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三日月さくら🎼🍵👑🌞
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※本作は、実在の人物・団体とは関係のない創作です。
この11話目の中に
いくつもの日の話が入っています
2万文字くらいです
=星 の な い 夜 に 、 君 と 灯 り を =
第一章 〜 雨 の 音 を 聞 く 〜
雨の日は、音が多い。
窓を叩く音。
遠くを走る車の音。
空調のかすかな唸り声。
誰かが廊下を歩く音。
そして、それらすべての隙間に入り込む、自分の呼吸の音。
俺は、そういう日が嫌いではなかった。
何かを話さなくても、世界のほうが勝手に喋ってくれるからだ。
「……まだいたのか」
収録を終えたスタジオの隅で、俺が窓の外を見ていると、背後から声がした。
振り返らなくても誰かはわかる。
「小柳くんこそ。帰ったんじゃなかったの?」
「忘れ物」
「何を?」
「……やる気」
「それは最初から持ってきてなかったでしょ」
そう言うと、小柳くんは小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかはわからない。たぶん、そのどちらもだった。
「星導、まだ帰らないのか」
「雨が止むまで」
「いつ止むかわからないぞ」
「じゃあ、止むまでここにいる」
「風邪引くぞ」
「小柳くんが傘を貸してくれれば解決するね」
「俺の傘、小さい」
「相合い傘を提案してる?」
「してない」
即答だった。
けれど小柳くんは、俺の隣まで歩いてきた。
窓の向こうでは、街の灯りが雨に滲んでいた。赤信号も、コンビニの看板も、ビルの明かりも、まるで水の中から見ているみたいにぼやけている。
綺麗だと思った。
綺麗なものは、いつだって少し遠い。
手を伸ばしたら届きそうで、けれど触れた瞬間には形を失ってしまう。
「今日、元気なかったな」
小柳くんが言った。
「そう?」
「そう」
「小柳くんって、意外とよく見てるよね」
「意外ってなんだ」
「だって、俺のことなんか見てないと思ってた」
口にしてから、少しだけ後悔した。
冗談のつもりだった。軽く笑って流すつもりだった。
でも小柳くんは笑わなかった。
しばらく雨の音だけが続いた。
「見てる」
やがて、小柳くんは言った。
「俺は、星導を見てる」
その言葉は、思ったよりまっすぐだった。
だから俺は、ふざけて返すことができなかった。
「……ずいぶん、急だね」
「何が」
「そういうこと、普通に言うんだ」
「言うだろ。見てるんだから」
「そっか」
窓に映った自分の顔は、笑っているようにも、泣きそうにも見えた。
俺はよく、自分が何を考えているのかわからなくなる。
楽しいときにも笑うし、悲しいときにも笑う。
困ったときにも笑うし、誰かを安心させたいときにも笑う。
笑顔は便利だった。
何を隠していても、表面だけはそれらしく整えてくれる。
けれど、小柳くんは時々、その表面を簡単に見抜く。
「……今日さ」
俺は窓の外を見たまま言った。
「ちょっとだけ、怖くなったんだよね」
「何が」
「この先のこと」
小柳くんは何も言わなかった。
だから俺は続けた。
「今は、こうしてみんなと話したり、笑ったり、歌ったりできてる。でも、これがいつまで続くのかなって。明日も同じようにできるのかなって。俺がいなくても、誰も困らないんじゃないかなって」
雨の音が強くなった。
まるで、俺の言葉を隠そうとしてくれているみたいだった。
「そんなこと考えるんだな」
「考えるよ。俺だって人間だからね」
「……そうか」
小柳くんは、しばらく黙っていた。
励ましの言葉を探しているのかもしれない。
でも、俺は別に励ましてほしかったわけじゃなかった。
ただ、誰かに聞いてほしかった。
自分の中で形にならないまま沈んでいたものを、少しだけ外に出したかった。
「俺も、怖い」
小柳くんが言った。
「え?」
「先のこと。自分がどこまでやれるのかとか、いつまで必要とされるのかとか。誰かに期待されるのは嬉しい。でも、期待されるほど、応えられなかったときが怖くなる」
小柳くんは窓の外を見ていた。
彼の横顔は、普段より少しだけ幼く見えた。
「だから、星導だけじゃない」
「……小柳くんも怖いんだ」
「俺だって怖い」
「なんか意外」
「お前、さっきからそればっかだな」
「だって小柳くん、何でもできそうに見えるから」
「できない」
「できるよ」
「できない。できないから、やってる」
その言葉が、胸の奥に残った。
できるから続けるのではなく、できないから続ける。
届かないから手を伸ばす。
暗いから、灯りを探す。
そんなふうにして、俺たちはここまで来たのだろうか。
「星導」
「なに?」
「俺は、星導がいなくなったら困る」
俺は、ゆっくり小柳くんのほうを見た。
「……それ、かなり重い告白だね」
「茶化すな」
「ごめん」
「本当に困る。配信でも、仕事でも、そうじゃなくても。星導がいないと、俺はたぶん、今よりつまらない」
小柳くんは、照れた様子もなく言った。
だから余計に、胸が痛くなった。
「俺は小柳くんがいなくても、たぶん生きてはいけるよ」
「急に冷たいな」
「でも」
俺は言葉を探した。
うまく言える自信はなかった。
それでも、言わなければならない気がした。
「小柳くんがいない毎日は、きっと生きていけるだけの毎日になる」
小柳くんは黙った。
俺も黙った。
雨はまだ止まなかった。
けれど、その夜の雨は、もう一人で聞いている音ではなかった。
第二章 〜 届 か な い 星 〜
数日後、俺たちは小さなライブのリハーサルをしていた。
本番まであと一週間。
照明、音響、立ち位置、進行。
何度も繰り返しているはずなのに、細かいところで引っかかる。
「星導、そこ一拍早い」
「えっ、今の?」
「今の」
「小柳くん、よくわかるね」
「お前がわからなすぎる」
「褒めてる?」
「褒めてない」
ステージの上で、俺たちは何度も同じ場所を行き来した。
音楽が流れ、止まり、また流れる。
照明が点き、消える。
スタッフの声が飛び交う。
その忙しさの中にいると、不安を考える暇がなくなる。
だから俺は、リハーサルが好きだった。
決められた場所に立ち、決められたタイミングで声を出す。
少なくとも、その瞬間だけは、自分が何をすればいいのかわかる。
「星導、顔が硬い」
「緊張してるからね」
「まだ本番じゃないぞ」
「本番の練習をしてるから、本番の緊張を練習してる」
「意味わからない」
