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「腕を下げて、上げる。呼吸することを忘れずに。繰り返す動作をリズミカルに音楽に合わせて。足も忘れずに動かして」
そう言って、常磐さんは私から離れ、元の位置に戻った。
何だかホッとしたけど、安堵感と同じくらい残念なこの気持ちは何なの?
インストラクターなんだから体に触れてもおかしくない。もちろん、私だけが特別だなんて思ってない。なのに、どうして私はこんなにも……
「いい感じ。だんだんハードになっていくから」
「え? あの、これって初心者コースですよね? 何だかキツくないですか?」
思わず本音が出てしまった。
「ストレス発散。笑顔で動いてるうちに嫌なことを忘れられるから」
嫌なこと?
そうだった――
あの時、常磐さんはそのために私を誘ってくれたんだった。そっか、これは、この人なりの「人しての優しさ」なんだ。
「はい。頑張ります」
「良い返事だ。最後まで楽しんで」
そうして、私の初めてのレッスンは一通り終了した。終わってみればあっという間で、体もしっかり動かせて、常磐さんの言った通り、嫌なことを忘れられた。
「ありがとうございました」
私は常磐さんにお礼を言って、勧められるままに温泉施設がある階に向かった。
本格的な施設にも引けを取らない造りに驚きながらも、露天風呂に浸かり、空を見上げると、久しぶりに心身ともにリラックスしていることに気づいた。
思わず、感謝が溢れる。
しばらくはお風呂を堪能し、着替えを済ませて出てきたら、そこは広々としたガラス張りの見学席で、下のプールを見渡せるようになっていた。
「常磐さん……」
未来の競泳選手を目指してレッスンを受けている子ども達が見え、そこには、さっきまでとは違う真剣な表情の常磐さんがいた。思わずドキッとする気持ちを抑え、子ども達に指導する姿を食い入るように目で追った。
「見て見て! 理仁様がいるわよ」
「うわぁ、今日も素敵だわぁ。あの体に触れてみたい」
「ダメダメ、理仁様の体はお触り禁止よ。あの肉体はみんなのものだから」
「ねえねえ、さっき、理仁様に指導してもらってた会員の女見た? 体に触れられてたのよ~。2年通ってる私でさえ触れられたことないのに。悔しい」
もしかして「会員の女」って私のこと?
向こうで話してる2人の女性に圧倒され、思わず顔をタオルで隠した。
「理仁様が女性会員の体に触れるなんて珍しいわね。何かの間違いじゃないの?」
そ、そうなの?
でも、体というか腕だけなんだけど……
「確かに触ってたの。プールサイドから睨みつけてやったわ。見つけたら文句言ってやる」
こ、怖い。
私は、さらにタオルで顔を覆った。
「理仁様」だなんて、このスクールには常磐さんの熱狂的なファンが大勢いるのは間違いないようだ。
それにしても、常磐さんの泳ぎ……
見本を見せるためのクロールのフォームがとても美しく、息継ぎもスムーズで、スピードもかなり早い。他のインストラクターさん達もいるのに、ただひたすら常磐さんを見つめてしまう。
どうしたんだろ……
私、常磐さんのことを?
そんなはずはない。
あの事件以来、「絶対にもう誰も好きにならない」って決めたんだから。