あいつの――新谷の誕生日だ。
本当であれば、予約も困難なホテルでディナーを食べて、朝まで一緒にいるはずだった日だ。
(何が記録されている……?)
マウスを掴む。
しかしそこから指が動かない。
この先にあるものの、扉を開くのが怖い。
せっかく整理した頭の中を、飲み込んだ心の中を、ぐちゃぐちゃに乱されそうで怖い。
篠崎は深く息を吐いた。
そしてその音符マークを睨むと、カーソルを合わせ、クリックした。