「人生もだいたいそういうものだよ」
小柳くんは呆れたように首を振った。
でも、その口元は少し笑っていた。
休憩に入ると、俺たちはステージの端に並んで座った。
客席には誰もいない。
無数の椅子が暗闇の中に沈んでいる。
誰かが来る場所。
誰かに届く場所。
誰かの時間を預かる場所。
まだ空っぽなのに、そこにはもう期待の気配があった。
「なあ、星導」
「うん」
「もし、本番で失敗したらどうする」
「泣く」
「泣くのか」
「小柳くんが慰めてくれるまで泣く」
「俺のせいにするな」
「じゃあ、小柳くんが先に失敗して」
「なんでだよ」
「俺が慰めるから」
「お前に慰められると、余計に不安になる」
「ひどいね」
「事実だ」
しばらく、俺たちは客席を見ていた。
空っぽの椅子は、目を閉じている観客みたいだった。
「俺さ」
小柳くんが言った。
「昔、ステージに立つ人って、怖くないんだと思ってた」
「小柳くんが?」
「子どもの頃の話だ。歌ってる人も、喋ってる人も、みんな自信満々で、何も怖くなくて、だからあんな場所に立てるんだと思ってた」
「違った?」
「違った。怖いまま立ってる」
俺は小柳くんを見た。
「怖いまま?」
「ああ。足が震えても、声が出なくなりそうでも、逃げたいと思っても、それでも立つ。たぶん、それがステージに立つってことなんだと思う」
その言葉は、静かだった。
でも、客席よりもずっと広く響いた。
俺は、自分が立っている場所を見下ろした。
黒い床。
白いテープ。
何度も踏みしめた跡。
ここに立つたび、俺は自分を大きく見せようとしてきた。
迷っていないふりをして。
不安なんてないふりをして。
誰かを導けるような顔をして。
けれど、本当は俺もずっと迷っている。
何が正解なのか。
何を望まれているのか。
何を返せばいいのか。
時々、声を出すことさえ怖くなる。
自分の言葉が誰かに届かなかったら。
自分の存在が誰かの記憶に残らなかったら。
その恐怖を隠すために、俺は冗談を言う。
笑って、ふざけて、軽く見せる。
でも、軽くなったことなんて一度もない。
「星導」
小柳くんが俺の名前を呼んだ。
「なに?」
「お前は、怖いままでもいいと思う」
「……何それ」
「怖くないふりをしなくていいってことだ」
「そんなことしたら、格好悪いよ」
「別に」
「小柳くんは、俺が格好悪くてもいいの?」
「俺は、格好悪い星導も知ってる」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
「知ってるんだ」
「知ってる」
「いつから?」
「最初から」
小柳くんは、客席を見たまま答えた。
「お前は最初から、格好よくなんかなかった」
「ええ、ひどい」
「でも、だから見てた」
俺は言葉を失った。
「完璧じゃないのに、完璧みたいな顔をして、失敗したら笑ってごまかして、それでも次はちゃんとやろうとする。そういうところを見てた」
小柳くんは、ゆっくりこちらを向いた。
「星導は、届かないものに手を伸ばすだろ」
「……そうかな」
「ああ。何度も見た」
「届かないのに?」
「届かないからだろ」
その瞬間、客席の照明が突然点いた。
眩しさに目を細める。
暗闇に慣れていた視界の中で、光はあまりにも強かった。
それでも、俺は目を逸らさなかった。
届かないものを見つめるように。
第三章 〜さ よ な ら の 練 習 〜
本番三日前、小柳くんが体調を崩した。
大したことではない、と本人は言った。
少し熱があって、喉が痛くて、身体が重いだけ。
けれど、画面越しでもわかるくらい顔色が悪かった。
「休んで」
「休んでる」
「じゃあ、もっと休んで」
「星導に言われると休みたくなくなるな」
「なんで?」
「お前が心配そうな顔をするから」
「俺、心配そうな顔してる?」
「してる」
「小柳くんのほうがよく見てるじゃん」
「だから見てるって言ってるだろ」
画面の向こうで、小柳くんが少し笑った。
でも、その笑顔は弱かった。
「本番、出られるかな」
小柳くんが言った。
俺はすぐに答えられなかった。
「出られるよ」
「即答だな」
「出てもらわないと困るから」
「正直だな」
「小柳くんがいないと、俺の生きていけるだけの毎日になるから」
「あれ、まだ覚えてたのか」
「忘れるわけないでしょ」
小柳くんは、しばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「もし、出られなかったら」
「うん」
「星導が一人でやってくれ」
「……」
「できるだろ」
「できるよ」
俺は答えた。
「できるけど、やりたくない」
「そう言うと思った」
「小柳くんがいないなら、俺が立つ意味が変わる」
「意味はある」
「小柳くんが決めないで」
思ったより強い声が出た。
小柳くんの表情が変わる。
俺は、自分でも驚いていた。
「ごめん」
「いや」
「でも、俺はそう思う。小柳くんがいなくてもやれるかもしれない。代わりに喋ることも、歌うことも、笑うこともできる。でも、それは小柳くんと一緒にやるものとは違う」
「星導」
「俺は、小柳くんの代わりにはなれない。小柳くんも、俺の代わりにはなれない。だから、二人でやるんじゃないの?」
画面の向こうで、小柳くんが目を伏せた。
しばらくして、彼は言った。
「俺は、怖いんだ」
「何が?」
「本番に出られないことじゃない。出られないことで、星導に迷惑をかけることが怖い」
「迷惑じゃない」
「でも、穴を開ける」
「それは小柳くんが悪いんじゃない」
「わかってる。でも、俺は星導と並びたい」
声が少し震えていた。
「並べなくなったら、俺はどうしたらいい」
俺は、画面に手を伸ばした。
当然、触れられるはずはない。
指先は冷たい画面に当たっただけだった。
それでも、そこに小柳くんがいることだけはわかった。
「小柳くん」
「なんだ」
「並ぶって、同じ場所に立つことだけじゃないよ」
「……」
「俺がステージに立って、小柳くんが客席にいたとしても。小柳くんが声を出せなくて、俺がその分喋ったとしても。俺たちが同じ瞬間に同じことをできなくても」
一度、息を吸う。
「俺は小柳くんの隣にいる」
小柳くんは顔を上げた。
「勝手に?」
「勝手に」
「俺がいなくても?」
「いなくても」
「俺が遠くにいても?」
「遠くにいても」
「俺が、星導の隣に立てなくなっても?」
俺は、ゆっくり笑った。
「じゃあ、俺が小柳くんのところまで行く」
「どうやって」
「わからないけど、行く」
「無茶苦茶だな」
「小柳くんに言われたくない」
「俺は無茶苦茶じゃない」
「今、すごく無茶苦茶な顔してるよ」
