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ようやく火照った顔を両手で叩き、穂乃果は逃げるようにキッチンへ向かった。
仕事へ行く前に、何かお腹に入れておかなくてはならない。
(あ、そうだ。昨日の残り……)
昨夜、自分が食べたあとに残しておいた生姜焼き。ラップをして冷蔵庫に入れてあったはずのそれを思い出して扉を開ける。けれど、そこにあるはずのタッパーは、どこにも見当たらなかった。
「……え?」
視線を泳がせると、シンクの脇にある水切り籠が目に留まった。
そこには、きれいに洗われて伏せられたタッパーと、箸。
――食べてくれたんだ。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥にじんわりと、温かい灯がともった。
ナオミは掃除には無頓着だけれど、穂乃果が整えた場所や、用意したものを無下にはしない。不器用なほど潔く洗われたタッパーを見ていると、言葉で「おいしかった」と言われるよりもずっと、自分の居場所を認められたような気がして、思わず頬が緩んだ。
これだけで、今日一日頑張れる気がする。
そんな単純な自分を可笑しく思いながら、パンを焼こうとしたその時。
「穂乃果」
ひょこっ、と自室からナオミが顔を出した。
今度はちゃんと服を着ている。けれど、髪はまだ少し湿っていて、その無防備さが先ほどの衝撃を呼び起こし、穂乃果の手が止まる。
「あ、はい」
「アンタ、明日休みだったわよね?」
ナオミは、壁に寄りかかりながら、どこかぶっきらぼうに言った。
「今夜なんだけど。悪いけど、お店の手伝いに来てくれない? 予約が詰まっちゃって、アタシ一人じゃ回しきれないのよ」
「お店に……?」
予想外の誘いに、穂乃果は目を丸くした。
「もちろん、無理にとは言わないわ。アンタも日勤続きで疲れてるでしょ。無理そうなら事前に連絡してくれればいいから。……どうする?」
ナオミの言葉は、いつも通り突き放しているようでいて、その実、穂乃果の体調を最優先に考えている。
直樹にいた頃は、「やって当たり前」の無茶振りに応えることだけが自分の価値だと思っていた。けれどナオミは、断る権利をちゃんと穂乃果の手に握らせてくれている。
その信頼が、何よりも嬉しかった。
「行きます。……私でよければ、ぜひ」
即答した穂乃果に、ナオミは一瞬だけ驚いたように眉を上げ、すぐに「ふん」と鼻を鳴らした。
「決まりね。じゃ、夜、お店で待ってるわよ」
そう言い残して、ナオミは再び部屋へ消えていった。
キッチンに残されたのは、焼けたパンの香ばしい匂いと、期待に跳ねる自分の鼓動。
――ナオミさんの力になれる。
その高揚感が、これから職場で待ち受けているかもしれない不穏な気配を、一瞬だけ忘れさせてくれた。
かんな
あかね ♛❤️♛