コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
『懐妊した。呼ぶまで来るな。H』
今、まさにハンクが戻った報せを聞いて忍んでいこうと平民の服まで借りて着込んだのに、ゾルダークの使者に渡された報せがこれだよ。この前産んだばかりじゃないか!赤子は歩いてもないはずだぞ!そんなに…そんなに…羨ましい!ハンクめ…あの子が過労死するぞ。とうとうカイランはアンダルと同じになるか。次も男ならもう要らないもんな。まだ子に会えてもないのにさ。呼ぶまでか…いつになるんだよ。待つしかないか。あの子はジェイドの婚姻式には参加しないな。ディーター夫人は多産家からの嫁入りだったか…孕みやすいのも大変だな。
ジェイドは俺と話してからやけに静かだ。余計なこと言ったかもしれない。俺の願望を混ぜてしまったからな。叶えようとしたときには俺はここにいない。離宮にいるからな。国が滅ばない程度なら好きにしたらいいさ。…ハンクに怒られるかな。
お腹のむかつきで目が覚める。二度目だから慣れたものだわ。盥を手に取り、出るものなどないけど流されるままえずく。むかつきが治まり布で口回りを拭いて器から果実水を飲む。朝の光が眩しい。まだ薄い腹に手をあて温める。
後ろから大きな手が伸ばされ私の手に重なる。
「起こした?」
「起きてた」
寝台の端に座る私を大きな体で囲い頭に口を落とされる。寄りかかって頭を預ける。
「食えるか?」
「スープね」
「テラスに行くか」
そうね、外は気分が変わっていいわ。部屋に匂いも籠らないからハンクと共にいられる。
「一緒に食べてくれる?」
「ああ」
ハンクはベルを鳴らし朝食の準備を命じている。もう少し横になりたくて寝台に寝そべると後ろから大きな体が包んでくれる。
「絵を見に行けないわね」
出来上がりは一月と絵師が言っていた。ここの邸にはハンクだけの絵が送られてくる。それも楽しみだけど、私達の絵はもう描けない。いつか処分をしなければならない物。数は増やせない。
「運ばせる」
「いいの。子が生まれたら連れていって。楽しみにとっておくわ」
巻き付く腕に口を落とし窓外に目を向ける。
「奴がお前に会いたいと言ってる」
「カイラン?何かあったの?」
「二人目ができたら手と髪に触れていいと俺が言った」
そうだったわね。そんなことを言っていたわ。
「ふふっ手と髪に触れに来るの?一房切って渡す?」
「駄目だ」
「何か言いたいことでもあるのかしら」
絡まる腕を撫でて温もりに浸る。
「側にいてくれるでしょう?」
ハンクは二人きりでは会わせないと言っていたわ。
ああ、と言って私の頭に頬擦りをしている。絡まる長い髪を梳かさないと。テラスには私達の朝食の準備に使用人が動いている。隠れて会っていたのが嘘だったようにハンクは隠すことを止めた。この邸で働く者に周知させているかのように私達は共にいる。よく外に漏れないわね。
夜着から着替えもせず、ハンクのガウンを羽織りテラスに出てスープを啜る。野菜を柔らかく煮込んで余計な味は入れず、料理番が工夫して作ってくれている。レオンを宿したこの時期は肉が食べられなくなった。それを覚えていたみたい。
「美味しいわ」
いつものようにハンクは大きく口を開けてたくさん食べていく。
「俺は執務室にいる」
「寝室にいるわ、治まったら気晴らしに花園を歩こうかしら」
「騎士から離れるなよ」
随分休んだもの、ハンクの仕事は溜まっているはず。レオンに渡すハンカチはもう少しで終わるわ。腹が膨れている間にハンクに渡すものを刺して仕上げたいわね。
食べ終えたハンクは私に近づいて足元に座り込み膝に頭を乗せ下から見上げている。お互い身支度もせず外に出た。ハンクの濃い紺は少し寝癖が残ってる。頬に触れると髭がちくちくと私の手に刺激を送る。口を開けるから匙ですくって飲ませると味が薄いと呟いた。このスープのおかげで吐かずに食べられるのに。
「私が痩せたでしょ?料理番が考えてくれたのよ。とても食べやすいの。吐き気も少ないのよ」
甘える濃い紺を撫でながら匙で運んで口に入れる。行儀が悪くてもここには私達だけ。ハンクは黙って私を見つめている。レオンのときも私を失うことを恐れていた。今回も同じ思いをさせてしまうわね。
「後を追うのでしょう?」
「ああ」
前はオットーが不安定な私を慰めてくれた。もう老公爵はいない。カイランとレオンしか残らない。落ち着いたらカイランは後妻を娶るわね…レオンが心配だわ。ゾルダークは落ちていくわね。まだ逝けないわ…
「気にするな」
匙が止まり思考にふける私をハンクが呼び戻す。力強い黒い瞳が私を捉えている。
「全てお前の子が引き継ぐよう手配して逝く」
「できるの?」
「お前の憂いは残さん」
カイランを殺すように指示を出すのかしら。中継ぎをしてもらわないと困るのに。ここまで言い切るなら任せるわ。
「お願いね、私達の子を不幸にしたくない」
カイランはレオンを可愛がっているけど、愛する相手が現れたらどうなるか、簡単に想像できる。
「ああ」
自信たっぷりね。癖のある髪を撫でる。ハンクは椅子ごと私の腰に巻き付いた。私は食事を再開しスープを口に運ぶ。また花園を歩いて体力をつけなければ…
朝の穏やかな空気の中に親子ほど年の離れた二人が寄り添い話をしている場面を上階から見つめる。自分の主はすでに執務室で書類を捌き忙しい一日を始めている。己の不手際が今の事態を招いた一因だが、あの二人は異常に執着しあっている。カイラン様は可哀想だが、自分が従者に選ばれたのはこのためかと思うほど、あのお二人は幸せに見える。あれはハンク・ゾルダークではない、と思うほどに様変わりした。よく見れば口角が上がり笑んでもいる。キャスリン様は特別に美しいわけでもなく、男が好む体型でもない。なのに旦那様は欲に溺れた若者のようにあの小柄な体に幾度も精を吐き出し離さない。口止めなど無理な話なんだ。精と液に汚された布を洗うのは使用人だ。途中からは香油まで染み込ませているらしい。何に使用したかなど気付く者は多いだろう。忍んで会っていたのが嘘のように隠さなくなった。特定の使用人としか話さないだろうが、この邸には百近くの者が働いている。中には下衆な言葉を吐いた者もいたらしいが、姿を消したと聞けば皆が口を開けなくなり、下級使用人の声さえ旦那様には届くのかと皆が震えた。外には漏らせないこの状態。脅してはない、始末したんだろうな。俺はカイラン様に待てと諭したが、旦那様の想いだけではないあの二人の様子を見るとハロルドさんの提案を今からでも勧めたい。きっと触れることなど無理だ。伸ばした手を折られるだろう。だが、元は自分のものだった女性だ、諦めきれない気持ちも理解できる。旦那様が死ぬのを待ち、頭を下げて後追いを阻止しようとしても無理に見えるが、カイラン様の意思はどれほど強いか…非情にならなければキャスリン様は永遠に手に入らないだろうな。
髪と手に触れる許可を与えられたが、交わした約束は反故にされそうだな。