「どんな顔だ」
「泣きそうな顔」
「星導もだろ」
「俺はいつもこういう顔」
「嘘つけ」
小柳くんは、笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
その夜、俺たちは本番の曲を一度だけ通した。
小柳くんは歌わなかった。
俺が歌って、小柳くんは画面の向こうで聴いていた。
不思議だった。
いつもなら隣にあるはずの声がない。
その空白は大きく、そして痛かった。
けれど同時に、その空白の中に小柳くんの存在があった。
歌い終わったあと、しばらく誰も話さなかった。
「どうだった?」
俺が聞くと、小柳くんは答えた。
「一人だと、下手だな」
「ひどい」
「でも」
「うん」
「星導の声、ちゃんと届いてた」
その言葉で、俺はようやく息を吐いた。
届いていた。
たとえ隣にいなくても。
たとえ同じ場所に立てなくても。
声は、距離を越えることがある。
第四章 〜 光 の 向 こ う 側 〜
本番当日。
小柳くんは、ステージに立った。
まだ本調子ではなかった。
顔色は少し悪いし、声も普段よりかすれている。
それでも、彼はそこにいた。
「無理してない?」
開演前、俺が聞いた。
「してる」
「正直だね」
「でも、無理してでも立ちたい日がある」
小柳くんは衣装の袖を整えた。
その手が、ほんの少し震えている。
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
「そうは見えない」
「俺はいつも格好いいから」
「嘘つけ」
「小柳くん、俺のこと格好悪いって言ったじゃん」
「今もそう思ってる」
「じゃあ、ちょうどいいね」
「何が」
「格好悪い二人で、行こう」
小柳くんは一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「行くか」
「うん」
ステージ袖から見える客席には、たくさんの人がいた。
俺たちを待っている人。
今日という日を楽しみにしてくれていた人。
遠くからでも、同じ時間を共有しようとしてくれている人。
その景色を見た瞬間、怖さが消えたわけではない。
足の震えも、胸の鼓動も、喉の渇きも消えなかった。
ただ、それ以上に強いものがあった。
ここに来てくれた人たちに、何かを返したい。
俺たちを見つけてくれたこと。
声を聞いてくれたこと。
笑ってくれたこと。
時には、泣いてくれたこと。
その全部に、返せるものがあるなら。
「星導」
「なに?」
「先に行け」
「小柳くんは?」
「すぐ行く」
「置いていかないよ」
「知ってる」
小柳くんは、俺の手首を掴んだ。
強くはない。
けれど、確かな力だった。
「星導」
「うん」
「今日は、俺がいる」
その言葉は、あの日の雨の中で聞いた言葉とよく似ていた。
俺は小柳くんを見た。
「俺もいるよ」
「知ってる」
俺たちはステージへ出た。
光が降ってきた。
客席が見えなくなるほどの強い光。
それでも、声は聞こえた。
歓声。
拍手。
名前を呼ぶ声。
俺たちの名前が、いくつもの声に分かれて、ひとつの大きな波になって押し寄せてくる。
胸の奥が熱くなった。
小柳くんが隣に立つ。
俺はマイクを握った。
「今日は来てくれて、ありがとうございます」
声が少し震えた。
でも、聞こえた。
誰かが笑ってくれた。
小柳くんが続ける。
「俺たちの声が、ここにいる全員に届くように」
彼の声は少しかすれていた。
それでも、まっすぐだった。
曲が始まる。
一音目が鳴った瞬間、世界が変わった。
練習では何度も聴いた音。
何度も合わせたリズム。
何度も確認した振り。
それなのに、本番の音はまったく違っていた。
客席の呼吸が混ざっている。
手拍子が重なっている。
誰かの声が、誰かの涙が、誰かの願いが、音楽の中に溶けている。
俺は歌った。
隣で、小柳くんも歌った。
声は完全ではなかった。
時々、掠れた。
音が少し揺れた。
呼吸が苦しそうになる瞬間もあった。
それでも、その声は綺麗だった。
綺麗というより、強かった。
傷ついても、迷っても、怖くても、ここに立つと決めた人間の声だった。
俺は歌いながら、小柳くんを見る。
小柳くんも、こちらを見ていた。
目が合う。
それだけで、次の音がわかった。
次にどこへ行くのか。
どこで息を吸うのか。
どこで声を重ねるのか。
言葉なんて必要なかった。
俺たちはたぶん、ずっとこうしてきた。
互いの足りないところを埋めるのではなく、互いの足りなさごと抱えて、同じ場所に立ってきた。
完璧じゃないから、隣に立てる。
迷うから、同じ方向を探せる。
怖いから、手を伸ばせる。
曲が終わる。
拍手が降る。
俺は息を切らしながら、客席を見た。
そこには、泣いている人がいた。
笑っている人がいた。
目を閉じて、音を受け止めている人がいた。
そのすべてが、俺たちの時間を受け取ってくれていた。
「小柳くん」
「なんだ」
「今、泣いた?」
「泣いてない」
「泣いたよね」
「汗だ」
「顔から出る汗?」
「出るだろ」
「涙って言うんだよ、それ」
小柳くんは、笑いながら俺の肩を軽く叩いた。
その瞬間、客席からさらに大きな歓声が上がった。
俺たちは顔を見合わせる。
笑った。
ステージの上で。
光の中で。
不安も、恐怖も、言えなかった言葉も、全部抱えたまま。
それでも、笑った。
第五章 〜 星 の な い 夜 に 〜
終演後、楽屋に戻っても、しばらく誰も話さなかった。
身体は疲れている。
喉は痛い。
髪も衣装も乱れている。
けれど、胸の奥だけが妙に冴えていた。
まだステージの光が残っている。
まだ客席の声が聞こえている。
「終わったな」
小柳くんが言った。
「終わったね」
「疲れた」
「うん」
「星導、今日ずっと俺のこと見てたな」
「見てた?」
「見てた」
「見てたよ」
「なんで」
「小柳くんがちゃんといるか確認してた」
「子どもじゃないんだから」
「でも、いなくなるかもしれないと思ったから」
小柳くんは黙った。
俺は、自分の膝の上に置いた手を見た。
「本番前、怖かったんだよね」
「何が」
「もし小柳くんが途中で倒れたら。もし声が出なくなったら。もし、俺がちゃんと支えられなかったら」
「支えられてた」
「そうかな」
「そうだ」
「俺、何もできてなかった気がする」
「星導」
小柳くんが、俺の名前を呼ぶ。
いつもより低く、静かな声だった。
「お前は何もしなくても、隣にいた」
「それだけ?」
「それが一番大事なこともある」
俺は顔を上げた。
小柳くんはまっすぐ俺を見ていた。
「俺が声を出せなくなったら、お前が歌ってくれると思った。俺が倒れそうになったら、お前が気づくと思った。俺が迷ったら、お前がふざけて、いつもの場所に戻してくれると思った」
「俺、ふざけることしかできないみたいじゃん」
「でも、それで何度も助かった」
「……そっか」
「だから、星導が何か特別なことをしなくてもいい」
小柳くんは、少しだけ目を伏せた。
「いるだけでいい」
その言葉は、昔の俺なら信じられなかったと思う。
何かをしなければいけない。
役に立たなければいけない。
誰かに必要とされなければいけない。
そんなふうに思っていた。
存在するだけでは足りないと。
けれど、あの日の雨の中で、小柳くんが言った。
俺は星導を見ている、と。
今日、ステージの上で、俺たちは不完全なまま声を重ねた。
その結果、誰かが笑ってくれた。
誰かが泣いてくれた。
それなら、存在することは、思っていたよりずっと大きなことなのかもしれない。
「小柳くん」
「なんだ」
「俺、小柳くんがいなくなったら困るって言ったよね」
「ああ」
「でも、ちょっと訂正する」
「何を」
「小柳くんがいないと生きていけない、っていうのは違う」
「……」
「俺は、小柳くんがいなくても生きていける。たぶん、笑うこともできるし、歌うこともできる。新しい人と出会って、新しい場所に行って、そうやって進んでいくと思う」
小柳くんは黙って聞いていた。
「でも、小柳くんと一緒に見た景色は、小柳くんとしか見られない」
「……」
「小柳くんと一緒に立ったステージも、小柳くんと分けた時間も、俺の中に残る。だから、いなくなったら困るんじゃなくて……一緒にいたことを、なかったことにしたくない」
言い終えたあと、楽屋がひどく静かになった。
小柳くんは、すぐには答えなかった。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「俺も同じだ」
「本当に?」
「ああ」
「小柳くん、俺と同じこと言うの嫌がりそうなのに」
「別に嫌じゃない」
「珍しいね」
「星導」
「はい」
「俺は、お前と出会ったことを後悔しない」
胸の奥に、何かが落ちた。
それは痛みではなかった。
長い間、探していたものが、ようやく静かな場所に収まったような感覚だった。
「……それ、ずるいな」
「何が」
「そんなこと言われたら、俺も何か返さないといけなくなる」
「返さなくていい」
「でも返したい」
俺は笑った。
今度の笑顔は、何かを隠すためのものではなかった。
「小柳くんと出会えてよかった」
小柳くんは目を逸らした。
「……そうか」
「うん」
「俺も」
「本当に?」
「何度も言わせるな」
「聞きたいから」
「俺も、星導と出会えてよかった」
その言葉を聞いて、俺はようやく、泣いた。
涙は止められなかった。
笑ってごまかすこともできなかった。
小柳くんは何も言わず、ただ隣に座っていた。
肩が触れる距離。
それだけで十分だった。
第六章〜明 日 へ 行 く 〜
帰る頃には、雨が降っていた。
あの日と同じような雨だった。
街の灯りが濡れた道路に滲んでいる。
俺たちは建物の前で、一本の傘を開いた。
小柳くんの傘は、やっぱり小さかった。
「これ、相合い傘じゃない?」
俺が言うと、小柳くんはため息をついた。
「違う」
「じゃあ何?」
「雨を避けるための傘」
「二人で入ってるけど」
「結果的にそうなってるだけだ」
「結果的に相合い傘だね」
「うるさい」
肩が触れる。
歩幅を合わせる。
どちらかが速く歩けば、どちらかが濡れる。
だから、自然と同じ速さになる。
雨音が傘の上で弾けていた。
「なあ、星導」
「うん」
「次は、もっとちゃんと歌いたい」
「今日もちゃんとしてたよ」
「もっとだ」
「じゃあ、俺ももっとちゃんと歌う」
「お前はまず、入りのタイミングを合わせろ」
「小柳くんが俺に合わせてくれればいいじゃん」
「なんで俺が」
「俺のほうが可愛いから」
「関係ないだろ」
「可愛いは正義だよ」
「意味わからない」
いつもの会話だった。
くだらなくて、くだらないからこそ大切な会話。
それをしながら、俺たちは夜の街を歩いた。
ふと、雲の切れ間から月が見えた。
星は見えない。
街の明かりが強すぎるから。
それでも、俺は空を見上げた。
星が見えない夜にも、星はそこにある。
見えないからといって、消えたわけではない。
遠くにいるからといって、いなくなったわけではない。
誰かの声が聞こえない日にも、その人がくれた言葉は残る。
隣に立てない日にも、一緒に見た景色は消えない。
だから俺は、これから先も怖がりながら進める。
迷いながら、手を伸ばせる。
届かないものを、届かないまま信じられる。
「小柳くん」
「なんだ」
「俺たち、いつまで一緒にいられるかな」
小柳くんは、すぐには答えなかった。
雨の向こうを見ていた。
やがて、傘の柄を握り直す。
「いつまでかは知らない」
「うん」
「でも、明日は一緒にいられる」
「……うん」
「その次の日も、たぶん」
「たぶんなんだ」
「未来のことはわからないからな」
「小柳くんらしいね」
「でも、わからないから約束できないってことじゃない」
彼は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「明日になったら、また隣に立つ。次の日も、立てるなら立つ。離れても、戻れるなら戻る。そうやっていけばいい」
俺は、小柳くんの横顔を見た。
「それ、約束?」
「約束だ」
「じゃあ俺も約束する」
「何を」
「俺は、明日も小柳くんを見つける」
「簡単だろ」
「人混みの中でも、暗闇の中でも、声が聞こえなくても?」
「見つけられるのか」
「見つけるよ」
俺は笑った。
「だって小柳くんは、俺がいなくなったら困るんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、俺も困らせないようにする」
「意味が違うだろ」
「いいの。俺たちの約束だから」
雨はまだ降っていた。
けれど、もう嫌ではなかった。
第七章 〜 朝 の な い 場 所 〜
翌朝、目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。
夜が明けているのか、それとも雲が厚すぎて朝の光が届いていないのか、よくわからない。
枕元のスマートフォンを見る。
通知がいくつか届いていた。
仕事の連絡。
昨夜の反響。
スタッフからの確認事項。
そして、小柳くんからの短いメッセージ。
起きてるか
俺は少し考えてから返信した。
起きてるよ。小柳くんは?
すぐに既読がついた。
起きてる
今日、声は出る
えらいね
子ども扱いするな
じゃあ、すごいね
それも違う
たったそれだけのやりとりなのに、胸の奥があたたかくなる。
昨夜、小柳くんと別れたあと、俺は何度も空を見上げた。
星は見えなかった。
でも、見えない場所にあるものを信じるというのは、思っていたより難しくなかった。
小柳くんの声を知っている。
小柳くんの歩幅を知っている。
小柳くんが緊張したとき、ほんの少しだけ指を握り込むことを知っている。
笑っているように見えて、本当は不安なとき、視線が一度だけ左に流れることも知っている。
だから、姿が見えなくても、彼がどこにいるのか想像できた。
それは、星と少し似ていた。
見えない時間があっても、消えたわけではない。
「今日は、何時から?」
小柳くんからメッセージが届く。
午後から。小柳くんは?
同じ
じゃあ、昼に会おう
少し間を置いてから、続けて送る。
一緒に昼ごはん食べよう
既読がつくまで、いつもより時間がかかった。
いいぞ
たった四文字。
けれど、それだけで今日が始まった気がした。
昼過ぎ、待ち合わせ場所に着くと、小柳くんはすでに来ていた。
「早いね」
「星導が遅い」
「約束の時間の五分前だけど」
「俺は十五分前に来た」
「それは小柳くんが早すぎる」
「遅れるよりいい」
「じゃあ、次から俺も十五分前に来るよ」
「無理だろ」
「失礼だなあ」
「お前は五分前に来て、五分前に来たことを遅刻してないから偉いと思ってるタイプだ」
「よくわかってるね」
「見てるからな」
また、その言葉だった。
何気なく言っているようで、俺の中には深く残る。
見ている。
その人がそこにいることを、ちゃんと認める言葉。
俺は小柳くんの隣に並んだ。
「何食べる?」
「星導が決めろ」
「なんでもいい?」
「なんでもいい」
「じゃあ、辛いもの」
「俺、喉」
「あ」
「お前、本当に俺を見てるのか?」
「見てるよ。見てるけど、細かいところまでは見てない」
「それは見てないって言うんだ」
俺たちは適当な店に入り、向かい合って座った。
注文を済ませると、小柳くんは水を一口飲んだ。
昨夜のステージの疲れが残っているのか、いつもより動きがゆっくりだった。
「体調、大丈夫?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「無理してない?」
「してる」
「昨日もそう言ってた」
「昨日は無理してた。今日は昨日よりましだ」
「じゃあ、明日は?」
「明日はもっとましになる」
「その次は?」
「たぶん」
俺は笑った。
「たぶんばっかりだね」
「未来はわからないからな」
「でも、明日にはいる」
「いる」
「その次も?」
「いられるなら」
小柳くんは、そう言ってから少しだけ目を伏せた。
俺はその横顔を見ながら、昨夜の約束を思い出していた。
明日は一緒にいられる。
次の日も、たぶん。
離れても、戻れるなら戻る。
確かに、それは優しい約束だった。
けれど同時に、少しだけ怖かった。
いつか、戻れない日が来るかもしれない。
いつか、隣に立てない日が来るかもしれない。
約束を交わすということは、未来を信じることだけではない。
未来が変わる可能性を知りながら、それでも今を大切にすると決めることだ。
「星導」
「なに?」
「また考え込んでる」
「考えてないよ」
「嘘」
「小柳くん、俺のこと見すぎじゃない?」
「お互い様だろ」
「じゃあ、今俺が何を考えてるか当てて」
「嫌だ」
「なんで?」
「当てたら、また重い話になる」
「重い話、嫌い?」
「嫌いじゃない」
小柳くんは、テーブルの上に置いた自分の手を見た。
「ただ、星導が一人で重くするから」
「俺が?」
「何でも一人で抱えて、一人で考えて、一人で勝手に疲れてる」
「そんなことないよ」
「ある」
「小柳くんもでしょ」
「俺はいい」
「なんで?」
「俺はそういう性格だから」
「それ、俺も同じこと言えるよ」
「言わせない」
「ずるい」
「星導」
名前を呼ばれた。
その声が、少しだけ強かった。
俺は口を閉じる。
「一人で抱えるな」
小柳くんは、俺を見た。
「俺に言え」
「言ったら、困らせるかもしれない」
「困る」
「ほら」
「でも、困ったままにしてくれ」
その言葉が、あまりにも小柳くんらしくて、俺は返事を忘れた。
「困らせてもいい。面倒でもいい。どうしようもなくてもいい。俺は、星導が何も言わずに遠くへ行くほうが嫌だ」
「……遠くへ行かないよ」
「約束か?」
「約束」
「なら、言え」
俺は、テーブルの下で指を握った。
口にするのは怖かった。
けれど、今度は逃げたくなかった。
「俺はね」
声が少し掠れる。
「昨日、ずっと怖かった」
「本番?」
「うん。本番もそうだけど、そのあとが」
小柳くんは黙っている。
「ライブが終わって、今日になって、また普通の日に戻るのが怖かった。昨日はあんなにたくさんの人が俺たちを見てくれて、声を聞いてくれて、必要としてくれているように感じたのに、朝になったら全部なくなる気がした」
「なくなってない」
「わかってる。頭ではわかってる。でも、感動とか、嬉しさとか、そういうものって、終わった瞬間に夢みたいになることがあるから」
俺は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「俺は、夢から覚めるのが苦手なんだと思う」
小柳くんは、しばらく何も言わなかった。
やがて、テーブルの上に置いていた自分のスマートフォンを伏せた。
「昨日のこと、俺は覚えてる」
「うん」
「星導が最初に客席を見たとき、息を吸い直したことも。二曲目の途中で、俺のほうを見たことも。最後に、笑いながら泣いてたことも」
「……見すぎじゃない?」
「言っただろ」
小柳くんは、ほんの少しだけ笑った。
「俺が覚えてる。だから、夢じゃない」
胸の中で、何かがほどけていく。
「あの時間が消えるのが怖いなら、俺が覚えてる。星導が忘れても、俺が覚えてる」
「小柳くんが忘れたら?」
「そのときは、お前が覚えてろ」
「俺も忘れたら?」
「じゃあ、二人で思い出す」
「思い出せなかったら?」
「また作る」
料理が運ばれてきた。
湯気が立ち上り、話の続きを一度隠す。
けれど、言葉は消えなかった。
また作る。
その一言が、未来に小さな灯りを置いた。
第八章 〜忘 れ な い た め の 歌 〜
それから数週間、俺たちは忙しい日々を過ごした。
収録。
打ち合わせ。
配信。
練習。
移動。
また収録。
予定表は文字で埋まり、休日はほとんどなくなった。
それでも、以前とは少し違った。
疲れたときに、疲れたと言えるようになった。
不安なときに、不安だと言えるようになった。
「今日、俺ちょっと無理かも」
そう言うと、小柳くんは決まって、
「じゃあ、無理じゃないところまでやる」
と答えた。
「どこまで?」
「ここまで」
「具体性がないね」
「具体的にしすぎると、できなかったとき困るだろ」
「小柳くん、案外優しい」
「案外は余計だ」
ある夜、俺たちは二人で新しい曲のデモを聴いていた。
まだ歌詞も完成していない。
音も仮のものだ。
けれど、旋律にはどこか懐かしい響きがあった。
夜明け前の街を歩くような曲。
明るくはない。
でも、完全な暗闇でもない。
遠くに小さな光が見える。
そこへ向かっているのか、ただ光があるだけなのか、それすらわからない。
「この曲、好きだな」
小柳くんが言った。
「俺も」
「歌詞、どうする」
「小柳くんが書けば?」
「俺は書かない」
「じゃあ、俺が書く」
「書けるのか」
「書けるよ」
「今までの歌詞、だいたい勢いだっただろ」
「勢いも才能だから」
「自分で言うな」
俺は紙を取り出し、鉛筆を握った。
白い紙の上に、いくつか言葉を書いては消す。
星。
雨。
光。
隣。
明日。
どれもありきたりで、どれも自分の中に残っている言葉だった。
「何を書いてる」
「小柳くんに見られてる」
「見てる」
「まだ途中だから、見ないで」
「書けと言ったのは俺だ」
「だからって、すぐ見るのは違うでしょ」
「わかった」
小柳くんは視線を逸らした。
その素直さがおかしくて、俺は少し笑った。
「ねえ、小柳くん」
「なんだ」
「もしこの曲が完成したら、どんな人に聴いてほしい?」
「どんな人でも」
「広いね」
「どんな人でもいい。楽しい人も、悲しい人も、何も感じられない人も」
小柳くんは、少し考えてから続けた。
「自分が一人だと思ってる人に聴いてほしい」
俺の鉛筆が止まった。
「一人だと思ってる人?」
「ああ。周りに人がいても、誰かと話していても、どうしても一人だと思ってしまう人。そういう人が、少しだけ立ち止まれる曲にしたい」
「立ち止まる?」
「すぐに前を向かなくてもいいって思えるような。泣いてもいいし、何もできなくてもいい。でも、明日まで生きてみるかって思えるような曲」
その言葉を聞きながら、俺は紙の上に新しい言葉を書いた。
明日まで、ここにいて
「……それ、いいな」
小柳くんが言った。
「見ないでって言ったのに」
「見えた」
「見たんじゃん」
「目に入っただけだ」
「同じだよ」
俺は紙を隠すように胸元へ寄せた。
「小柳くんは?」
「何が」
「どんな言葉を書きたい?」
小柳くんは、しばらく考えた。
「忘れない、かな」
「何を?」
「今ここにいること」
彼は、窓の外を見た。
そこには夜の街があった。
ビルの窓に灯りが並んでいる。
一つ一つの灯りの中に、誰かの生活がある。
眠れない人。
仕事をしている人。
帰りを待っている人。
誰かに会いたい人。
誰かを思い出している人。
それぞれが別々の場所にいる。
けれど、同じ夜の中にいる。
「人って、すぐ忘れるだろ」
小柳くんが言った。
「嬉しかったことも、苦しかったことも。毎日が来ると、前の日の気持ちが薄くなっていく」
「うん」
「だから、忘れないための歌がほしい」
俺は、紙にもう一行書いた。
忘れても、消えないように
小柳くんはその文字を見て、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その夜、俺たちは朝まで歌詞を書いた。
言葉を出して、消して、また書いた。
自分たちのためなのか、誰かのためなのか、途中からわからなくなった。
でも、それでよかった。
歌は、作った人の手を離れて初めて、誰かのものになる。
俺たちが忘れてしまった感情も、誰かが拾ってくれるかもしれない。
俺たちが言えなかった言葉も、誰かの心の中で声になるかもしれない。
だから歌う。
明日までここにいて、と。
一人ではない、と。
忘れても、消えない、と。
第九章 〜 離 れ る 練 習 〜
季節が変わる頃、小柳くんが遠方の仕事に行くことになった。
数日間、会えない。
それだけのことなのに、俺は妙に落ち着かなかった。
「たった数日だよ」
「わかってる」
「毎日連絡する」
「うん」
「何かあったら言え」
「小柳くんもね」
「俺は大丈夫」
「それ、信用できない」
「なんでだ」
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないから」
小柳くんは、荷物をまとめながらこちらを見た。
「星導もだろ」
「俺はちゃんと大丈夫じゃないって言うよ」
「最近はな」
その言い方に、少しだけ寂しさが混じっていた。
俺はそれに気づいた。
「小柳くん」
「なんだ」
「寂しい?」
「別に」
「寂しいんだ」
「別に」
「俺は寂しいよ」
小柳くんの手が止まった。
「……そうか」
「うん」
「数日だけだ」
「わかってる」
「すぐ戻る」
「うん」
「だから、そんな顔するな」
「どんな顔?」
「今にも泣きそうな顔」
「小柳くん、また見てる」
「見てる」
俺は、彼の荷物の中に何かを入れた。
小さな紙切れ。
折りたたんだ紙には、短い言葉を書いてある。
明日まで、ここにいて。
帰ってくるまで、俺もここにいる。
小柳くんはそれを見つけた。
「これは?」
「お守り」
「子どもか」
「嫌なら返して」
「返さない」
小柳くんは紙を丁寧に折り、財布の中にしまった。
その仕草を見ていると、胸が締めつけられた。
離れることは、別れることではない。
頭ではわかっている。
それでも、離れる瞬間にはいつも、小さな別れが含まれている。
今まで当たり前だったものが、少しだけ当たり前ではなくなる。
隣にいるはずの人が、隣にいなくなる。
声をかけようとして、そこにいないことに気づく。
そのたびに、心は現実を受け入れる練習をする。
「じゃあ、行く」
玄関で、小柳くんが言った。
「うん」
「星導」
「なに?」
「ちゃんと寝ろ」
「小柳くんも」
「食べろ」
「小柳くんも」
「無理するな」
「小柳くんも」
「……」
「言い返せないでしょ」
「お前が言うな」
小柳くんは靴を履いた。
ドアノブに手をかける。
その瞬間、俺は彼の服の袖を掴んだ。
「星導?」
「……行かないでって言ったら、困る?」
小柳くんは、驚いたように俺を見た。
俺も、自分でそんな言葉が出るとは思っていなかった。
「困る」
「やっぱり」
「でも、行く」
「うん」
「戻るために行く」
その言葉で、指の力が抜けた。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「ああ」
「小柳くん」
「なんだ」
「ちゃんと戻ってきてね」
小柳くんは、少しだけ黙った。
それから、俺の額を指先で軽く叩いた。
「戻る。約束しただろ」
ドアが閉まる。
静かになった部屋の中で、俺はしばらく立ち尽くしていた。
ほんの数秒前まで、そこに小柳くんがいた。
声も、気配も、体温も。
すべてが消えたように感じる。
けれど、机の上には二人分のグラスが置かれていた。
ソファには小柳くんの座った跡が残っている。
そして、俺の手の中には、彼の袖を掴んだ感触が残っていた。
消えたわけではない。
ただ、見えない場所に移っただけだ。
そう言い聞かせて、俺は一人の部屋で、作りかけの歌詞を開いた。
明日まで、ここにいて
帰ってくるまで、俺もここにいる
その言葉を見つめているうちに、少しだけ眠くなった。
俺は、灯りを消さなかった。
小柳くんが帰ってきたとき、暗い部屋にしないために。
第十章 〜 声 が届 く 距 離 〜
小柳くんが遠くへ行って三日目。
連絡が来なかった。
正確には、朝に一度だけ「起きた」と届いていた。
その後、何度メッセージを送っても返事がない。
忙しいだけだと思った。
仕事に集中しているだけ。
疲れて眠っているだけ。
そう思おうとした。
けれど、時間が経つほど不安は膨らんだ。
スマートフォンの画面を何度も確認する。
通知はない。
電話をかけるか迷った。
迷っている間に、さらに時間が過ぎた。
自分でも嫌になるくらい、心配性になっている。
以前なら、きっと我慢していた。
大丈夫だと決めつけて、一人で夜を越えようとしていた。
でも、俺は小柳くんに言われた。
一人で抱えるな。
だから、電話をかけた。
何度目かの呼び出し音のあと、小柳くんが出た。
「……星導?」
声が、ひどく疲れていた。
「小柳くん?」
「ああ」
「大丈夫?」
「大丈夫」
「嘘」
「……」
「声が変」
「ちょっと疲れただけだ」
「体調悪い?」
「少し」
「熱は?」
「測ってない」
「測って」
「今?」
「今」
「星導、俺は子どもじゃない」
「じゃあ測れるね」
「……わかった」
電話の向こうで、何かを探す音がした。
俺はその間、黙って待った。
やがて小柳くんが戻ってくる。
「三十七度八分」
「それ、少しじゃないよ」
「大したことない」
「病院は?」
「行ってない」
「行って」
「明日になったら」
「今日」
「星導」
「今日」
自分でも驚くほど、強い声だった。
電話の向こうで、小柳くんが黙る。
「……わかった」
「本当に?」
「ああ」
「一人で行ける?」
「行ける」
「誰かに連絡して」
「わかった」
「水分取って」
「わかった」
「薬は?」
「ある」
「食べた?」
「少し」
「何を?」
「ゼリー」
「それだけ?」
「それで十分だ」
「十分じゃない」
小柳くんは、弱く笑った。
「星導、母親みたいだな」
「小柳くんが心配させるからでしょ」
「悪かった」
「謝らなくていいから、ちゃんとして」
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい」
「よろしい」
電話を切ったあとも、俺は眠れなかった。
何度も時計を見た。
病院に行ったという連絡が来るまで、画面を伏せられなかった。
しばらくして、小柳くんからメッセージが届いた。
病院行った
大きな問題はない
今日は休む
俺はすぐに返した。
よかった
ちゃんと休んで
明日のことは考えなくていい
少しして、返信が来る。
星導
なに?
電話、繋いだままにできるか
その一文を見た瞬間、胸の奥が痛くなった。
小柳くんが、そんなことを頼むとは思わなかった。
いいよ
通話を繋ぐ。
しばらく、どちらも話さなかった。
遠く離れた場所にいる。
同じ部屋ではない。
同じ空気も、同じ雨音もない。
それでも、電話の向こうから小柳くんの呼吸が聞こえる。
それだけで、少し安心できた。
「星導」
「うん」
「そこにいるか」
「いるよ」
「そうか」
「小柳くんも?」
「ああ。ここにいる」
「じゃあ、大丈夫だね」
「ああ」
通話はしばらく続いた。
小柳くんが眠りに落ちるまで。
その寝息を聞きながら、俺は窓の外を見た。
空には、薄い雲がかかっていた。
星は見えない。
でも、そこにある。
小柳くんの声も、今は小さくて、遠い。
それでも届いている。
距離は、人を離すためだけにあるのではない。
離れていることを知りながら、それでも届くものがあると教えるためにあるのかもしれない。
俺は電話の向こうに向かって、小さく言った。
「おやすみ、小柳くん」
返事はなかった。
もう眠っているのだろう。
俺は通話を切らなかった。
朝まで、そこにいた。
第十一章 〜 戻 っ て き た 日 〜
小柳くんが戻ってきたのは、予定より一日遅れた日だった。
駅の改札を出てくる彼を見つけた瞬間、俺は走り出していた。
「星導」
「小柳くん!」
「走るな。転ぶぞ」
「小柳くんが遅いから」
「俺のせいか?」
「そうだよ」
「体調はもう平気だ」
「本当に?」
「本当だ」
「顔色は?」
「普通」
「声は?」
「普通」
「食欲は?」
「ある」
「ちゃんと食べた?」
「食べた」
「薬は?」
「飲んだ」
「偉い」
「だから子ども扱いするな」
「だって心配だったんだもん」
口にしてから、俺は少し恥ずかしくなった。
けれど小柳くんは、何も言わなかった。
ただ、俺のほうへ一歩近づいた。
「俺も」
「え?」
「心配だった」
「小柳くんが?」
「星導が、一人で変なこと考えてないか」
「……考えてた」
「だろうな」
「でも、電話繋いでくれたから」
「ああ」
「嬉しかった」
「そうか」
「小柳くんは?」
「何が」
「電話」
小柳くんは、少しだけ視線を逸らした。
「……俺も」
「何が?」
「嬉しかった」
その答えが可愛くて、俺は笑った。
「小柳くん、素直じゃん」
「今日はな」
「今日だけ?」
「たぶん」
「また、たぶん」
俺たちは並んで歩き始めた。
帰る場所は同じではない。
見たいものも、食べたいものも、眠る時間も違う。
それでも、帰り道の一部だけは同じだった。
「そういえば、歌詞」
小柳くんが言った。
「あれから進んだ?」
「進んだよ」
「見せてみろ」
俺はスマートフォンを取り出し、書きかけの歌詞を見せた。
小柳くんは歩きながら画面を眺める。
「どう?」
「いいんじゃないか」
「感想が短い」
「まだ途中だろ」
「だからこそ、もっと言ってよ」
小柳くんは画面を返した。
「最後のところ」
「うん」
「ここ、どういう意味だ」
そこには、こう書いてあった。
星が見えない夜にも
君の帰る場所は消えない
「そのままだよ」
「俺が帰る場所?」
「うん」
「星導のところ?」
俺は足を止めた。
小柳くんも立ち止まる。
街の雑踏が、俺たちの周りを流れていく。
誰も俺たちを見ていない。
誰も気にしていない。
それなのに、世界から切り離されたように感じた。
「小柳くんが帰りたいと思った場所なら、どこでもいいよ」
俺は言った。
「俺のところじゃなくても、誰かのところでも、ひとりで過ごす部屋でも。帰る場所は、自分で決めていい」
「星導」
「でも、もしその中に俺のところも入れてくれるなら」
一度、言葉を止める。
「俺は、いつでも灯りをつけておく」
小柳くんは何も言わなかった。
けれど、俺の手からスマートフォンを取ると、歌詞の一番下に新しい一行を打ち込んだ。
君が帰るまで、俺はここにいる
「勝手に追加しないでよ」
「いいだろ」
「俺の歌詞なのに」
「二人の曲だ」
「……そうだね」
俺たちはまた歩き始めた。
隣にいる。
それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
答えはたぶん、離れた時間を知っているからだ。
ずっと隣にいることよりも、離れても戻ってくることのほうが、時に強い。
なくならないと信じることよりも、なくなるかもしれないと知った上で、それでも大切にするほうが、きっと強い。
第十二章 〜 名 前 を 呼 ぶ 〜
その曲が完成したのは、さらに一ヶ月後だった。
タイトルは、最後まで決まらなかった。
候補を出しては却下し、言葉を並べては消した。
ある夜、二人で完成した音源を聴いた。
音が終わる。
余韻が残る。
小柳くんが、ぽつりと言った。
「タイトル、決めた」
「何?」
「『ここにいる』」
俺は、画面に表示された曲名を見た。
「普通だね」
「悪いか」
「悪くないよ」
「じゃあ、これでいい」
「うん」
『ここにいる』。
短い言葉だった。
でも、そこにはたくさんの意味があった。
生きていること。
迷っていること。
泣いていること。
笑っていること。
誰かを待っていること。
誰かに待たれていること。
光の中にいる人も。
暗闇の中にいる人も。
声を出せる人も。
声を失った人も。
誰かの隣にいる人も。
ひとりで夜を越えている人も。
全員に向けて、俺たちは歌う。
「ここにいる」と。
数日後、曲が公開された。
最初は、ただ数字が増えていくのを見ていた。
再生数。
コメント。
感想。
共有された言葉。
けれど、しばらくすると数字を見ることができなくなった。
そこに並んでいたのは、数字ではなかったからだ。
眠れない夜に聴きました。
明日まで生きてみようと思えました。
自分だけが取り残されている気がしていたけど、少しだけ安心しました。
ふたりの声が、ちゃんと隣にいるみたいでした。
帰る場所がないと思っていたけど、曲を聴いている間だけは帰れた気がします。
俺は画面を見つめたまま、動けなくなった。
小柳くんも、隣で黙っている。
「……届いたね」
俺が言うと、小柳くんは頷いた。
「ああ」
「俺たちの声」
「ああ」
「誰かのところまで」
「ああ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
感動したからではない。
嬉しかったからだけでもない。
自分たちが生きてきた時間の一部が、誰かの夜に灯りをともしている。
その事実が、あまりにも大きかった。
俺たちは、誰かを救えるほど立派ではない。
傷ついた人を、完全に治せるわけでもない。
悲しみを消すこともできない。
明日を保証することもできない。
それでも、隣にいることはできる。
同じ暗闇の中で、同じように怖がることはできる。
「小柳くん」
「なんだ」
「俺たち、すごいことしたね」
「そうだな」
「もっと驚いてよ」
「十分驚いてる」
「顔に出てない」
「星導は出すぎる」
「俺は感情豊かだから」
「うるさいだけだ」
「ひどい」
俺は笑った。
小柳くんも笑った。
その笑い声が、今度は誰かのためではなく、俺たち自身のために響いた。
第十三章 〜星 の な い 夜 に 、 君 と 灯 り を〜
それから何度も、夜が来た。
雨の日もあった。
晴れの日もあった。
星が見える夜も、見えない夜もあった。
俺たちは何度も離れた。
何度も戻った。
うまくいかない日もあった。
互いに余裕がなくて、つまらないことでぶつかる日もあった。
「小柳くん、今日冷たくない?」
「普通だ」
「普通より冷たい」
「星導がうるさいだけだ」
「俺がいないと寂しいくせに」
「それとこれとは別だ」
「じゃあ、今いなくなってみようか」
「勝手にしろ」
「本当に?」
「……」
「小柳くん?」
「帰ってくるなら、行ってもいい」
そんなふうに言われると、結局、どこにも行けなくなる。
俺たちは完璧ではなかった。
今も、完璧ではない。
これからも、たぶん完璧にはならない。
それでもいいと思えるようになった。
不安になるたびに、何かを証明しなくてもいい。
必要とされているか確かめるために、無理をしなくてもいい。
ただ、今日ここにいる。
それだけで、十分な日がある。
ある晩、俺たちはまた、あの小さな傘を開いて歩いていた。
雨の音は、以前と同じだった。
でも、俺の中にあるものは少し違っていた。
「星導」
「うん」
「空、見てるのか」
「見てる」
「星、見えないぞ」
「知ってる」
「じゃあ、何を見てる」
俺は、雲の向こうを見上げた。
「見えないもの」
「また難しいことを言う」
「小柳くんは、星が見えない夜でも、星があると思う?」
「あるだろ」
「見えないのに?」
「見えないからって、なくなるわけじゃない」
俺は笑った。
「あの日、俺が言ったこと覚えてたんだ」
END
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これ以上書いたらゆろさん死んじゃうのでこんな感じで終わらせてみました、
死んできます
コメント
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いやあ、11話一気に読んじゃったよ…!もうね、雨のシーンからずっと胸がぎゅってなってた。小柳くんの「見てる」って言葉がめちゃくちゃ刺さるんだよね。あの距離感、完璧じゃないからこそ隣に立てるみたいな関係性が最高だった。最後の「星が見えない夜にも、星はそこにある」ってところ、もう泣きそうになったわ。いい話をありがとう!ゆろさん、お疲れさま!